ルネサンス期の新しい治療法

先日(7日)の立教でのシンポジウム(「人知の営みを歴史に記す」)。午前中の二つの発表を聞いただけ(スカリゲルを扱った坂本邦暢氏のものと、フェルネル、シェキウス、ゼンネルトを取り上げたヒロ・ヒライ氏のもの)だし、ちょっと日にちも経ってしまったこともあり、細かな感想などは割愛するけれど(苦笑)、いずれにしても霊魂論あるいは発生論のような限定的な話題ながら、ルネサンス期の医学史の面白さは十分に伝えられていたように思う。もとより霊魂論や発生論は、天空論などコスモロジーをはじめ自然学全般の議論と深く関わるという意味で、なかなか壮大な見取り図が描ける面白いテーマではある。でも個人的には、医学史の別の領域とか、あるいはより実践的な側面などにもいっそうの興味が湧いてきた。そんなわけで、ここでやっているようなネットに転がっている文献の拾い読みも、少し範囲を拡大していこうかなとも思う次第。ルネサンスもやっぱ面白いよなあ。

ということで、今回はスタータ・ノートン「ルネサンス期の実験的治療法」というアーティクル(Stata Norton, Experimental Therapeutics in the Renaissance, Journal of Pharmacology and Experimental Therapeutics, vol. 304(2), 2003)(PDF はこちら)を取り上げよう。古典的文献を権威として仰ぐ一方で、観察的見地からそうした権威的記述の一部を修正していこうとする動きは、医療や薬学の分野ですでに中世盛期ごろから見られることはすでに何度か見てきているけれど、ルネサンス期にはそれがさらに実験による検証作業にまでいたるらしい。実際、同論考でも触れているように、パルケルススなどがその医療化学(iatrochemistry)において、一種の実験的検証に手を染めていたという話は有名だ(要するに錬金術師らによる応用化学としての製剤調合)。彼などはガレノス流の説明や薬草学的伝統に異義を唱えていたというのだけれど、その一方で、いわばもっと無名な医療行為者たちも、薬草治療のほかに合成・抽出した化学薬品(硫酸とか)なども使い始めていたらしいということで、同論文はヒエロニムス隠修士団(イタリアで1350年頃に成立し、医療行為に従事した隠修士団で、17世紀まで続く)を取り上げている。具体的には、ジョバンニ・アンドレア修道士なる人物が1562年にルッカで編纂した写本(400ページにわたって各種治療法が記されているという)を紹介しているのだけれど、そこにはやはり、伝統的な見識と当時の最新の知見との混在が見られるといい、とくにその新しい治療法の評価方法では、統計学的なものではないにせよ、因果関係を特定する上でそれなりに理に適った方法(と後世で認められるもの、具体的には再現性、関連性の強さ、特異性、時間的相関、傾度、蓋然性、証拠の無矛盾性、アナロジーによる推論など)が用いられているという。実験そのものによる検証も用いられ始めているというが、このあたり、例示されているものに関しては、現代的基準からするとなかなか素朴な(?)記述だったりもする。ま、それはそれで興味深いものではあるのだけれど(笑)。

6世紀の新プラトン主義の動向

エドワード・ワッツ「6世紀にはどこで哲学的生活を?ダマスキオス、シンプリキオス、そしてペルシアからの帰還」(Edward Watts, Where to Live the Philosophical Life in the Sixth Century? – Damascius, Simplicius, and the Return from Persia, Greek, Roman, and Byzantine Studies, vol.45(3), 2005)という論考を読む。アテネの新プラトン主義の一派の拠点(プラトン自身が創設したアカデメイアではなかったというのが最近の説らしい)が529年にユスティアヌス帝によって閉じられると、かしらだったダマスキオスやシンプリキオスなどはいったんササン朝ペルシアへと逃れ、532年にローマとペルシアの和平協定が結ばれた後に一行は帰還した……これが歴史家アガティアスが伝える話だが、では一行はどこに帰ったのか?というわけで、同論考はこの問いをめぐる考察。かつてミシェル・タルデュー(宗教学者、歴史家。邦訳だとマニ教 (文庫クセジュ)』(白水社)がある)は、一行が新拠点としたのはハラン(現トルコ、シリアとの国境近く)だとの説を唱え、これが大いにもてはやされたというけれど、現在ではその根拠が問い直されているようで(なにしろその根拠の一つは、中世アラビア世界の学者の証言だったりもするという)、同論考ではむしろ、一行は各地に存在した多神教コミュニティにそれぞれ散らばったのではないかとの見方を支持している。実際、新プラトン主義の学派は、地理的な連続性よりは学説そのものの連続性(継承性)に重きを置いていたともいわれ、また実際にキリスト教系の文献からは、530年代に規模も力も大きな多神教コミュニティが少なからず存在していたことが窺われるといい(ハランもそうしたコミュニティのあった都市の一つ)、彼らを受け入れる土壌は広く存在していただろうという。また、かしらだったダマスキオスが532年の時点で70代の高齢だった事実もあり、新たな学校の創設はあきらめ、弟子たちはそれぞれの道を求めて散っていったとするほうが理に適っているのではないか、と論文著者は記している。まあ、でもこのあたりは資料が乏しいそうだし、なかなか難しいところなのだろうなあ。

その後、新プラトン主義はたとえば6世紀中盤にはパレスチナの修道院コミュニティに影響を及ぼすなど、各地で拡がりを見せていくという。一方でシリアなどではアリストテレスの範疇論やガレノスの医学書、偽ディニュシオス文献などが翻訳で伝えられていく。そんな中、560年代以降はプラトンの文献そのものへの注目は薄れ、学生の便宜を図ってか「プロレゴメナ」(入門書)が多く作られるようになり、比率としてもアリストテレスが優勢になっていくらしい(ガレノスなどについても短縮版が作られるというのが可笑しい)。6世紀末から7世紀初めごろには、プラトンの教義を体系的に教えるということ自体がいったんなくなり、散発的にしか顧みられなくなっていくという……とまあ、これが地中海域全般での状況なのだとか。うーん、でもま、先に見た別の論考では、プラトン主義は9世紀以降にビザンツで息を吹き返すという話もあったし、そう簡単に葬られるわけではないのは確かだ。

wikipedia (en)より、ご存じユスティニアヌス帝の肖像画。ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画(部分)

エヒイェロギアにまつわる謎?

先週土曜(7日)、立教と上智でそれぞれ行われたシンポジウムをそれぞれ少しばかり覗いてみた。前者のほうについても後で感想などをまとめておきたいと思うけれど、とりあえずまずは後者について。聴講したのは「ハヤトロギアとエヒイェロギア」と題されたシンポジウム。ハヤトロギアといえば、宮本久雄『存在の季節―ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生
(知泉書館、2002)
を読んだのはもう随分前。その後の著作を追っているわけではないのだけれど(不勉強だが)、存在から「脱在」へというその思索を深化させているという話はどこからともなく聞き及んでいた。その脱在論というのが、今回のシンポジウムのタイトルにもある「エヒイェロギア」。もとになっているのは、シナイ山でモーセに告げられた神の名前「エヒイェ・アシェル・エヒイェ(わたしはあらんとしてある者なり)」で、西欧的なきわめてリジッドな存在論を、ヘブライ的な、より動的かつ不断に自己超出するものへと脱構築する、というのがその大元の趣旨。具体的にはアリストテレスの存在神学的解釈(ハイデガー)あたりと、モーセの神託の話あたりが対比される構図になっている(そればかりではないけれど)。絶対的な存在が実定的に屹立するのではなく、そこに他者の占める場所を明け渡すよう、流動的に転位・脱自していくというイメージ(かな?)。でも、そうなると、なぜ西欧的な思想の伝統は、ヘブライ的な動的な存在論(脱在論)を受け継がなかったのか、なぜリジッドな存在論を構築し磨きをかけていくのかという大きな疑問が残る(ハヤトロギアの文脈では、技術的文明の根源悪もそうした思想的伝統に根ざしているとして批判の対象になる)。ヘブライ語のヴァヴ倒置法(時制変換)みたいなものが、たとえばラテン語などにはないから?うーん、そのあたりの話が何か聴けないものだろうかと期待してのシンポジウムだったのだけれど、直接そうした問題には触れられてはいなかった(全体討論の前に退出してしまったので、そこでどんな話が出たのかはわからないけれど)。

とはいえ、少しばかりヒントというか、示唆的な話がないわけでもなかった。山本巍氏の提題(時間が足りないのが残念だったが)では、アリストテレス思想には本来、個というものが実体として重んじられ、自己よりも他者が優先されるという機構があり、その意味でそれはハヤトロギア的で、かつまたそこでは微小な部分において全体が見出される……というような趣旨のことが語られていたように思う。パルメニデスのようなゼロサム的な存在論ではない、可能態を重視した立場にこそ、アリストテレス思想の核心部分があるのだ、みたいな。これはちょっとあらためて検証してみたいところだけれど、仮にそうだとすると、ハヤトロギア的なアリストテレスを後代の人々がねじ伏せていった結果が西欧的存在論とそのなれの果て、ということになるのかしら。問題はアリストテレスの解釈にあったということに?おお、アリストテレス周りが俄然面白くなってくるではないの(笑)。

パスナウ本にオッカムを追う – その1


昨年出たロバート・パスナウの『形而上学的主題 – 1274-1671』(Robert Pasnau, Metaphysical Themes 1274-1671, Oxford Univ. Press, 2011)は、中世末期から初期近代にかけての西欧の思想的変遷を、形而上学の主題ごとに俯瞰的に見ていくという趣旨の大著。これもまた最近ようやく入手して、ちらちらと眺めているところ。これ、なにせ本文だけで700ページ超ときている。しかも扱う領域も年代もかなり広範にわたっているので、頭から漠然と読んでいくのでは、個人的にはいろいろ消化不良も起こしかねないように思える。というわけで、ここはむしろ扱われている主題そのもので区切るより、人物ベースで横断的に拾い読みするほうがさしあたりは面白いのではないかと考えているところ。とりあえずメルマガのほうで扱っているオッカムをキーにして、しばらくは全体を眺めていこうと思う。ま、正統的ではないものの、こういう読み方もあってよいかな、と(苦笑)。

オッカムについての最初のまとまった言及は、「無からは何も生まれない」という議論についての箇所(2章3節)と、質料がすでにして限定されているという議論を紹介した箇所(4章4節)あたり。これは昨日のメルマガでもちょろと触れたところ。オッカムは、事物の生成・消滅(つまりは流転)に際してなおも存続するものとしての質料を原理として立てる。同時に、一方ではそこにすでにしてなんらかの現勢態があると考える(そのあたりはオリヴィゆずりの議論だ)。質料には限定的な「拡がり」、すなわちなんらかの「量」があると見るのだけれど、オッカムの場合、この「量」なるものは実体にもとより含まれるのであって、いわゆる範疇論での独立した範疇をなすとは見なされない。この範疇論解釈はある意味とても重要で、それはオッカムの唯名論の立場とも大きく関係している。

唯名論全般についても、同書に簡単なまとめがある(5章3節)。「唯名論」の呼称が使われるようになるのは15世紀初頭になってからで、それ以前には用語としても使われていないし、それが哲学的なムーブメントをなすなどとは考えられもしなかった。唯名論と実在論の対置に言及した嚆矢としては、たとえばプラハのヒエロニムスがいるのだという(1406年、ハイデルベルク大学を訪問した際の記述だとか)。また、この対立的構図は1425年のケルン大学の文書にも明示されているというのだけれど、そこでの対立軸はむしろ新旧論争的で、トマスやアルベルトゥス・マグヌスなどの旧派と、ビュリダンやインゲンのマルシリウスなどの新派とが対比されていた。で、15世紀後半になるとその新旧対立に実在論・唯名論の対立が重ね合わせられていくのだという(なるほどこのあたりの話は、コートニー『オッカムとオッカム主義』(William J. Courtenay Ockham and Ockhamism: Studies in the Dissemination and Impact of His Thought, Brill, 2008)などでも取り上げられている)。

で、重要なのは次の点。今でこそ唯名論と実在論を分けるキーとして「普遍」をどう捉えるかが問題にされるけれど、当時その両者を区別する議論は別にあって、それはつまり用語と指示対象とが一対一対応になるかどうかという問題だった。用語が複数化した場合、対応する外的事象も複数あるとみるのが実在論、外的事象は複数化しないとするのが唯名論というわけだ。たとえば「神性」は神のもとにあってとことん一つだとするのが唯名論、「神の賢慮」といったものが神そのものとは別にあるとするのが実在論(という例が1475年のパリの唯名論弁護論にあるのだという)。この、いわば言語の表層構造が現実の構造に対応しているかどうかという問題は、普遍をめぐる問題というよりは、むしろ範疇論をめぐる論争を招くことになる。こうして上の、オッカムの範疇論へと話がつながっていくことになる……。

ビザンツ方面のアリストテレス主義

これも小論だけれど、思想的布置のまとめとして面白い。ディミトリス・ミカロプロス「アリストテレスvsプラトン:バルカンの逆説的啓蒙」(Dimitris Michalopoulos, Aristotle vs. Plato: The Balkans’ Paradoxical Enlightenment, Bulgarian Journal of Science and Education Policy, Vol.1, No.1, 2007)(PDFはこちら)。思想史的にかなり大まかな枠組みとして、西洋世界が中世盛期以後、トマスに代表されるようなアリストテレス思想の受容を軸に動いていったとするなら、ビザンツ世界は9世紀のコンスタンティノポリス総主教フォティオスがギリシア文献の再興を図って以降、プラトン主義が席巻したとされる。ところが15世紀くらいになると状況が変わってくる。まず西洋世界では、ポンポナッツィ(1462-1525)が「魂の不死性は合理的議論で証明できるか」という問題を掲げて登場する。その際の鍵となる議論が、アリストテレスの言うエンテレケイア(現実態)が、キリスト教の死後の生と矛盾しないかという問題だった。そこからパドヴァ大学では、いわゆる唯物論的アリストテレス主義が導かれる(魂の不死は基本的に否定されていく)。パドヴァは1405年からヴェネチアの支配下に置かれていたため、結果的に教会側からの直接攻撃に晒されずにすみ、そうしたある種の異端的な思想が擁立できたということらしい。やがてジャコモ・ザバレラ(1532-89)が先導する形でパドヴァの新アリストテレス主義は勢いを増し、1591年にチェーザレ・クレモニーニがパドヴァ大学に着任しピークを迎える。

クレモニーニはガリレオとの相反で知られているけれど、どうやらガリレオのことをプラトン主義者と見ていたらしい。けれども論文著者によると、もっと重要なのは、クレモニーニにはそのアリストテレス主義を信奉する二人のギリシア人学生がいたことなのだという。その二人とは、後のコンスタンティノポリス総主教キリロス1世となる(1602年)コンスタンティノス・ルカリス、そして後に哲学者としてファナルのアカデミーを率いるテオフィロス・コリュダレオス。両者の名はバルカン半島に広く知られ、とりわけ思想面では後者の影響によって、アリストテレス主義はギリシア正教会の論理武装に一役買うことになるのだとか。パドヴァ流のアリストテレス主義がビザンツ、さらにはバルカン半島全域にまで拡がっていった、というのはなんとも興味深い話。しかもそうした唯物論は、ギリシアを中心にその後も長く続き、近代にいたるまでバルカン一帯の学問的な支えとなっていくのだという。

↓ Wikipedia(en)から、チェーザレ・クレモニーニの肖像