ということで、今回はスタータ・ノートン「ルネサンス期の実験的治療法」というアーティクル(Stata Norton, Experimental Therapeutics in the Renaissance, Journal of Pharmacology and Experimental Therapeutics, vol. 304(2), 2003)(PDF はこちら)を取り上げよう。古典的文献を権威として仰ぐ一方で、観察的見地からそうした権威的記述の一部を修正していこうとする動きは、医療や薬学の分野ですでに中世盛期ごろから見られることはすでに何度か見てきているけれど、ルネサンス期にはそれがさらに実験による検証作業にまでいたるらしい。実際、同論考でも触れているように、パルケルススなどがその医療化学(iatrochemistry)において、一種の実験的検証に手を染めていたという話は有名だ(要するに錬金術師らによる応用化学としての製剤調合)。彼などはガレノス流の説明や薬草学的伝統に異義を唱えていたというのだけれど、その一方で、いわばもっと無名な医療行為者たちも、薬草治療のほかに合成・抽出した化学薬品(硫酸とか)なども使い始めていたらしいということで、同論文はヒエロニムス隠修士団(イタリアで1350年頃に成立し、医療行為に従事した隠修士団で、17世紀まで続く)を取り上げている。具体的には、ジョバンニ・アンドレア修道士なる人物が1562年にルッカで編纂した写本(400ページにわたって各種治療法が記されているという)を紹介しているのだけれど、そこにはやはり、伝統的な見識と当時の最新の知見との混在が見られるといい、とくにその新しい治療法の評価方法では、統計学的なものではないにせよ、因果関係を特定する上でそれなりに理に適った方法(と後世で認められるもの、具体的には再現性、関連性の強さ、特異性、時間的相関、傾度、蓋然性、証拠の無矛盾性、アナロジーによる推論など)が用いられているという。実験そのものによる検証も用いられ始めているというが、このあたり、例示されているものに関しては、現代的基準からするとなかなか素朴な(?)記述だったりもする。ま、それはそれで興味深いものではあるのだけれど(笑)。
エドワード・ワッツ「6世紀にはどこで哲学的生活を?ダマスキオス、シンプリキオス、そしてペルシアからの帰還」(Edward Watts, Where to Live the Philosophical Life in the Sixth Century? – Damascius, Simplicius, and the Return from Persia, Greek, Roman, and Byzantine Studies, vol.45(3), 2005)という論考を読む。アテネの新プラトン主義の一派の拠点(プラトン自身が創設したアカデメイアではなかったというのが最近の説らしい)が529年にユスティアヌス帝によって閉じられると、かしらだったダマスキオスやシンプリキオスなどはいったんササン朝ペルシアへと逃れ、532年にローマとペルシアの和平協定が結ばれた後に一行は帰還した……これが歴史家アガティアスが伝える話だが、では一行はどこに帰ったのか?というわけで、同論考はこの問いをめぐる考察。かつてミシェル・タルデュー(宗教学者、歴史家。邦訳だと『マニ教 (文庫クセジュ)』(白水社)がある)は、一行が新拠点としたのはハラン(現トルコ、シリアとの国境近く)だとの説を唱え、これが大いにもてはやされたというけれど、現在ではその根拠が問い直されているようで(なにしろその根拠の一つは、中世アラビア世界の学者の証言だったりもするという)、同論考ではむしろ、一行は各地に存在した多神教コミュニティにそれぞれ散らばったのではないかとの見方を支持している。実際、新プラトン主義の学派は、地理的な連続性よりは学説そのものの連続性(継承性)に重きを置いていたともいわれ、また実際にキリスト教系の文献からは、530年代に規模も力も大きな多神教コミュニティが少なからず存在していたことが窺われるといい(ハランもそうしたコミュニティのあった都市の一つ)、彼らを受け入れる土壌は広く存在していただろうという。また、かしらだったダマスキオスが532年の時点で70代の高齢だった事実もあり、新たな学校の創設はあきらめ、弟子たちはそれぞれの道を求めて散っていったとするほうが理に適っているのではないか、と論文著者は記している。まあ、でもこのあたりは資料が乏しいそうだし、なかなか難しいところなのだろうなあ。
唯名論全般についても、同書に簡単なまとめがある(5章3節)。「唯名論」の呼称が使われるようになるのは15世紀初頭になってからで、それ以前には用語としても使われていないし、それが哲学的なムーブメントをなすなどとは考えられもしなかった。唯名論と実在論の対置に言及した嚆矢としては、たとえばプラハのヒエロニムスがいるのだという(1406年、ハイデルベルク大学を訪問した際の記述だとか)。また、この対立的構図は1425年のケルン大学の文書にも明示されているというのだけれど、そこでの対立軸はむしろ新旧論争的で、トマスやアルベルトゥス・マグヌスなどの旧派と、ビュリダンやインゲンのマルシリウスなどの新派とが対比されていた。で、15世紀後半になるとその新旧対立に実在論・唯名論の対立が重ね合わせられていくのだという(なるほどこのあたりの話は、コートニー『オッカムとオッカム主義』(William J. Courtenay Ockham and Ockhamism: Studies in the Dissemination and Impact of His Thought, Brill, 2008)などでも取り上げられている)。
これも小論だけれど、思想的布置のまとめとして面白い。ディミトリス・ミカロプロス「アリストテレスvsプラトン:バルカンの逆説的啓蒙」(Dimitris Michalopoulos, Aristotle vs. Plato: The Balkans’ Paradoxical Enlightenment, Bulgarian Journal of Science and Education Policy, Vol.1, No.1, 2007)(PDFはこちら)。思想史的にかなり大まかな枠組みとして、西洋世界が中世盛期以後、トマスに代表されるようなアリストテレス思想の受容を軸に動いていったとするなら、ビザンツ世界は9世紀のコンスタンティノポリス総主教フォティオスがギリシア文献の再興を図って以降、プラトン主義が席巻したとされる。ところが15世紀くらいになると状況が変わってくる。まず西洋世界では、ポンポナッツィ(1462-1525)が「魂の不死性は合理的議論で証明できるか」という問題を掲げて登場する。その際の鍵となる議論が、アリストテレスの言うエンテレケイア(現実態)が、キリスト教の死後の生と矛盾しないかという問題だった。そこからパドヴァ大学では、いわゆる唯物論的アリストテレス主義が導かれる(魂の不死は基本的に否定されていく)。パドヴァは1405年からヴェネチアの支配下に置かれていたため、結果的に教会側からの直接攻撃に晒されずにすみ、そうしたある種の異端的な思想が擁立できたということらしい。やがてジャコモ・ザバレラ(1532-89)が先導する形でパドヴァの新アリストテレス主義は勢いを増し、1591年にチェーザレ・クレモニーニがパドヴァ大学に着任しピークを迎える。