奇矯と偉大

普通なら関係者だけで共有される本という感じだけれど、一般販売されているのがとても嬉しい『ラテン詩人水野有庸の軌跡』(大阪公立大学共同出版会、2009)。昨年春に鬼籍に入った日本随一の「ラテン詩人」。大学でのそのラテン語授業も超弩級の激しいものだったといい、その学恩に与った人々を中心に、様々な思い出を綴っているなんとも刺激に満ちた追悼文集だ。そこから浮かび上がる「ラテン語一代記」。そして弟子の方々の分厚い層。うーん、圧倒される。古典学の学会で、水野氏があたりの人にラテン語で話しかけまくり、皆が逃げたなんていうエピソードも。奇矯さ(というかある種の狂気というか)は偉大さの裏返しみたいなものなのだろうけれど、でも、ラテン語会話を受け止める人がいなかった(らしい)というのもちょっと問題よね(笑)。どの古典語だろうと言葉なのだから、文献を読む(黙読的に)だけでなく、音読し書けて話せて聞けるというのはやはり基本……だよなあ。学問としてはそこまでしなくても、というコメントも誰か寄せているけれど、でも自由に使いこなすというのは無上の楽しみなはず。というわけで、まあ、あまり激しくはできないけれど(苦笑)、自分も「エウパリノス・プロジェクト」に向けて少しづつ前進しようと改めて思ったりする。

その水野氏の『古典ラテン詩の精』は現在は入手不可のようだけれど、機会があればぜひ見てみたいところ。ちなみに、「Nux mea uoluitur; en nucula / in stagnum incidit: hac quid fit?」と始まる「どんぐりころころ」ほかいくつかのラテン語訳は同文集に収録されている。ちゃんと歌として歌えてしまうこの見事さ!

『カテゴリー論』注解

ポルピュリオス話が続くけれど、ブログ『ヘルモゲネスを探して』で「命題集」の羅訳考が始まっている(拙訳にも言及していただいている(汗))。マッシモ・デラ・ローザ編訳の文庫本(本ブログでは一応これがベース)の配列は、ジルジェンティ編のフィチーノ版羅訳との対訳本が準拠しているというクロイツァー&モーザー本(1855年パリ:定本の一つ)の配列とは大分違っている。ちなみにこれまでの部分の対応を示しておくと、断章6までは同一、断章7はC&Mでは断章11、断章8はC&M断章13、断章9はC&M断章14、断章10はC&M断章24、断章11はC&M断章30、断章12はC&M断章19、断章13はC&M断章42、断章14はC&M断章20、断章15はC&M断章18。今後はそちらの番号も併記することとしよう。

さて、そんな中、昨年刊行されたポルピュリオス『アリストテレス「カテゴリー論」注解』希仏対訳本(“Commentaire aux Catégories d’Aristote”, trad. Richard Bodéüs, Vrin, 2008)を入手し読み始めているところ。これは個人的にも待望の一冊というところ。解説序文にもあるけれど、あくまで論理学的な側面を扱い、存在論的な部分に踏み込んでいかないところなど、『エイサゴーゲー』と同様にこれも入門編的な位置づけなのだという(確かに本文も『命題集』などとはずいぶん隔たりを感じさせる語り口だ)。ポルピュリオスにはもっと大部な別の『カテゴリー論注解』があったともいわれるが、残念ながらそれは現存していないという。けれどもいずれにせよ、『エイサゴーゲー』のまとめ方や、本書での対話形式などのスタイルなどからしても、何かこのあたりには「注解」に対するポルピュリオスの独自のアプローチのようなものが窺える感じがしなくもない。注解という形式の一種の「脱構築」とか(笑)?先のジルジェンティ本の末尾のほうでは、ホメロスの『オデュッセイア』の一部エピソードについての寓意的解釈だという『ニンフの洞窟』の話も出てくるけれど(オデュッセイアを魂の帰還の寓意と見立てる読みらしい)、そのあたりも含めて、ポルピュリオスの「注解」(ないし「解釈」)を包括的に捉えられないかしら、なんて思えてくる。

断章15

Ἄλλο τὸ πάσχειν τῶν σωμάτων, ἄλλο τὸ τῶν ἀσωμάτων· τῶν μὲν γὰρ σωμάτων σὺν τροπῆ τὸ πάσχειν, τῆς δὲ ψυχῆς αἱ οἰκειώσεις καὶ τὰ πάθη ἐνέργειαι, οὐδὲν ἐοικυῖαι θερμάνσεσι, καὶ ψύξεσι σωμάτων. διὸ εἴπερ τὸ πάσχειν πἄτως σὺν τρόπη, ἀπαθῆ ῥητέον πάντα τὰ ἀσώματα· τὰ μὲν γὰρ ὕλης κεχωρισμένα καὶ σωμάτων ἐνεργείᾳ ἦν τὰ αὐτὰ, τὰ δὲ ὕλῃ πλησιάζοντα καὶ σώμασιν αὑτὰ μὲν ἀπαθῆ, τὰ δὲ ἐφ᾿ ὧν θεωρεῖται πάσχει. ὅταν γὰρ τὸ ζῷον αἰσθανηται, ἔοικεν ἡ μὲν ψυχὴ ἁρμονίᾳ χωριστῇ ἐξ ἑαυτῆς τὰς χορδὰς κινούσῃ ἡρμοσμένας ἁρμονίᾳ ἀχωρίστῳ. τὸ δὲ αἴτιον τοῦ κινῆσαι, τὸ ζῷον, διὰ τὸ εἶναι ἔμψυχον ἀνάλογον τῷ μουσικῷ διὰ τὸ εἶναι ἐναρμόνιον, τὰ δὲ πληγέντα σώματα διὰ πάθος αἰσθητικὸν ταῖς ἡρμοσμέναις χορδαῖς· καὶ γὰρ ἐκεῖ οὐχ ἡ ἁρμονία πέπονθεν ἡ χωριστή, ἀλλ᾿ ἡ χορδή. καί κινεῖ μὲν ὁ μουσικὸς κατὰ τὴν ἐν αὐτῷ ἁρμονίαν, οὐ μὴν ἐκινήθη ἄν ἡ χορδὴ μουσικῶς, εἰ καὶ ὁ μουσικὸς ἐβούλετο, μὴ τῆς ἁρμονίας τοῦτο λεγοῦσης.

物体を受け取るのと、非物体を受け取るのは異なる。物体を受け取る場合は変化を伴うが、魂の内在化やその受け止めは、物体を暖めたり冷やしたりするのと少しも似るところのない所為である。ゆえに、あらゆる物体を受け取る際には変化を伴うが、非物体の場合にはいっさい変化を被らないと言わなくてはならない。というのも、質料や物体から離れたものは所為において同一であるし、質料や物体に近いものは、それ自身では変化を被らないとしても、見られる部分については変化しうるからだ。生物が感覚をもつときには、魂は別個の調和に似通い、分かちがたく結びついた調和にそって調律された弦をおのずと振動させる。魂をもつがゆえに振動の原因となる生物は、調和にあるがゆえに音楽家にたとえられ、それに打たれる身体は、感覚を被るがゆえにその調律された弦にたとえられる。というのも、ここで変化を被るのは別個の調和ではなく、弦のほうであるからだ。また、音楽家はみずからの調和のもとで振動を与えるが、調和がかくあるべしと告げず、なおかつ音楽家が望むのであれば、弦は音楽的に振動しない。

「存在する」は行為なり?

先のジルジェンティの『ポリュピュリオスの特徴的思想』も中盤を超えて佳境(?)にさしかかったところ。中盤では、「パルメニデス注解」の現存する断章をポルピュリオスのものと特定したピエール・アドの議論をベースに、思想内容からその確認をし、ここから「一と存在」「存在と存在者」「知性」「三幅対」などのテーマの詳述に入っていく。ちょっと面白いのは、「ポルピュリオスが西洋思想史の流れの分岐点に位置づけられる。というのも、哲学史上初めて、存在する(essere)という動詞が行為として概念化され、その純粋な行為が第一原因と同一視され、と同時にそれが一者と存在の漸進的同化を準備したのだ」というくだり(p.219)。actus essendiというときのactusを単純に「現実態」と訳すことへの違和感は以前にも記したことがあったけれど、やはりそこには行為というか働きというか、そういう動的な意味合いが入っていることを確認させてくれる一節。うーむ、現実態=行為としての存在論は、先日のマクシモスの存在論なども含め、はるか後裔にまで連綿と継承されていくようだけれど、その嚆矢はポルピュリオスにありということなのか?けれどもちょっとこのあたり、テキストでの検証が物足りない感じもするのだが……。

新刊情報(ウィッシュリスト)

新緑の季節はゆっくりと本を読みたい。というわけで、またまた新刊の備忘録。