ボンピアーニ刊の希伊対訳版アフロディシアスのアレクサンドロス『アリストテレス「形而上学」注解』から、ゼータ巻(第6巻)を一通り通読する。実はアフロディシアスのアレクサンドロスの真正「形而上学注解」は最初の5巻まで。6巻目以降は偽アフロディシアスのアレクサンドロスとなる(実作者は11〜12世紀ごろのエフェソスのミカエルではないかという話)。なるほど印象としては、確かに本家よりも少しプラトン主義のほうに歩み寄っている気もする(笑)。
ゼータ巻はもとのアリストテレス『形而上学』でも実体(ウーシア)の定義をめぐり、本質、差異、質料、形相などの問題系が議論される箇所だけれど、この注解で興味深いのは、実体があくまで個物の側にあって、原理としてのエイドス(形相)がそこから分離されるのだということがかなりはっきりと述べられている点。もちろんそうした規定はアリストテレスから来るものだけれども、アリストテレスの場合にはあくまで形相と質料から成る「複合体」が問題で、それはプラトン的な「イデー」批判と一体だった。対するこの注解書作者のほうは、どうやらこのエイドスを形態的原理(形をつくるもの)ならびに操作的原理(運動をもたらすもの)として、つまりは実体に対して異質なものとして厳密に規定している感じ。その意味ではなんだかプラトン主義っぽい。でも一方で、本質が実体から抽象化されたもの、つまり言葉すなわち定義(および名)に関わるものであると規定して、唯名論的な議論にも足をかけているようにも見える。このあたりの有機的なつながり、一度通読しただけなせいか、まだちょっとはっきりと見えてこない……(笑)。
いきなりゼータ巻に目を通したのは、手元にあるアメド・エルサカウィ『アラビア語版アリストテレス「形而上学」ゼータ巻およびアヴェロエスによる注釈の研究』でもって比較ができるかなと思ったからだけれど、具体的な比較をする前にもう少しこの偽アレクサンドロスのテキストを吟味したい気になってきたので、その作業は当面はおあずけ(笑)。ちょっと気になるラムダ巻など、他の箇所を読んでからかな。また、真正アレクサンドロスの部分も通読して、解説などで言われるスタンスの違いも実際に味わってみないと。
前回のエントリで触れた、ジルソンの言うキリスト教による形而上学的深化は、やはり「キリスト教」というよりは一神教的な深化という風に一般化できそうな(というかむしろそうすべきような)気もする。その一方で、ギリシア的な原理と必然との体系が、存在付与と自由意志(恩寵)による体系にシフトするというのは、図式的にはわかりやすいけれど、実際はそう単純ではないかも、なんてことを思ったりもする……。とはいえ「なんらかの深化」という議論そのものは、ある程度納得いく部分もある。たとえば摂理もしくは神慮という、かなり古くからあるテーマがそう。
昨年末からアラビア語読みのテキストとして使用していたアフロディシアスのアレクサンドロス『摂理について』("Traité de la providence", trad. Pierre Thillet, Verdier, 2003)の、訳者ピエール・ティエによる解説が、摂理についての考え方の略史を手際よくまとめていて役立つ。アリストテレスそのものには摂理論はないのだけれど、テキストの各部をまとめることによって、ありうるはずの摂理論は再構築可能だとティエはいう。歴史的には、まずは後1世紀以前に、神の摂理は月の天球までで月下世界には及ばないとする思想的伝統があったという。摂理はあまねく広がりつつも、諸天をへて神からの距離が開くにつれてその作用は弱まるという考え方が、そのベースにあるらしい。この考え方は逍遙学派のアレクサンドロスにまで伝わっている。この「あまねく広がる」という部分はストア派の考え方(世界そのものが神的だとする)に呼応するようなのだけれど、これがセネカあたりになると、「摂理が及ぶのは個ではなく種までだ」という視点がはっきり出てくるのだとか。一方、中期プラトン主義のヌメニオスあたりから、摂理は質料において制限を受けるときっぱり述べるようになるのだという。直接の影響関係はともかく、こうした潮流があったことは確かな様子。このように、ストア派やプラトン主義の課した制約は、逍遙学派にも取り込まれているというわけだ。ま、それらの制約は各々の思想体系にとって一環したものなのだろうけれど、一方でキリスト教の摂理の考え方は、そうした制約面を明らかに打破している感じもする……ってこれはまだ印象の話(笑)。文献的にちゃんと確認してみたいところ。
このところしばらく読んでいたガレノスの『魂の苦痛と不全について』(Περὶ ψυχῆς παθῶν καὶ ἁμαρτημάτων: Istituto poligrafico e zecca dello stato, Roma, 1999)。噂にたがわず、これがまためっぽう面白い。怒りや嫉妬といった心的な苦痛・不調にいかに対処すればよいかという議論で、要するに自己認識と自己統制(節制)をテーマにしているのだけれど、その難しさを繰り返し説いている。「愛は盲目、その最たるものは自己愛」というわけだ。これ、節制・禁欲を説いているところなどは、ストア派というか、あるいはむしろグノーシス的な感じも。哲学諸派の誤謬を皮肉るような部分もある。学知(ロゴス)が非合理なものにどう切り込んでいけるのか、という問題も掲げられている。ガレノス自身の立場というのは一般に折衷主義というふうに括られることが多いと思うけれど、いやいやどうして、ドクソグラフィー的関心とか後世への影響とか以外にも、ストレートに体系的アプローチをかけたりしても面白いかもと思わせるような部分が少なからずあったり。いや〜、これもまた今後徐々に読んでいくことにしようかと。
ポルピュリオスの『ステュクスについて』(Porfirio, "Sullo Stige", trad. Cristiano Castelletti, Bompiani, 2006)にざっと目を通したところ。ステュクスといえば、ギリシア神話で冥界(地下世界)を流れる川とされるもの。ホメロスなどに「ステュクス河にかけて」という感じで誓いを立てる時の句として言及されている。で、このテキストは、ポルピュリオスがホメロスの言及などを読み解いた文章の断片。全部で9つの断片があり、最初がそのホメロスの詩の寓意的解釈への導入、断片2と3が冥界における魂をめぐる哲学的・神学的解釈、断片4が語源についての記述、断片5、6が実際の(地表の)ステュクスの特定とその水の性質について。高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店)にも記載があるけれど、実際の河がアルカディアのノーナリスクにあったとされる。断片7はエデッサのバルデサネーを引用し、他の文化圏(インド)にも同じような地中の水という伝承があることを述べている。8と9は小片。この断片7はちょっと興味深く、地中の洞窟に両性具有の像があるという話が紹介されている(平野啓一郎の小説『日蝕』を思い出したり)。
それにしても、この地中の河と実際の地表の河との対応関係は興味深いところ。古代ギリシアの世界像では、ごくわずかな土地が海(オケアノス)に浮かんでいるというものだったわけだけれど、上の『ギリシア・ローマ神話辞典』によると、「ギリシア人の地理的知識の進歩に従って、オーケアノスは人格神から地理的な概念に変わって行った」とあり、ステュクスも同じような変化を被っていることが察せられる。そういえば、アレクサンドリアのディオニュシオス(2世紀)による『居住地誌梗概』(これは読み進めようとしつつも、固有名詞の多さ・煩雑さに躓き気味(笑))などにしても、ヘレニズムの地図作成法の父ことエラトステネス(前2世紀)の世界像を反映しているという指摘が同書(Dionisio di Alessandria, "Descrizione della Terra abitata", trad. Eugenio Amato, Bompiani, 2005)の付録に記されているのだけれど、その世界像はというと、ヘレニズム世界の新しい知見を取り入れているとはいえ、オケアノスの上に居住地がでんと載っているという体裁そのものはホメロスの時代からさほど変わっていないようにも思えたり……。うーん、地図というか、世界像の歴史というのもとても面白そう。
エラトステネスの世界地図の復元図を(Wikipediaより)。
相変わらずアフロディシアスのアレクサンドロスの著作を眺めているけれど、今回一通り読んだのは「偽」が付く文書『熱について』。イタリアで出ている校注版("Trattato sulla febbre", a cura di Piero Tassinari, Edizioni dell'orso, 1994)。アレクサンドロスのものとされた一種の概説的な医学書。概説的なというのは、熱の発生や様態について述べていて、治療などには触れていないから。心臓の機能を重視する点や、熱の持つ両義性(保全的・破壊的)、外因と内因、原因と抑制的因子など、確かにアリストテレス的なテーマで貫かれたような文章なのだけれど、残念ながらアレクサンドロスのものではないらしい。訳者の序文では、時代的に先行する医学者アレタイオスやガレノスなどとの連関も指摘されている。また、ガレノスがプネウマ(気息)による熱の理論を示すのに対し、この偽アレクサンドロスの文書では、そうしたプネウマの役割を副次的なものと見ている、とも。そもそも逍遙学派的には、医学自体が一つの分岐・傍系の学問でしかなかったことも示されている。そういえば、先に挙げたマルヴァン・ラシドのある論文でも、ガレノスによるアリストテレス批判の文書を受けて、それに反応する形で書かれたとも言われるアレクサンドロスの文書(断片)が取り上げられていた。そういう意味では、確かに逍遙学派側からこういう文書が出てきても不思議ではないかも。この医学をめぐる対立関係というのもなかなかに興味深い。
次は「『感覚と感覚対象について』への注解」をガリカにあるアリストテレス注解シリーズ(commentaria in Aristotelem graeca)で読むことにしよう。さらにはおなじみのサイト「ヘルモゲネスを探して」で紹介されていたボンピアーニ社刊行の「形而上学注解」に進みたいなあ、と。
アフロディシアスのアレクサンドロスの『混合について(de mixtione)』を読了。ギリシア語テキストのタイトルは「混合と増大について」となっている。テキストはロバート・B・トッドの研究書『ストア派の自然学について』(Robert B. Todd, "Alexander of Aphrodisias on Stoic Physics", E.J. Brill, Leiden, 1976)によるもの。『気象学』注解でもそうだったけれど、ここでもまた粒子論的な考え方は斥けられている。混合という現象が、粒子が間隙を満たすことによるものだとすると、混合する物質の一方が全体として間隙オンリーである場合でもないかぎり、混合ではなくせいぜい並置にしかならないだろう、というのがその論旨。ストア派的なプネウマによる物質の統合という考え方も、むしろ物質がそれ自体として、それみずからの形相によって統合されているとしたほうがよいとしていて、アレクサンドロスは総じてストア派に対しては批判的だ。トッドの解説にもあるけれど、アレクサンドロスの批判の仕方は、相手方の具体的な議論からその背景をなす一般的な命題を引き出してきて、それに検討を加えていくという手法。そのためか多少議論は交錯・横滑りしていく感じなのだけれど、そのあたりが案外興味深かったりする(笑)。さて次は偽アレクサンドロスの『熱について』でも見ていくことにしよう。
で、アレクサンドロス関連で並行して読み始めたのが、マルヴァン・ラシェド『アリストテレスの遺産−−古代の未刊行テキスト』(Marwan Rashed, "L'Héritage aristotélicien - Textes inédits de l'Antiquité", Les Belles Lettres, 2007)。同一著者による論文集だ。まだ最初のほうの数編しか見ていないけれど、すでにしてとても面白いことになっている(笑)。前に言及したように、アラン・ド・リベラなどはアレクサンドロスに唯名論の萌芽を見る立場だったけれど、ラシェドはむしろ、「類」の存在論的先行性など、実在論の側に大きく傾いたアレクサンドロス像を提示している。うーん、これは考えどころだ(これについては、この9月にも同著者の新刊が出たみたいなので、そちらも見てみたいところ)。また、天空論での恒星と惑星をめぐるアレクサンドロスの逡巡など、興味深い論定がいくつも示される。間接的に報告された「論」を、アレクサンドロスのものと特定していくラシェドの手さばきなどは実に見事というほかないし、この論集、しばらく楽しめそう。
アラン・ド・リベラの『一般性の技法--抽象化の理論』(A.de Libera, "L'art des généralité - théorie de l'abstraction", Aubier, 1999)をこのところ読み出した。以前の『普遍論争』("La querelle des universaux", Seuil, 1996)をある意味補完する内容で、今回は古代末期から中世までの捨象(抽象化)をめぐる理論を検討するというもの。アフロディシアスのアレクサンドロスから始まって、ボエティウス、アベラール、アヴィセンナをめぐっていく模様。まだ最初の章のアレクサンドロスのところしか読んでいないが、なかなかにして刺激的な内容。主にアレクサンドロスの"Questiones"のいくつかの断章をもとに、唯名論の先駆的な思想を読み取れないかと、やや哲学史的にも大胆な仮説を検討していく。議論の大きな比重を占めているのは、Questionesの断章1.11。概略だけメモしておくと、類が消去されればその類を構成している種も消去されるかどうかという問題を問うと、後世において普遍と言われるものが、個物に先行するのか(新プラトン主義的に)それとも後から来るのか(逍遙学派的に)という立場がわかれ、また、そもそも類をどのようなものとして扱うのかという問題が導かれてくる。複数の個物にまたがる共通性とするのか、それとも普遍概念とするのか、両者は重なるものなのかどうか云々。ド・リベラは、アレクサンドロスがそうした共通性と普遍概念を分けて考えていたという説(近年の研究としてはピネスという研究者が提唱する説だということだが、ド・リベラによると、ポルピュリオスによるアレクサンドロス批判の中にもそうした考えの一端が読み取れるのだという)を取り、Questionesのほかの部分を傍証として、唯名論的な系譜の発端をそこに見ようと奮闘している。この議論展開そのものはちょっと面白いので、さしあたり押さえておくことにしよう。でもま、"Questiones"そのもののアトリビュートが真正ではないかもしれないという話もあるわけで、このあたりは微妙なところかも。あと、ド・リベラも参照している、シャープルズによる"Questiones"の英訳("Questiones 1.1-2.15", trad. R.W. Sharples, Cornel University Press, 1992)は、割とはっきりくっきりととした訳なのだけれど、時折、ちょっと原文と突き合わせて見たいよなあ、と思えたりもする。
この夏はアフロディシアスのアレクサンドロスの『霊魂論補遺(Mantissa)』と、テミスティオスの『霊魂論パラフレーズ』の核心部分を読んできたが、今度はこれに続き、やはりアレクサンドロスの『形而上学注解』(これもGallicaで落としてきたもの)の重要箇所に取りかかっている(第3巻)。「一」を中心として「多」が織りなされていくという議論などは、確かに存在と本質の区分(アヴィセンナなど)といった論を先取りしたもののように読める。「一」というのはこの場合、どうやら同一の類に属する複数の事物の共通本性らしく、しかもそれによってそもそも「類」が成立する、という話になっているようだ。うーん、この存在論と論理学とのかなり絶妙な「間」がなんとも悩ましい(笑)。ま、もうちょっと読み進めてみよう、と。
そしてにしてもこのところ、初期注解者たちの重要性を指摘する文言にやたら目がいく。ガーシュ&ホエネン編纂の『中世のプラトン的伝統』("The Platonic Tradition in the Middle Ages", ed. S. Gersh & M.Hoenen, Walter de Gruyter, 2002)なんていう論集に、この1ヶ月ほどずらずらっと目を通してみたのだけれど、たとえば「アクィナスとプラトン主義者たち」という論考(W.J. Hankey, 'Aquinas and the Platonists')とか見ると、アレクサンドロスやテミスティオスのほか、ピロポノスやアンモニウスなどもトマスのソースとしてそこそこ重要であるみたいな指摘が目に付く。アレクサンドロスについても、アヴェロエスの解釈への反論としてトマスが援用していることなども指摘されている(p.293)。1260年にメルベケによってラテン語に訳された『感覚について』だそうだ。著作全体で94回の言及があるんだとか(ん?それって比較的多いと言いたんだよね、きっと)。やはりそのあたり、時間をかけても吟味していきたい気がする。
ちなみにこの論集、基本的にプラトン思想が中世にどう伝わっていたかを、ソースの問題を中心に議論する論考を集めてたもので、それぞれ読み応えがある。とくに中世初期に関しては、やはり『ティマイオス』の周辺の重要性が際立つ……以前取り上げた『文化イコンとしてのティマイオス』よりも、こちらの論集のほうがはるかにカバーする範囲も広く、読み応えあり(お値段も……苦笑)。
ちょっと時間が出来たので、Galicaで落としてきたテミスティオスの『「霊魂論」パラフレーズ』で、例の「エンテレケイア」解釈部分を見る。もとは霊魂論の412b 5-6あたり。これに対応するあたりのテミスティオスのテキストは、目的としての形相と、可能態としての質料とが織りなしてできるテレイオス(完成態)として、エンテレケイアを考えている感じだ。できあがった最終的形状のこと。さらに最近オンライン古書店で入手した『知性に関する2大ギリシア語アリストテレス注解者』("Two Greek Aristotelian Commentators on the Intellect”, Pontifical Institute of Mediaeval Studies, 1990)の序文によれば、どうやらアフロディシアスのアレクサンドロスの肝心のテキストというのは、先のMantissaではなく、そのものずばりの『霊魂論』のほうらしい。Mantissaや、Questionesなどはアトリビューションなどの問題も必ずしも決着していないのだそうで(ちなみにこの本、アレクサンドロスのMantissaの抄訳と、テミスティオスの抄訳を収録したもの)。そっか、なるほどね。それにしてもテミスティオスのテキストは、問題の箇所以外のところも面白そうなので、Mantissaと並行して読んでいきたいところだ。
さらに、初期注解者たちに関してとても刺激的な著作。例の『大航海』No.65で鈴木泉氏あたりが紹介していたと思うのだけれど、ジャン=フランソワ・クルティーヌ『類比の発明』("Inventio analogiae", Vrin, 2005)。まだ読みかけだけれど、これの第二部が、初期注解者たちがアリストテレスのテキストをどうプラトン主義的に屈折させたかを明らかにしていてむちゃくちゃ面白い。『自然学』の「後」(メタ)に来るはずだった『形而上学』が上位に持ち上げられる過程とか、存在の統一性について述べられているもとのテキストの箇所が存在神学的にずらされる様子とか。いや〜、改めて初期注解者たちのテキストはちゃんと読みたいなあと思う。
このところ、アフロディシアスのアレクサンドロス『コスモスについて』("Alexander of Aphrodisias on the cosmos", Brill, 2001)を読み始めている。アラビア語、英語の対訳本。なにしろこのテキストは、アラビア語版でしか残っていないらしいので、英訳を参考にこれまた原書講読。個人的には、アヴェロエスの『トピカ小注解』などをこの半年ほどかじり読んで、アラビア語の字面にもだいぶ馴れてきたものの、やはりまだテキスト本体を読んでいるというよりも辞書を読んでいる感じで(苦笑)、相変わらず遅々たる歩み。ま、焦らずゆっくり行こう。まだ最初の4分の1程度のところだけれど、内容的には、アリストテレスの運動論の注解(第一動因などについての)なのだけれど、やはりどこか新プラトン主義的な気配が濃厚。うん、アフロディシアスのアレクサンドロスについては、少しいろいろなテキストに当たってみたいところだ。
と同時に、思うところあって目を通していたのが、基本書の一つジェフリー・ロイド『後期ギリシア科学』(山野耕治ほか訳、法政大学出版局、2000)。とりわけ5章「ヘレニズム時代の天文学」を興味深く読む。当時の天文学が占星術的関心と一体で、しかも「数学に偏向し」、経験的な探求がごく限られたものであったとしても、歳差や「惑星経路」など測定による緻密化が進んでいた点で「天文学者と哲学者が対照的」だったといった指摘がされている。「不規則性が、規則的で均一な運動を用いて説明されなければならない」という当時の考え方は、大きな制約となったらしいけれど、それでも「原因は複数ある」という自然現象の併存的な説明が単なる言い訳に陥っていたエピクロスの立場などよりは、はるかに厳密だったというわけだ。うーん、このあたりの立場の相違が「天文学対哲学」という感じの分離・対立になるというのはちょっと疑問なのだけれど、そのあたりの詳しい状況は知らないので、そういう分離・対立があったのかどうかという目でギリシア文化のアラビア経由での伝達をもう一度見直してみる必要もあるかな、と漠然とながら思ったりもする。
ちょっと面白い論集。『文化イコンとしてのティマイオス』("Plato's Timaeus as Cultural Icon", Ed. Reydams-Schils, University of Notre Dame Press, 2003)。宇宙開闢論『ティマイオス』について、その古層やら後世への影響やらを検討した13本の論考。個人的に面白かったのは、まずリュック・ブリソンによるカルデア神託と『ティマイオス』についての論文。2世紀にユリアヌスなる人物によって書かれたとされるカルデア神託が、いかに『ティマイオス』の当時の解釈を再利用しているかを論証している。次にデーヴィッド・ルニアによる初期キリスト教思想への『ティマイオス』の影響についての一文。それからスティーヴン・ジャーシュの論文。マルティアヌス・カペラ(「フィロロギアとメルクリウスの結婚」)とアリスティデス・クインティリアヌス(「音楽論」)の霊魂論の照応関係をまとめたもの。ほかにもいろいろ。いずれにしても、古代末期にいたる『ティマイオス』の思想的な広がりをまざまざと感じさせる。でもま、突出したシンボルというよりは、基底的な潮流と見るほうがよいように思われるので、タイトルの文化イコンっていうのはどうかなという気もするのだけれど……(笑)。
久々に都内の風景(あまり意味はないが……)
このところ読んでいた一つが、秦剛平『乗っ取られた聖書』(京都大学学術出版会、2006)。著名なユダヤ学者による、旧約聖書のギリシア語訳(いわゆる70人訳聖書)をめぐる、その成立史の語り下ろし。そもそもこのギリシア語訳聖書、従来の主立った説では、アレクサンドリアにユダヤ人の2世とか3世とかがギリシア語しか解さないために、ギリシア語訳が必要になったという話なのだそうだが、同著者は新しい仮説として、アレクサンドリアのユダヤ人たちが、マネトーンなる人物の「ギリシア史」という書物に対抗し、自分らの民族も相当古いのだということを示すために作り上げたものなのではないかという説を提示している。ギリシア語訳の聖書が、当時のアレクサンドリアの民族的な拮抗状態の反映とする視点だ。しかもその底本となったヘブライ語(ヘブル語)版は、一般に考えられているように単一の版が存在したのではなく、並行して様々な版があった可能性があるのだという。翻訳を突き合わせて見るとそういうことになるのだそうで、このあたりの具体的な議論はなかなかに刺激的だ。そしてまた、そのようにして一応の成立を見たギリシア語訳にも、並行していろいろな訳が存在していた(エウセビオスの『教会史』などに記されているという)。それらを押しのけて70人訳は、キリスト教の中で正典とされるようになり、初期教父たちの間では、その権威付けを強化する言説が繰り返されていく……それが表題の「乗っ取られた」の意味なのだけれど、このような文献学的アプローチと、それから政治的な関係性が見事に浮かび上がってくるあたりが、まさに学問的な面白さの極みという感じだ。エウセビオスの『教会史』、ずいぶん前にLoeb版の1巻目の途中で放っぽっていたのだけれど、ちょっとまた続きを読みたくなった。2巻目とか面白そう。
そうそう、同書の最初の口絵になっているアレクサンドリアの灯台の図が、ネットにも転がっているので、転載しておこう。プトレマイオス1世がファロス島に建てたという大灯台。この絵が描かれたのは、石棺の蓋だという3世紀ごろの大理石の石板。ローマ文明博物館所蔵。船と灯台がキリスト教の寓意になっているのだという。「Firma victoria que vixit annis LXV」という碑文は、フィルミア・ウィクトーリア、享年65歳、ということ。
どのみち行けなかっただろうけれど、年明けにリュック・ブリッソンなるフランスの学者によるプロティノスに関するセミナーが慶応であったらしい。この人物、どうやら大御所らしく(著作とか読んだことがないもんで……)、フラマリオンのポケット本(GFシリーズ)の新仏訳『エンネアデス』9巻本の翻訳・総指揮を執っている。プラトンなども論じているようだし、そのうち何か読んでみたいところ。それはさておき、これまた見過ごしていたのだけれど、岩波文庫で『善なるもの一なるもの』(田中美知太郎訳)が昨秋復刊になっていた。『エンネアデス』から、表題作(6-9)と「三つの原理的なものについて」(5-2)を訳出したもので、文庫版の初版は1961年。戦前からの古典研究を継承しているだけあって、見事な訳業には舌を巻く思い。一般読者向け、として包括的に記されている解説がまた的確で、解説というもののある種の理想形のようにも思われるほど。『エンネアデス』の構成(ポルピュリオスによる)から、ポルピュリオスなどの伝えるプロティノスのエピソード、政治史がらみの時代的な背景、大きな視点からの思想的な影響関係、思想の革新性などが要領よくまとめられている。いや〜岩波の復刊ものはなかなかいいっすね。今後にも期待。
このところ翻訳での刊行が相次ぐピーター・ブラウン。『古代末期の形成』(足立広明訳、慶應義塾大学出版会)も、薄い割にはなかなかの読み応え。原著は1978年の刊行で、ブラウンによる古代末期についての歴史観の変換を告げたとされる、一連の講演をまとめたもの。日本語版への序文というのがついていて、ブラウンが批判していた相手というのが、当時の大御所だったフェステュジエールやドッズだったことが明示されている(もちろん、批判するからといって敬意を失ったりはしないのだけれど)。古代末期には社会不安が拡大し、それへの反動という形で神秘主義などが拡がったとする両者のスタンスに、何もそんなものがなければ神秘主義は拡大しないわけではないと、ブラウンは挑んでいった、ということらしい。たしかに前二者のスタンスは、いかにも大陸的・否定神学的な見方(ロマン主義っぽい?)で、ブラウンのほうはむしろ、社会的な豊かさの内部から変革が導かれていったという読み替えを行っている。こうして、個人の台頭、古来からの異教的伝統に生じた変化、天上・地上の力の変換(キリスト教による組み替え)などが、社会の変化という視点からテーマとして扱われる。なるほど、イアンブリコスやポルピュリオスなどの思想動向(伝統の実践が、怪しげな魔術ではなく、上位のものに関わるものだと見る)が、そうした上昇志向の社会的な文脈の中に位置づけられるというあたりは、なるほどと思うことしきり。初期キリスト教の変貌というのも、改めて興味深い問題に見えてくる。
古代思想ものを一つ。エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(江川隆男訳、月曜社)を読む。これはまたとーても面白い。ストア派の基本原理が一種の唯名論(唯物論)にあり、しかもそれが「論理学の要請というよりも、むしろ自然学の帰結である」(p.23)というところからして、すでにして魅了される思い。個々の物体のみを基本単位として認めるその立場は、一方でそれが生み出す非物体的なもの(属性など)を認めているが、興味深いのは、それが動詞的に理解されるものなのだということ(あるいは述語になるものだということ)。ここから、非物質的なもの(レクトン)が織りなす「意味される対象」が実在の「指示対象」から区別される、ということになって、なんだかソシュールみたいな話にもなっていったりする。さらにこれらが空間や時間の領域へと拡張されていく様はなんとも刺激的だ。ブレイエの解釈、そしてその詳述ともいうべき訳者の解説。いずれもやや晦渋なところもあるものの、唯名論の長い系譜を改めて提示してみせたという意味でも実に興味深い論考だ。新しいマテリアリズムの可能性?