うーん、これはどうなのか……。ヒルマン『麻薬の文化史』(森夏樹訳、青土社)を読んでみた。センセーショナルなタイトル。でも一応、古代ギリシア・ローマにおけるファルマコンについての概説書という感じではあるのだけれど、とにかくファルマコンを「ドラッグ」と英訳しているらしい(邦訳では「麻薬」)(笑)のがかなり気になる……。植物性の薬をなんでもかんでも今風の「麻薬」の範疇に入れてしまうのはちょっと作為的だし、そういう現代的な意味合いのドラッグに引き寄せた解釈はときに強引で、かなりの断定口調を帯びたりもし、例として示されているテキストからも逸脱した解釈になっていたりする印象……。いくつか挙げてみるなら、たとえばテオフラストスの『植物誌』とかプリニウスの『博物誌』とか、伝聞による記述も多々含まれているにもかかわらず、著者はそういう点を軽くスルーして、記述内容が「あきらかに向精神性のものだ」という点だけを強調してみせる(p.93)。ニガヨモギについてのルクレティウスの説明では、医者が子供に飲ませる(薬としてでしょう)際の話なのに、著者は「古代世界は、それを飲むことをけっしてやめなかった」と、話をすり替えてしまう(p.112)。矢毒を口にしたときのニカンドロス『毒物誌』の記述も、矢毒を英気回復薬として常用していたから中毒症状をよく知っていたのではないかと、ただ推測のみで言い放つ(p.123)。引用されるテキストとその前後の断定口調の説明文は、なんだか必ずしも呼応していないような……(苦笑)。
植物が幅広く医療行為に使われ、また一種の嗜好品にもなっていたという点はもちろん疑いえないわけだけれど、だからといってギリシア人・ローマ人をみな「麻薬常習者」(章のタイトルになっている)のように見なすのは行き過ぎだろうし、学問的な意義も感じられない……(ま、たとえばドラッグ合法化のためのイデオロギーにとっては意味があるのかもしれないが(?))。たとえば『オデュッセイア』でキュクロプスに飲ませるぶどう酒が「麻薬入り」だったと著者は状況証拠を重ねて述べるけれど(p.159)、それをもって当時麻薬がふんだんに使われていたというような議論にもっていくだけなのはちょっといただけない……。むしろより広範な古代の植物利用全般という文脈で考える筋合いのものなはず。そしてそういう文脈で考えるのなら、麻薬うんぬんという話でいたずらに煽るのではなく、たとえば植物がらみの象徴体系とか当時の魔術概念とか、もっと多面的なアプローチから(もちろん緻密に)論証してほしかったように思う。テーマはなかなか興味深いだけに、ちと惜しいんではないかしら、と。同書のベースは論文審査で書き直しを命じられた博士論文だというけれど、なんだかこの扇動ぶりを見ると、ペケをくらった理由も、著者が言うようなアカデミズムの偏狭さのせいというより、やたらと扇動的・断定的なその語り口、論述方法のせいだったのでは、なんてつい勘ぐりたくもなるというもの(笑)。
……余談だけれど、ちょうどプリニウスの『博物誌』の邦訳が刊行されている。植物編と植物薬剤編(いずれも大槻真一郎訳、八坂書店刊)。これはぜひそのうち。