バタイユの中世

酒井健『バタイユ』(青土社、2009)を読み始める。というか、「中世」と題された第5章から先に読む(笑)。バタイユが中世にこだわっていたという話は知ってはいたものの、内実はあまり知らなかった。で、同書によると、そこに見られるバタイユの関心は、『エロティシズム』などにも共通する「生の連続体」の探求だったという。たとえば中世の武勲詩。バタイユはそれを文字に定着しただけのテキストとは見なさない。口承の語りのパフォーマンス、しかも演じるトゥルヴェールやその聴衆をも巻き込んだ、情動の発露としての生きたテキストを念頭に置いているのだという。そうした情動・情念の共有によって成り立つ共感、その一体性・連続性。まさにそれはバタイユの一環したテーマ系で、こよなく愛したというガリアのロマンス語で書かれた「聖ウーラリ哀歌」(同書に原文と訳が収録されている)や、レミ・ド・グールモン編纂の『神秘ラテン語』(口語ラテン語詩のアンソロジー)の愛読にも通じるものであり、また、イタリアの女性神秘家アンジェラ・ダ・フォリーニョの神秘体験への共感にも通底するという(それは新プラトン主義の流れの中にあるという)。

情念への傾倒、連続性への志向ということで、バタイユの中世へのアプローチはある種一貫したテーマとして描き出されている……。うーん、けれどもバタイユ自身もまた、中世の言語や詩作品、神秘思想などがそうであるように、どこかシステマティックなものから逃れ、逸脱していくような印象がつきまとうのだけれど……。その意味では、脱線と回帰を繰り返していくような同書の論述の脈路もまた、あるいはそうした逸脱感を体現しているのかもしれず、かくもバタイユは論述の困難な対象なのかもなあ、と改めて思ったりもする。その上で思うのは、自分でもかつて一時期こだわろうとしたことのある(大したことはないのだけれど……苦笑)、言語芸術の生きた側面へのアプローチという観点を、再び忘却の淵から引き上げてみたい気もするなあということ……か。