イスラム聖者の研究書

直接関係する領域ではないのだけれど、比較研究という観点から、イスラム方面の中世研究というのもやはり多少とも気になる。というわけで、私市正年『マグリブ中世社会とイスラーム聖者崇拝』(山川出版社、2009)を読み始める。北アフリカのいわゆるマグレブ地方に史料の範囲を絞り、主にスーフィズムが伝わる11世紀以降のイスラム聖者についてかなり包括的にまとめた労作。期待通り、比較という観点で興味深い記述がいろいろと見られる。たとえば次の点。「スーフィスムが土俗化する過程で、聖者崇拝が盛んになり、イスラームが民衆化した」(p.48)というのが一般的な説明とされているけれど、著者はこれは間違いではないとしつつも、その地域での初期の聖者崇拝は、イスラム教という比較的新しい宗教をもって入ってきたアラブに対し、現地のベルベル人が表面的にイスラム受容を取り繕いつつ、自分たちの伝統的信仰を守ろうとした、という側面もあったことを指摘している(p.47)。だとすると、キリスト教は土着信仰を吸収して拡大した、などと一般には言われているけれど、それなども案外、当初はキリスト教を装いながら土着信仰が温存されていったみたいな部分もあったのだろうなあ、と思ってしまう。また、聖者像の比較では、キリスト教での骨など聖遺物の崇拝に対して、イスラムでは骨の持ち出しは禁じ手で、結果としてキリスト教のように分骨などによって聖地が拡散するような事態はイスラム教ではありえないという(p.37)。

著者はこの後、聖人に付与されるバラカ(神の恩寵のような意味だという)の意味の変遷をまとめている。それによると、もとは広い意味での精神的・物質的祝福を意味したバラカは、イスラム教の成立後にはすべてアッラーに由来するとされて内面化・一元化されるようになるものの、マグレブでの史料からは、徐々にそれが再び拡散し物質化し始めることが窺えるらしい。このあたり、伝播・伝達の力学が垣間見えて興味深い。この後、さらに聖者の特徴づけや奇跡の分類、マグレブ社会と聖者の関係性などが各章で検討されていくようで、まだまだ面白そうではある。