これも年越し本の一つ。『読むと書く―井筒俊彦エッセイ集』(慶応義塾大学出版会、2009)。いやー、なによりも今ごろに井筒氏のエッセイ本が出るとは。なかなか嬉しい。帯には入門に最適とかなんとか書いている(ただし値がちょっと張るのが玉に瑕だが)。実際そんな感じで、アラビア文化やイスラム哲学の概説的なエッセイのほか、言語論、若い時代の詩論、デリダやバルトなどについての批判的エッセイなどなど、収録されている文章はどれも短く、内容は実に多岐にわたっている。「アラビア科学・技術」(1944)では、アラビア科学と称されるものがギリシアやインドなどの科学の伝承であり、従事した学者もほとんどがアラビア人ではなく、回教(イスラム)を信奉する外国人だと述べ、「アラビア」と俗に言われているのはむしろイスラムと言い換えたほうがよい、といったことを述べている。時代はめぐりめぐって、今またアラブ思想みたいな言い方に戻ってきている感じもするだけに、なにやら感慨深いものがあるなあ、と。
拾い読み的に読んでいるのでナンなのだけれど、今のところとりわけ興味深かった文章として「神秘主義のエロス的形態聖―ベルナール論」(1951)が挙げられる。ベルナールの神秘主義が重要なのは当時の時代転換期にあって、その転換を敢行・超克していく時代史的光景にある、とした上で、その神秘主義(激情的な神への恋のようだとされる)の源泉が、実はギリシアに対するヘブライの神学思想にあるとして、著者はいきなり壮大なステップバックを行う。一神教的なものの成立におけるギリシアとヘブライの比較文明論的な対比(神から人間的被覆を除去するギリシア、人間性を留め深化させるヘブライ)を試みたのち、再びベルナールに戻り、その激情型の性格がいかにそうしたヘブライ以来の伝統をまっとうに受け止めているかを論じていくというもの。このステップバックは井筒氏のほとんどメソッドとなっている感じもする。たとえば「意味論序説―『民話の思想』の解説をかねて」(1990)という文章などでも、佐竹昭広『民話の思想』の「またうど」の意味構造の話をするために、ここでもソシュール言語学や意味論の源泉へとステップバックしてみせる。で、そこから再び表題の議論に戻るときには、カルマや「アラヤ識」の話をも引き連れて戻ってくるという趣向だ。うーむ、なんともしなやかで鮮やかな筆さばき。ちなみに書全体の表題になっている「「読む」と「書く」」(1983)は、よみかきを学的に重大な問題にしたてたロラン・バルトについての、やや両義的な立場で書かれた一文。バルトの姿勢に肌の合わなさを感じつつも、そこに東洋古来の哲学との一致を面白がっていたりする、なんて記述がなかなかに人間くさくて良いかも(笑)。