まだ読み始めたばかりで、ほとんど序論部分だけなのだけれど、すでにして面白い展開になっているのが、デーヴィッド・ブラッドショウ『アリストテレスの東西』(David Bradshaw, “Aristotle East and West”, Cambridge Univ. Press, 2004)。これはのっけからぐいぐい引きずり込む感じ。アリストテレスが用いる用語の一つ「エネルゲイア」(ἐνέργεια)の用法が、著作の中でどう変遷し、そして後代においてどう読まれ解釈されたかを、順にひたすら追っていくというものなのだけれど、さながら海面に出ていた一本のロープをひっぱったら、それが海中に拡がる網の一部で、海底にあった膨大な量の遺物があれもこれもひっかかって浮上した、という感じの展開になっている。最終的には東西の文化圏におけるアリストテレス受容の違いにまで至るという見取り図。うーむ、これは見事。壮観だ。序論に相当するのは第四章くらいまでで、アリストテレス本人のエネルゲイアの用法から「不動の第一動者」をめぐる神学の問題圏、そしてリュケイオンの継承者たちがそれをどう継承したか(しなかったか)、さらに中期プラトン主義にどう反響し、次いで新プラトン主義にどう影響するのか、といったあたりまでが文字通り「たぐり寄せられて」いる。
先週末のメルマガでも触れたラ・ロシェルのジャン。ボナヴェントゥラの先輩筋にあたるこの人物についてのごく小さな論考(一見ほとんど中間報告のようなもの)を読んでいて、こちらの勘違いもあって軽い衝撃を受ける(苦笑)。以下はその顛末。論考というのは、デニス・ライアンという研究者の「ラ・ロシェルのジャンにおける存在と本質の区別の定式化」(Denise Ryan, ‘ean de la Rochelle’s Formulation of the Distinction between Being and Essence’, in “Maynooth Philosophical Papers(4)”, 2007, pp.123-129)というもの。まず、ジャンの『霊魂大全』(Summa de anima)において、quod est(実際にあるもの:存在)とquo est(実際にあるものの拠り所となるもの:本質)という、トマスが用いていた区別が、物体的なものと非物体的なものの違いの文脈で語られているという説明がある。次いで、この区別がもとはボエティウスに遡ることが示され(ふむふむ、これはよく言われること)、一度忘れられていたこの定式がフィリップ・ル・シャンスリエ(13世紀初頭、パリ大学の学長)によって再び見出されたことが紹介されている(おー、これは勉強になるなあ、と感心)。続いて論考はアラブの伝統に目配せし、アヴィセンナの有名な「中空人間」の思考実験(これはジャンのテキストにも取り上げられている)に言及し、デカルトのコギトとは文脈も目的も違うことを解説する(そりゃそうだ、と納得)。アヴィセンナにおいて魂と肉体が意外に密接に関係していることを示し、アヴィセンナの用語において「本質」ではなく「モノ」が使われていること、両者が必ずしも同じ意味ではないことを指摘してみせる(おお、と思う)。ついで今度は非物体的存在についての質料形相論をめぐるトマスとボナヴェントゥラの対立を取り上げてみせる(あれれ、ジャンはどうなったの?と訝る)。そして結論部分で、なんとトマスのquod estとquo estの区別のソースは、ジャンの『霊魂大全』だったのではないかという仮説を示してみせるのだ!いきなりだったので、ちょっと面食らった(どひゃ−)。こちらが、執筆年代を少々勘違いしていたせいもあるのだけれど……。トマスの『存在者と本質について』は1252年から56年頃(もっと前だと思っていた)、ジャンの『霊魂大全』は1235年から36年頃(もっと後だと思っていた)なのだそうで、さらにトマスがジャンの著作を読んでいた可能性を示す証拠はほかにもあるという。うーむ、例によってこの是非はすぐには判断しがたいけれど、確かにそれはちょっと面白そうではある。ちなみにこのデニス・ライアン氏は、ジャンの『霊魂大全』の校注・英訳を博士論文で手がけていると記しているから、そのうち出版されるかもしれない。期待していよう。