コペルニクス

ユリイカのコペルニクス特集、そして日本の受容史


 今年はコペルニクス生誕550周年だそうで(ちょっと半端な感じですが(笑))、それと地動説を描いた漫画作品の『チ。』などもあって、『ユリイカ』(青土社)が1月号で特集を組んでくれています。国内の当代ルネサンス研究などの有名どころとかがこぞって寄稿した(?)、ボリューミーな一冊に仕上がっています。さっそく一通り読んでみました。

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 コペルニクスのほか、前後するフィチーノやブルーノ、ガリレオなどなどの話も、いわば定番として当然出てきますが、そんななかで、イスラム圏・ユダヤ圏などの研究者の寄稿が面白かったですね。スンナ派星辰神学の話とか、ユダヤ教徒がイスラムとヨーロッパの架橋をなしたかもしれないといった話とか。あと、個人的にはユルスナールの『黒の過程』からルネサンスを逆照射しようという論考とかも。

 日本での地動説の受容史についても、池内了氏が寄稿しています。個人的に同氏の『江戸の宇宙論』(集英社新書)も併読してみました。これもなかなか面白い一冊です。

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  蘭学者の本木良永が日本で最初にコペルニクスを紹介したとされていますが、同書ではそれに続く人々、つまり司馬江漢(これは別の本で取り上げているため、同書では副次的な扱いです)、長崎通詞の志筑忠雄、豪商の番頭だった山片蟠桃を取り上げて、その足跡や著書などを紹介しています。でもなんといっても、冒頭でまとめられている蘭学の変遷史が、政治絡みの部分も含めて圧巻です。

大下宇陀児

これぞ奇想、という数々


 初秋くらいから、大下宇陀児の短編集を読み始めていました。『偽悪病患者』(創元推理文庫、2022)です。これは断然面白い!手紙のやりとりで事件が描かれ解決する表題作のほか、都市伝説・怪談をモチーフにした幻想奇譚とでもいうべき「魔法街」とか、凝った趣向の短編がずらり並んでいて楽しめました。犯罪小説としては、三角関係ものとかが割と多いのでしょうかね。とにかく、ノーマークだった短編の名手です。

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 創元推理文庫からはもう一冊出ていますが、kindle unlimitedにもいろいろあるようで、「日本探偵小説全集9巻」が大下宇陀児作品集になっていて、中編「闇の中の顔」などが収録されています。これは途中から冒険小説っぽくなっていくもので、江戸川乱歩などの一部の作品を彷彿とさせます。

 wikipediaによれば、大下は「変格派」探偵小説を標榜し、トリックや謎解きよりは人間像を重視したのだとか。それもまた個人的に合う感じがし、好感がもてました。作品はまだまだたくさんあるようなので、しばらく楽しめそうです!

アリストテレス思想圏からの贈り物

混沌とした思想圏を切り分ける胆力


 個人的に、長らく古代・中世思想史の研究と称して、素人学問をやってきました。最近こそ、そこそこ目が悪くなってしまったので、積極的に一次文献や論文などをあさってデータベースを作る、なんて作業はできなくなってしまいましたが、自分の関心領域に重なる著作などに出会うと、なんだか嬉しくなりますね。

 『哲学者たちの天球』(アダム・タカハシ著、名古屋大学出版会、2022)はまさにそういう一冊でした。

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 13世紀のアルベルトゥス・マグヌスと、彼が参照していたアリストテレス注解者ことイブン・ルシュド(12世紀)、そして遙か昔の注解者アフロディシアスのアレクサンドロス。この系譜を中心に、自然哲学や形而上学、霊魂論などの壮大な系譜を浮かび上がらせています。

 古代や中世の文献は、全般的に、記述されている内容も、ときにかなりとっちらかっていると思うのですが、同書はそれを、チャート式(悪い意味ではなく)とでもいいますか、かなり明確に切り分けてきっちり整理しています。これはわかりやすい。わかりやすすぎて、「こんなにばっさり明確に整理してしまっていいんだっけか?」と不安を覚えるほどです(笑)。若い編集的知性のたまものですね。

 個人的に、久々に刺激を受けました。ま、とはいえ個人的には、今後大量の文献を読み散らすようなことはできないと思われ、限定数の古典を読み返すくらいのことしかできないでしょうけれど、のらりくらりと緩く読んでいけたらと思いますね。たとえば、長らく読みたいと思っていて、数年前にようやく手に入れたものの、積ん読のままになっている『アリストテレス霊魂論の逸名コメンタリー3編』(Trois commentaires anonymes sur le traité de l’âme d’Aristote, 1971)とか、改めて開いてみようかな、なんて思いました。

ソシュール再び

アナグラム研究とは何だったのか


 ソシュール晩年の「アナグラム研究」については、これまでもいくつか有名どころの論考があったと思いますが、なんだかよくわからないままでした。そこでこれ。『ソシュールのアナグラム予想』(山中桂一、ひつじ書房、2022)をざっと読んでみました。

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 アナグラムというと、一般に名前などの、アルファベットの入れ替えによる言葉遊びを思い浮かべますが、ここでいうアナグラムは、古典詩の詩法において存在したかもしれない、名前などを詩句の中に分散して埋め込む技法、ということです。たとえば日本語なら、横書きの段落の行頭文字を縦に読むと、なんらかの言葉が現れる、といった言葉遊びがありますが、そのたぐいのものですね。そのようなものが伝統的な技法としてあったのではないか、というのが、ソシュールの見立てだったのでしょう。

 伝統的なルールとして確立していた証拠が、ソシュールの研究からは見いだされなかったため、この本では「アナグラム予想」と称しているようです。では、そういうものは本当にあったのでしょうか。

 結論から言うと、あったらしい、というのがこの本の立場です。ウィリアム・ベラミーという研究者が、2015年の著書などで、シェークスピアの詩句の研究を通してアナグラムの考え方を定式化してみせているのだそうで、そのためこの本は、ベラミーの研究の紹介に、とくに後半のかなりのページを割いています。ベラミーの定式化の是非については、ちょっと判断できません(門外漢なので、理解・納得していない部分も少なからずあったりします)が、ソシュールのアナグラム研究を継承する研究が近年出てきた、というのはとても面白い現象に思えます。

 なぜソシュール自身は定式化に至らなかったのでしょうか。それはソシュールが、直感的にそうしたルールに気づいていたものの、音声面(二連音など)にこだわりすぎていたため、隠された語の復号のキーを捉え損なったからだ、とされます。アナグラムはやはり、文字表記を対象とした操作なのだ、というわけですね。

 

哲学のおおもと

おおもとは反論にあり


 最近読んだマルサスにしても、マルクスにしても、それぞれの立論は誰かの議論への反駁というかたちをとっています。思想的議論の根源というのは、やはり反論にあるのかもしれないなあ、と改めて思いますね。

 思うところあって、最近またプラトンによる『ソクラテスの弁明』と『クリトン』を希語で読み直してみましたが、そこでもやはり、議論の出発点は反論にあり、という感じでした。まあ、裁判の場で糾弾されているわけですから、反論から出発するのは当然といえば当然です。メレトスとかアニュトスとか、糾弾する側への反論こそが、ソクラテス側の立論の根底をなしている感じですね。根源は単なる対話なのではありません。そうではなくて、反論・反駁なのです。ここを取り違えてはいけないと思います。思想を語るための基礎は、反論にあり、と。

 昔、霊魂論の哲学史的研究と称してメモ取りながら読んだ『パイドン』も、Loeb版の同じ巻の所収なので、そちらもまた読み返そうと思っています。哲学的思惟と宗教的信仰のあわいを、改めて味わってみたいところです。