サンデル本

先にNHKで放映された『白熱教室』の人気もあってか、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房)が人文書としては異例なほど売れているそうで、近所の小さい書店でも平棚に積まれていた。というわけで、せっかくなので購入し読んでみる。なるほど、これは『白熱教室』の基本ラインをよりわかりやすくまとめたもの、という感じ。個人の自由をベースに、正義を善や目的などから捨象して考えるカント=ロールズの路線に対して、サンデルはアリストテレスをいわば「復権させる」ことで、善や目的論の再定義を考えようとしている、というのがそれ。このアリストテレス=サンデルの対抗路線は、主意主義的なものの見方の限界を示し、一方でマッキンタイアのナラティブ論とかをも入れて、個人主義の立場からは出てこない、コミュニティに帰属する個人の責務をも規定しようという、なかなかに興味深い立場。なるほど、こういう形でのアリストテレスの復権というのはとても面白い着想ではある。テレビ版では、合間に入る解説が、「これがサンデル自身の立場なんですねえ」みたいに言っていただけで、サンデル自身の立場はあまり明確に示されなかった気がするけれど、書籍の方はとくに後半によりはっきりしてくる印象。あくまで個人の側からのコミュニティへの関わりが問われるわけだけれど、一方で、たとえば逆に国家の側は国民にどう関わりうるのかとった問題はオープンになったままで、今週末は選挙だし(笑)、アリストテレスとかを俎上にのせてそんなことを考えるのも面白いかもしれないなあ、と思ってみたりもする(笑)。

「正統派をめぐる戦い」5 ダマスキオス(了)

第6章はダマスキオス。イアンブリコスはポルピュリオスの主知主義を批判していたというけれど、その衣鉢を継ぐダマスキオスは、やはり当時隆盛だったというプロクロスに敵対することになる。ダマスキオスにとってプロクロスは、イアンブリコスの形而上学を歪曲した上で正統派として示しながら、それをイアンブリコスの正真正銘の教えとして示した悪しき輩だったという(やはり主知主義的で、明解さを信条とする立場を取っていた)。ダマスキオスはイアンブリコスのポルピュリオス批判を継承する形で、真正のイアンブリコス像を打ち立てようとして、プロクロスとの長い対話に入り、相手の批判を繰り返すことになる。

しかしながらこうした先人への感情移入がまねく、本人の神学的な否定性のせいで、ダマスキオスは当時から大変不人気だったという。イアンブリコスの後継者と見なされていたのはプロクロスのほうで、その一派の間ではイアンブリコスの著作そのものではなく、その明解な注釈書が読まれていたという。そのせいもあって、イアンブリコスの著書は顧みられず、すっかり失われてしまうことになった、と著者は指摘している。もちろん、それにはキリスト教による異教の書の焚書も関係しているらしい。第7章では、そのあたりの全体的な状況がまとめられているけれど、どうやらキリスト教の台頭を、プラトン主義陣営が総じて軽く見ていたという事情もあるらしい。それでもプロクロスなどはそうしたキリスト教の隆盛に危機感を抱き、その状況を打破しようとしていたらしい……。

こんな感じで、プラトン主義の四人を通じてその思想圏の変遷をまとめたのが、このアタナシアーディ『後期プラトン主義における正統派をめぐる戦い』だけれど、キリスト教の台頭といった大きなうねりの中で、もっと小さな分派的抗争が繰り返される様などは、やはり今に通じる変わらぬ営み・動向なのだなあ、としみじみ感じさせてくれるものがある。シンプリキオスやピロポノスといったさらに後の世代についても、そういった動きから捉え直してみたいような気がしてくる。

古代文字

これまた「書物復権」サマサマという感じでゲット。高津春繁、関根正雄の両雄の共著『古代文字の解読』(岩波書店、1964-2010)。この手の文字解読の歴史みたいな本は今でこそいろいろ出ているけれど、なんのなんの、碩学二人の手になる本書はなにやら今なお燦然と輝いている感じだ。エジプト聖刻文字、楔形文字、ヒッタイト文書、ウガリット文書、ミュケーナイ文書のそれぞれについて、最終的な解読に至るまでの間、様々な学究たちがどのようなアプローチをしかけ、どのような仮説を提出したかが、実に事細かく紹介されていく。一般向けということで平易な文章なのだけれど、その実に多岐にわたる紹介は圧倒的だ。クリシェだけれど目くるめく一大絵巻のようで、いつのまにやら引き込まれてしまう(笑)。うーむ、こりゃ素晴らしい。白黒ながら図版も多数。