今道中世哲学本から – ニュッサのグレゴリオス

これもまた今年上半期の一大収穫と思われる、今道友信『中世の哲学』(岩波書店、2010)をついに読み始める。まだほんの冒頭を眺めただけれだけれど、すでにしてこれはもの凄い。なんというか、まるで遺書のような静かな迫力に満ちている。文章の醸す緊張感というものを久しぶりに味わう思いがする。マレンボン本があくまで哲学史的な文脈にとどまりながら見識の転換を狙うのとは対照的に、これは哲学史を哲学的思索へと開き直すという、まさに王道を求道する論考という印象。中世哲学の通史をもとに「歴史研究から体系的課題を喚起すること」、つまり現代や未来への思索の推進力を歴史から汲み上げること。まさに圧巻。

同書は教父学から論を始めている。まず主に取り上げられるのはニュッサのグレゴリオスとアウグスティヌス。そこに様々な同時代、あるいは後世の思想家たちが随時言及される。ニュッサのグレゴリオスからという構成自体がすでにして異彩を放っている(でも確かにグレゴリオスは、人間の行為の自由に関して早くから問題にしている人物とされていたのだっけ)けれど、この今道本では、グレゴリオスの「徳の内面化」や「謙遜」などの概念が、ヘレニズム時代にはほどんど考えられることのなかった徳目として重視されていることを指摘し、教父時代がヘレニズム時代とはまた違う、一つの分節として重要であることを強調している。その上で、同じくヘレニズム時代とは違う概念として「勇敢」を取り上げ、それが「パレーシア」(神に語り掛けること)に結びついていることを説いている。そしてまた、自由との関連で取り上げられる「存在論的な力」としてのプロアイレシス(選択)の、豊穣な意味の拡がりが開陳される……。

マレンボン本

先に復刊されたJ.マレンボン『初期中世の哲学』(中村治訳、勁草書房)にざっと目を通す。原書は1988年刊。全体的には概説書なのだけれど、序文を見るに、中世初期が後の時代の前哨的な一時期と見なされ、ごく少数の思想家以外は闇に葬られていることに対して、実はその時期が哲学史の実り豊かな一時期でもあったということを示そうとして書かれたもの、とされている。確かにあまり聞かない思想家の名もちらほらと出てくる。とはいえ、基本的にはメジャー(中世思想史的に)になっている少数の思想家(ボエティウスとかエリウゲナとかアンセルムスとか)を中心に章立てがなされていて、どこかちぐはぐな印象を抱かせもする。概説書という意味で全体的な流れを概観させようとすると、「豊か」だとされる時代のあまり著名でない思想家の扱いは結構簡素化されてしまい、同書が意図している一般通念的見識への戦いという側面は殺がれてしまう……ということか?うーむ、これは難しい考えどころ。本を書くのは実はとても難しい、ということを感じさせる書というのがたまにあるけれど、これはそういう一冊かもしれない。冒頭の第二版への序で、著者自身が、「主題をひどく不正確に述べた節」があったことを明らかにしているあたりも、こういうアポリアというか逡巡というかを物語っている気がする……。

トン・コープマン講義

トン・コープマンの新譜を聴くのではなく、著書を読む(笑)。『トン・コープマンのバロック音楽講義』(風間芳之訳、音楽之友社、2010)。てっきりもっとエッセイ本のようなものかと思ったら、小著ながらかなりハイブラウな一冊。これはもう、トン・コープマンによる「原典講読の勧め」というところ。当時の記譜や演奏習慣を再現・再構築するためには、周辺情報も含めた広範な文献に目を通さなくてはいけないということで、とくに装飾や即興演奏、アーティキュレーション、テンポなどそれぞれの項目について、最初に読むべきとされる当時の文献が紹介されていく。そう、奏者もそれなりに博学でないと、という話(これって、ある意味当然なのだけれど)。素人のしょぼいリュート弾きですらも、ある程度は原典のタブラチュアを見、当時の音楽論の書を読み、時代全体に関心を寄せる必要がある、と最近とみに思う次第。去る日曜には毎年恒例のリュート講習会もあったのだけれど、やはり理論とか考えなしにだらだらと弾いていてはいけないなあと自戒する(って、だらだら弾くのだってそれなりに難しいのだけれど……苦笑)。

「スアレスと形而上学の体系」 6

スアレスが「実在である限りにおいての存在者」を形而上学の考察対象と規定した、という話を受けて、続く第二部の三章から五章までは、スアレスの考えるその存在者とはどういうものなのかという議論が展開するようだ。まずは三章。ここではスアレスが、ens(存在するもの、存在者)とres(事物、モノ)とを同一視していることが指摘される。著者によれば、これもまたそれ以前の考え方をひっくり返すものなのだという。それまでは一般に、ensがsumの分詞形であることから本質の現実態を意味し、一方のresはその「何性」、つまりは本質を意味すると解釈されていたという。

著者はここで、スアレスみずからが振り返っているそうしたensの従来型解釈の変遷を、改めて確認しつつまとめていく。まず上のような解釈の嚆矢はカエタヌス(1469 – 1534:イタリアの神学者で、トマスの注釈書で知られる人物)にあるという。ensを分詞形と見るか、名詞形と見るかで、その語が指す内容が異なるという議論はそれ以前からあったらしいのだけれど(14世紀のジャン・カペレオルス)、カエタヌスと、とりわけその同時代人シルヴェストリス・デ・フェラーラ(1474 – 1528、同じくイタリアのドミニコ会系神学者で、やはりトマスの注釈書がある)が、トマスのesseとessentiaの区別に絡めてその議論を再び取り上げ、ensとresの明確な分割を導こうとしていたのだという。ところがスアレスは、この分割をひっくり返してしまう。どうやらそれは、ensの名詞的解釈(「存在を有するもの」)を拡張する形で、「存在を有する、もしくは有しうるres(事物)」と同一視するという議論らしい。なぜそんなことをするかというと、こうすれば形而上学の対象としての「存在」から、その現実的存在・現実態を捨象でき、翻って存在者はあまねく「実在的な存在者」として扱えるようになるからだ。著者も言うように、これはほとんどスコトゥスの存在の一義性のような話になってくる。うーむ、このあたりを読むに、スアレスはかなり戦略的な人というイメージかも(笑)。また、ensの分詞的解釈は、名詞的解釈の対立項としては無効になってしまい、代わりに「非在」が対立項として考察されるようになってくるという。このあたりが次章で取り上げるトピックとなるらしい。

プロクロス「カルデア哲学注解抄」 -11

Ὡς οὖν τὰ μετὰ τὰ νοητὰ λόγοι τῶν νοητῶν εἰσι, συνηγμένων ὄντων, οὕτος ὁ ἐν ἐκείνοις λόγος, ἀπ᾿ ἄλλης ἀρρητοτέρας ἑνάδος ὑποστάς, λόγος μὲν ἐστι τῆς πρὸ τῶν νοητῶν σιγῆς, τῶν δὲ νοητῶν σιγωμένων, σιγή. Μήποτε οὖν οὐκ ἔστι ταὐτὸν νοῦ ἄνθος καὶ πάσης ἡμῶν τῆς ψυχῆς ἄνθος · ἀλλὰ τὸ μὲν ἐστι τῆς νοερᾶς ἡμῶν ζωῆς τὸ ἑνοειδέστατον, τὸ δὲ ἁπασῶν τῶν ψυχικῶν δυνάμεων ἕν, πολυειδῶν οὐσῶν · οὐ γὰρ ἐσμεν νοῦς μόνον, ἀλλὰ καὶ διάνοια καὶ δόξα καὶ προσοχὴ καὶ προαίρεσις, καὶ πρὸ τῶν δυνάμεων τούτων οὐσία μία τε καὶ πολλὴ καὶ μεριστή τε καὶ ἀμερής.

知解対象の後に来るのが、知解対象すなわち集合的存在を表す言葉であるように、そうした対象のもとにある言葉、なおいっそう表現しえない別の一性の形を取る言葉は、知解対象に先立つ沈黙の言葉である。知解対象が口を閉ざすときの沈黙である。あるいは知性の花なるものは、私たちすべての魂の花とは違うものなのかもしれない。むしろそれは、私たちの知的な生において最も一者的な姿をしたもの、複数の姿をもつプシケーの、あらゆる可能態における一者かもしれない。それは、私たちが知性であるのみならず、思惟、憶見、注意、選択でもあり、そうした可能態である以前に、一かつ複数でもある存在、分割可能かつ不分割でもある存在だからである。