プロクロス「カルデア哲学注解抄」 -13

E’

Ἡ φιλοσοφία τήν τε λήθην καὶ ἀνάμνησιν τῶν αἰδίων λόγων αἰτιᾶται τῆς τε ἀποφοιτήσεως τὴς ἀπὸ τῶν θεῶν καὶ τῆς ἐπ᾿ αὐτοὺς ἐπιστροφῆς · τὰ δὲ λόγια, τῶν πατρικῶν συνθημάτων. Συνᾴδει δὲ ἀμφότερα · συνέστηκε γὰρ ἡ ψυχὴ ἀπὸ τῶν ἱερῶν λόγων καὶ τῶν θείων συμβόλων · ὧν οἱ μέν εἰσιν ἀπὸ τῶν νοερῶν εἰδῶν, τὰ δὲ ἀπὸ τῶν θείων ἑνάδων · καὶ ἐσμὲν εἰκόνες μὲν τῶν νοερῶν οὐσιῶν, ἀγάλματα τὰ δὲ τῶν ἀγνώστων συνθημάτων. Καὶ ὥσπερ πᾶσα ψυχὴ πάντων μὲν ἐστι πλήρωμα τῶν εἰδῶν, κατὰ μίαν δὲ ὅλως αἰτίαν ὑφέστηκεν, οὕτω καὶ πάντων μὲν μετέχει τῶν συνθημάτων, δι᾿ ὧν συνάπτεται τῷ θεῷ, ἀφώρισται δὲ ἡ ὕπαρξις ἐν ἑνί, καθὸ συνάγεται πᾶν τὸ ἐν αὐτῇ πλῆθος εἰς μίαν κορυφήν.

5.

哲学は、神から離れたり再びそこに戻ろうとしたりすることの原因を、永遠なるロゴスの忘却と想起にあると見なす。一方の神託は、それを父の表徴(の忘却と想起?)にあると見なす。両者は一致している。というのも、魂は聖なるロゴスと神の象徴から成るものだからである。一方は知的な形相に由来し、もう一方は神の一性に由来する。そして私たちは知的実体の似姿であるとともに、認識しえない表徴の像でもあるのである。また、魂の全体はありとあらゆる形相で満たされていながら、全体として一つの原因のもとに成り立っている。(魂は)神に結びつくすべての表徴に参与しているものの、その存在は一者において分離されている。それゆえ、そのものにある複数性はすべて、一つの頂に集められているのである。

epwing再び

ちょこっと部屋の整理をしたら、数年ぶりに『ロワイヤル仏和第二版』の付属CD-ROMが出てきた。だいぶ前に古いwinマシンでepwing化したものを未だに使い続けているのだけれど、当時変換に使ったのはフリー版のEBstudioで、前方一致のみ検索可。その後の『ランダムハウス英和』は有料版での変換だったのかどうか忘れたけれど、和英としても使える出力になっている(笑)。そんなわけで『ロワイヤル』も変換し直すかなあと思ってWebを見ると、昔の変換ツールのサイトはリンク切れ。pdic変換スクリプトはまだサイトがあるので、それでpdic化してからEBstudioで変換する手はある。ちょっとやってみたのだけれど、やはりちょっとアクサン文字の扱いが……。できれば別様にepwing化したいところ。他の方法としては、FreePWINGによる変換があり、これはUnix系で、あらかじめいくつかツールをインストールしておかないといけないみたい。ま、時間があるときにUbuntuあたりでやってみることにしよう。

電子書籍が注目されている昨今だけれど、epwingはまじでもう下火なのか……個人的には悪くないと思うのだけれど……。一応余談的メモ。ドイツ語は、フリーの和独辞典WaDoKu(独和としても使える)がまだダウンロードできる。イタリア語はフリーで出ているGiappitalixのpdic版をEBstudioで変換すればよい。スペイン語はpdic版がシェアウエアで出ている(これは未インストール)。アラビア語もpdic版(フリー)が出ている(未インストール)。

「スアレスと形而上学の体系」 7

第二部第四章からメモ(本文全体の要約ではありません)。「存在者」「非在者」の区別を考えるために、著者はスアレスのテキストではなく、いきなりその後世の発展形を探ることから始める。17世紀からカントにいたるドイツの「大学哲学」(Schulmetaphysik)だ。詳細は思いっきり省くけれど、そこではまず、「可能」と「不可能」が区別されるといい、「存在者」を「可能なもの」から決定づけるというやり方の根底には「無」と「何か(有)」という対立が横たわっているという。その意味で、その「何か」は「存在者」というよりも「モノ」(Ding)という概念のほうがしっくりくることになる。「存在者」と「モノ」の同一視という意味で、それはまさにスアレスの残響をなす……。

著者によると、上の「無」を「否定的無」ととらえる基層があって初めて、形而上学は「存在論」(近代的な)として成立する。その分岐点というか出発点となるのが、著者の考えではどうやらスアレスの形而上学ということになるらしい。「無」が「否定的無」(=不可能性)として見なされるということは、逆に「有(存在者)」が肯定的な「モノ」と捉えられることを意味する。その場合の「モノ」というのは、モノ性(objectité)自体にまで抽象化されたモノのこと。スアレス言うところの「ens in quantum ens reale esse」(これ、「実在である限りの……」と訳すのはよくなさそうで、むしろ「現実的存在者である限りでの存在者」みたいにしないといけないかも……反省)は、まさにそうした抽象的なモノに対応する。それはまた、実在性を捨象した「ありうる」存在のことで、まさしく「可能なもの」でもある。ドイツの大学哲学はスアレスの形而上学をラディカルにしたものだという所以だ。この、存在論へと形而上学が傾斜していくその第一歩は、エギディウス・ロマヌスあたりに認められるともいう。

「無」と「有」の関係から存在論が成立するのだとすると、問題になってくるのが存在者の被造物としての性格だ。ボナヴェントゥラトマス・アクィナスが引かれているけれど、伝統的に、被造物はそれ自体では「非在=無」である(神によって存在は与えられる)という考え方は長く温存されてきた。エックハルトにおいても、被造物のあり方を存在と無の緊張関係から説き、神と被造物の間に明確な線を引く。ところがスアレスにいたると、その関係性をひっくり返し、被造物を分有(神の存在への与り)的に「有」であると考えようと企てる、というのだ。つまりは被造物としてのあり方を捨象し、神への存在論的な依存を排するというわけだ。被造物の裏側に貼り付いていたもともとの「無」は、剥がされて別次元の「否定的無」(不可能性)へと追いやられ、同時に表側の「有」は被造物という性格を失って「肯定的有」(可能性)へと転じていく……。うーむ、なんと大胆な転換であることか……(?)

今道中世哲学本から – アウグスティヌス

今道本でのアウグスティヌスへのアプローチは、まずは自由意志と恩寵とのアポリア問題から始まっている。エゼキエル書の一節にある「新しき魂をさずける」「新しい魂を起こせ」という文言の相反性が突きつける問題だ。予定説か選択かという問いが想起されるけれども(これがヘブライ語の完了・未完了の転換に重なるというアガンベン的な考え方にも惹かれるものがあるのだが)、著者はこれをアウグスティヌスは「恩寵の側からの自由意志の包摂」によって解こうとしていると見る。なるほど、すると超越者は「包越者」となり、存在の類似(著者が言うように、これは繋辞と存在指示動詞が言語上同一の形だという事情が背景にある)を断ち切って絶対的な差異性を担保することになる。超越者はあくまで外部から来るのであって、はじめから内なるものとしてあるのではない、と……。

この後、超越者への接近(「考迫」という言葉が使われている)としての「解釈」をめぐる考察が展開する。『告白』の最後の三巻はそれに先立つ巻と断絶しているといった議論があるけれども、著者は認識論的な問いから見返すなら、そんなことは妄言にすぎないと喝破する。著者によれば、視覚傾斜から脱して「祈り」(超越に向けた意識の方向性を措定する営為?)に向かい、さらい視覚によらない新しい思考法としての「解釈」(自己の認識的浄化の途?)に繋げるという意味で、それは一貫したプログラムなのだという。『告白』の末尾では聖書の記述を振り返るわけだけれど、視覚を脱したロゴスへの接近・肉迫というプログラムにおいては、その言語の典型としての聖書が解釈されるのはごく当然だというわけだ。うーむ、これは深い議論だ。個人的には、その前段階として扱われている「祈り」の現象論的な掘り下げも可能ではという気もする……。

プロクロス「カルデア哲学注解抄」 -12

Διττοῦ τε τοῦ ἑνὸς πεφηνότος, καὶ τοῦ μὲν τῆς πρωτίστης ἡμῶν τῶν δυνάμεων ἄνθους ὄντος, <τοῦ> δὲ τῆς ὅλης οὐσίας κέντρου καὶ τῶν περὶ αὐτὴν ἁπασῶν παντοίων δυνάμεων, ἐκεῖνο μὄνον ἡμᾶς συνάπτει τῷ πατρὶ τῶν νοητῶν · νοερὸν γάρ ἐστιν ἕν, νοεῖται δὲ καὶ ἐκεῖνο ὑπὸ τοῦ πατρικοῦ νοῦ κατὰ τὸ ἓν τὸ ἐν αὐτῷ · τὸ δὲ ἓν εἰς ὃ πᾶσαι αἱ ψυχικαὶ δυνάμεις συννεύουσιν αὐτῆς [ὃ] μόνον πέφυκε προσάγειν ἡμᾶς τῷ πάντων ἐπέκεινα τῶν ὄντων, καὶ αὐτὸ πάντων ὂν τῶν ἐν ἡμῖν ἑνοποιόν · καθὸ καὶ ἐρριζώθημεν κατ᾿ οὐσίαν ἐν ἐκείνῳ, καὶ τῷ ἐρριζῶσθαι κἂν προΐωμεν, οὐκ ἀποστησόμεθα τῆς ἑαυτῶν αἰτίας.

一者には二つあること、つまり私たちの潜在性のうちの第一の花か、あるいはまた、あらゆる存在と、周りのすべての潜在性の中心かであるということが示されたわけだが、前者のみが私たちを知解対象の父へと結びつけるのである。なぜならその一者は知的な存在であり、それはみずからのうちにある一者のもとで、父なる知性によって思惟されるからである。魂のすべての潜在性がみずから向かう先の一者のみが、私たちをあらゆる存在を越えたところへと向かわせるのであり、それこそが私たちのうちにあるすべてを統合するのである。こうして私たちは存在にもとづきその一者のうちに根を持つのであり、また根を持つことによって、私たちは先に進んでも自分自身の原因から離れずに済むのである。