エーコ&カリエール本

就寝前&空き時間読書で、ウンベルト・エーコ&ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(阪急コミュニケーションズ、2010)を読了。エーコはもちろんだけれど、カリエールもシネフィルにならお馴染みの名前。ブニュエルの『銀河』とか『欲望のあいまいな対象』などの脚本で知られる人物。ピーター・ブルックの舞台版『マハーバーラタ』の脚色などもある。エーコもカリエールも古書蒐集家の顔ももっていて、そんな二人の対談なのだから面白くないわけがないはずなのだけれど……。読み始めてすぐに次のような思いに囚われる。確かに個々の逸話は興味深いし、両者の引き出しの多さに感心させられもするけれど、時に話が一本調子だったり、どうでもよいような悪ノリ話が続いたりすると、ちょっと苦笑を越えてイライラしてきたりも(笑)。これって、思わず感心する場面とイライラする場面が交互に入れ替わる、一種の漫才のようなものか……と。

ネットやコンピュータがらみの話はどこかで聞いたような話ばかりで個人的にはあまり乗れなかったのだけれど、話が俄然面白くなってくるのはインキュナブラの蒐集話に入ったあたりから。とはいえ、二人とも適当に放言しまくっているという感じなので、うかつに信じてはいけなさそう(笑)。誇張もあれば暴言もあるし、とりわけエーコは、みずから嘘や偽物をこの上なく愛することを公言しているし……。でもそうすると、じゃあこの本は一体何なのかということになるわけだけれど、「この上なく贅沢かつ知的な悪ふざけ、遊び心満載のディレッタント趣味か、バウドリーノの現代対話版(笑)かな」なんて思っていると不意に、なるほど読む行為そのものも、ある種そういう嘘くささを常に纏っているのかもしれないなあ、なんてことに思い至ったりもする。これって、同書にほどこされた仕掛け???うーむ、そうしてみると、改めてこれはちょっと悩ましい、本の嘘くささを織りなした嘘くさい本という感じに見えてくる(笑)。そのあたりの精神は、もしかするとこの邦訳版の装丁(黒ずくめで、ページの端が青という)や、人を食ったような表題にも現れているのかも、なんて。

プセロス「カルデア神託註解」 16

Πᾶς ἴσχει κόσμος νοεροὺς ἀνοχῆας ἀκαμπεῖς.

Δυνάμεις οἱ Χαλδαῖοι ἐν τῷ κόσμῳ τίθενται, καὶ ὀνομάζουσιν αὐτὰς κοσμαγοὺς ὡς τὸν κόσμον ἀγούσας προνοητικαῖς κινήσεσιν. Ταύτας οὖν νῦν ¨ἀνοχέας¨ καλεῖ, ὡς τὸν πάντα κόσμον ἀκαμάτως ἀνέχοντας · τῷ μὲν ἀκαμπεῖ τῆς σταθερᾶς αὐτῶν δηλουμένης δυνάμεως, τῷ δὲ ἀνοχικῷ τῆς φρουρητικῆς. Ταύτας δὲ τὰς δυνάμεις διὰ μόνης τῶν κόσμων αἰτίας καὶ ἀκλινοῦς ὁρίζονται τάξεως. Εἰσὶ δὲ καὶ ἕτεραι δυνάμεις λεγόμεναι παρ᾿ αὐτοῖς ἀμείλικτοι, οἶον ἔντονοι καὶ ἀνεπίστροφοι πρὸς τὰ τῇδε, καὶ τὰς ψυχὰς ποιοῦσαι τοῖς θελκτικοῖς μὴ μελίσσεσθαι πάθεσιν.

「世界はすべて、不動の知性を支えとしている」

カルデア人たちは、諸力は世界の中にあるとし、世界を洞察の動きで導くものとして、それらをコスマゴス(世界を動かすもの)と名付けている。神託はというと、世界全体をひたすら支えるものとして、それらを「支え」と呼んでいる。不動とはその力の揺るぎなさを指し、また支えとはその監視の力を指す。それらの力は、世界の唯一の原因により、所与の地位へと限定される。また、彼らが無慈悲なものと呼ぶ別の力もある。(そう呼ぶのは)それらが荒々しく、この地上世界の方へと向かわず、魅惑的な情動によって魂が懐柔されないようにするからである。

アンセルムス関連論考二本

少し前にMedievalists.netで紹介されていたアンセルムス関連の短い論文二本をまとめ読み。スコラ学の父ことアンセルムスの研究は、やはりそれなりに層が厚いことを感じさせる。まずはニコラス・コーエン「封建社会の投影かキリスト教的伝統か – アンセルムス『なぜに神は人に』の推論を擁護する」というもの(Nicolas Cohen, ‘Feudal Imagery or Christian Tradition? A Defense of the Rationale for Anselm’s Cur Deus Homo’, The Saint Anselm Journal 2.1, 2004)(PDFはこちら)。これは具体的な議論というよりも、先行研究のまとめで一つの論考ができてしまったような作品。アンセルムスの『なぜに神は人に』(Cur Deus Homo)という小著は贖罪理論を説いたものということだけれど、従来の研究では、そこに封建制度の主従関係が色濃く投影されているとしてあまり評価されてこなかったという。ところがこれに最近、封建制度の影響以上に、教父神学の伝統が反映しているのではないかという説が唱えられるようになったという。特に注目されているのが、アンセルムスとアタナシオス(アレクサンドリアの)とに類似性が見られるという説。著者はこれらの両方をまとめ、後者を支持する立場から、前者に立脚する論者の提示した問題点に答えている。うーむ、アンセルムスとギリシア教父との関連性というのはとても面白い論点に見える。ちょっとこの「Cur Deus Homo」を読んでみたくなった(ちなみにPDFがこちらに→Libri Duo Cur Deus Homo)。

もう一本は、ソフィー・バーマン「アンセルムスとデカルトにおける人間の自由意志」(Sophie Berman, ‘Human Free Will in Anselm and Descartes’, The Saint Anselm Journal 2.1, 2004)(PDFはこちら)。タイトル通り、アンセルムスとデカルトの自由意志論を対比するというもの。両者の文脈は当然異なるわけだけれども、そこからなんらかの共通性を抜き出そうというもの。両者の間に影響関係があるとかそういう話ではなく、ある種の知的な推論の型のようなものを探るという話。なるほど主意主義の伝統は長いのだなあということを改めて。それにしても、アンセルムスにおいても「自由」意志というものが、意志に内在する「正しさ」を温存する力だとされていることが、個人的にはとても興味深い。このあたりもまた、スコトゥスなどのまさに「先駆」か。

↓Wikipediaより、アンセルムス

「中世の知識と権力」

さしあたっての関心領域ではないのだけれど、少し寄り道してマルティン・キンツィンガー『中世の知識と権力』(井本しょう二他訳、法政大学出版局)にざっと眼を通す。中世の学知、とりわけカロリンガ・ルネッサンスから12世紀ルネッサンスを中心に、それが権力とどう結びついたのかといった問題を扱っている。学問復興の歴史や、大学の成立の話などは様々な書籍で扱われているわけだけれど、同書はそれを知と権力の結びつきという切り口でまとめようとしたもの。なるほど方向性は面白そうだ。古代においては学問の師は尊敬こそされても、権力者として振る舞うことはなかった、師が権力を身に纏うようになるのはやはり中世だ……なんてことが時折言われたりするけれど、そんなわけで「学知と権力」と聞いて、ちょっとばかり食指が動いた次第。でも、同書自体はなにやら語り口が生硬な感じで、なかなか入っていけない(苦笑)。訳語が章ごとにぶれていたりするのも気になる。中世初期に始まった支配者と修道院に接触(文書的専門家の登用)が、後に宮廷学校に発展し(中央集権の確立期)、さらに後には市民が知的文化の担い手として台頭してくる(都市の発展)と、今度は教師と学生たちの自治という形で大学制度が整備される、といった歴史を駆け足で辿るわけだけれど、制度史と見るにせよ文化史と捉えるにせよ、もっとなにかこう、「知の権力化・制度化」について詳細かつ具体的な各論が読みたい気がする。現代的な教養論への問いかけも、問題意識としては分かるけれど、なにやら中途半端なような気も(?)(何を訴えたいのか、今一つなような……)。うーん、ま、とりあえずは何か「知の権力化」に関連する論考を探してみようか、と。

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