2008年09月16日

脳と言語?

連休中に読了した一冊。月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社メチエ、2008)。思わせぶりなタイトルだけれど、前半の中心テーマは脳科学から見た身体運動意味論。これって、意味論で言ういわゆる聴覚映像(イメージ)を脳科学的に検証するということのよう。ま、メタファーの発見的な機能とかは、記号論などで普通に言われていることだし、とりたてて目新しいことではないけれども、模倣を一般化して、上の身体運動意味論的に自己認識の問題へと進んでいくところなどはなかなか面白い。模倣を通じた「心的相互作用が自己なのでは」なんて言われると、上の「イメージ」と相まって、どこか中世の知性論めいた部分も感じられるような気がしたりするのだけれどね……ってそれは考えすぎか(笑)。でも、めぐりめぐって、古い時代の哲学的議論とパラレルなものが浮上しそうになったりするのはとても興味深い現象だ。

で、同書。後半はちょっと脱力(苦笑)。いきなり文法の話になって、「主語省略度と母音比重度は比例する」なんて仮説が出されるけれど、これ、どうみてもコーパス足りなさすぎ。普通に屈折語(活用語尾とか、文法機能を語の形態素で表す言語)での説明じゃなんでいけないのか、とかいろいろ思ってしまう。たとえばギリシア語とかアラビア語とか、著者のいう「母音比重」は低そうな気がするけれど、基本的に屈折語なので、「主語省略度」だって高いんだけど……。さらにその後の推論も乱暴でないかい?そのためちょっと「トンデモ」度アップという印象(笑)。上の仮説の説明として、発声に際して内部的に聴くとき、聴覚野と言語野が別半球にある場合に、そのタイムラグのせいで主語を呼び込むのだ、みたいな話がなされるのだけれど、素朴な感想として、野の半球が異なるのって、むしろ子どもが習得する言語のせいで分かれちゃうとか、そういう説明だってできそうに思えるのだけれど……?そういうインタラクション考えないと、たとえば屈折語が徐々に屈折性を失っていくなどの歴史的事実とか説明できないんじゃないかなあ?脳科学はそりゃ最前線だろうけれど、言語学とか記号学とかを大なたでばっさりできると考えるのは、まだ今のところ行き過ぎだと思うのだが……。

投稿者 Masaki : 23:52

2008年07月26日

木から迷路へ

夏の読書のもう一つの核にしようと思っているのが、久々のウンベルト・エーコ。その昨年の新刊『ツリーから迷路へ--記号と解釈についての歴史研究』(Eco, "Dall'albero al labirinto - Studi storici sul segno e l'interpretazione", Bompiani, 2007)を最近購入。全体で500ページ超の論集のようだけれど、冒頭の約100ページを占める表題作が総論、残りが各論という感じかしら(?)。その表題作をとりあえずざっと見ているところ。現実の腑分けの原理として、ポルピュリオスの木を嚆矢とする「辞書」の原理と、プリニウスの『博物誌』などを嚆矢とする「百科事典」の原理を対置し、後者がとりわけルネサンス期以降に「迷宮」としての相を前面に出してくる様をまとめあげている、ドライブ感あふれる(?)論考。なにしろその迷宮性は、近代を通じて、しまいにはドゥルーズのリゾームにまでいたるという見取り図……ツリーのノードが、分岐から接合へと変わるところに、原理の入れ替えみたいなことが生じているというわけなのかしら。でも、やはりツリーの呪縛からは簡単には脱せない。というかツリーが織りなす腑分けで必ず生じる残滓が、たえずそのツリーの組み替えを促し、全体が動的になってしまっているというのが基本的な構図な感じはする。このあたり、モダン・オントロジーなども当然絡んできそう。

エーコのこの本、目次を見ると2章以降も興味深い章立てになっているので、またそのうちメモしていくことにしよう(笑)。

投稿者 Masaki : 23:49

2008年07月24日

ラ・トゥールの光と闇

個人的には別に夏休みというわけではないのだけれど、なんとなく幼時からのそういう刷り込みのせいか、この時期はちょっと気分が「夏休み」だ。こういう時には少しばかり普段の関心領域を離れた、というか拡張したような本でも読むに限る。というわけで、今年はまずは田辺保『ゲッセマネの夜--パスカル「イエスのミステール」を読む』(教文館)。当代きってのパスカル研究者による、晩年近くに書かれたとされる名文の読解。イエスの捕縛前の夜の祈りを、それを描写するパスカル自身の苦悩と重ね合わせ、それをまた著者のたどりついた境地とも重ね合わせて読んでいくという、三層構造の読み。著者を追い、時代状況を追い、書かれたテキストを追うというのは文学的メソッドの基本だけれど、それを通じてどこまで深く潜っていけるかというのは、やはり潜ろうとする主体にかかっているのだという当たり前のことを、なんだかしみじみと語りかけてくるような本。で、深く潜って行ければ、それだけ同時代的な様々な作品との通底もまた見えてくる、という次第……。

かくして同書では、パスカルの同時代人であるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画も取り上げられる。ラ・トゥールが多用する、闇とその中で燦々と輝く光の描写について、著者はむしろその闇のほうに着目し、それを時代状況、地上世界の惨苦の現れとして、パスカルとの共鳴の延長線上に位置づけている……。けれどもたとえば「大工聖ヨセフ」の幼少のイエスを照らす光の強さは印象的だ。ありていな言い方になってしまうけれど、闇だけがテーマではないのだと……。ここにもまた読み込むべきは、中世の昔から(あるいはさらにその前から)綿々と受け継がれてきた光の形而上学なのでは、という気もしなくない。

というわけで、その「聖ヨセフ」の絵を掲げておこう。で、ここで一気に世俗に話を落とすと(苦笑)、この幼少のイエスの光の具合を観て、思わずトリュフォーの映画を思い出したりもする。『アメリカの夜』で、燭台の反対側にライトを仕込んでおくという小道具が出てきたっけ。それは人為的な仕込みだけれど、人為的でない仕込みとでもいうべきものが、かつては画家の想像力の中に宿っていたのかもしれない、などと考えてみるのも一興かも(笑)。

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投稿者 Masaki : 23:00

2008年06月28日

「ネイションという神話」

出たばかりのパトリック・J・ギアリ『ネイションという神話--ヨーロッパ諸国家の中世的起源』(鈴木道也ほか訳、白水社)をざっと読む。ヨーロッパで多々見られるという、いわゆる「ナショナリスト」(民族主義者)による「民族の起源」議論の短絡的援用。その陥穽に陥らないための、これは一種の相対化の書。とりわけ二章以降、特にローマ時代から古代末期を中心に、現存する史書に記された諸民族の多重的な動向を追っていく。そこから浮かび上がるのは、諸民族と言われるものが、いかに流動的なものであったかということだ。ヘロドトスを例外として、その後のローマ帝政期などでは、民族誌の記述にいかにもローマ的な類型化志向が色濃く働いていて、しかも多種多様な「蛮族」たちは、ややもするとより昔の民族名をリサイクルし、結果的にそうした民族が実際よりも一貫して長く存続したような印象を与えることが多分にあるのだという。で、当の民族たちも、ローマ的な制度の中で自分たちを位置づけるために、そうしたリサイクルを十全に活用したらしい。そういう構図そのものは、帝政期も、その後の末期もそれほど変わってはいないようだ。民族的アイデンティティというのは、考えられている以上に後世の構成的産物だということ。同書は最後にその実例として、南アフリカのズールー族の事例を紹介したりしている。そういえば、以前とある講演会で、アメリカインディアンなども、今現在「風習」として残っているのは、存続の危機が叫ばれるようになってから諸部族の風習を寄せ集めて作られたもので、実はそっくり昔から受け継がれたものではない、みたいな話を聞いたことがあったけど、「民族」はすべからくそういう構築的な部分に立脚していることを、忘れちゃいかんよなあ、と。

投稿者 Masaki : 18:09

2008年06月19日

「意識と本質」

井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)をざっと。本来、ざっと目を通すだけですむような本ではないと思うのだけれど、とりあえず(消化不良ではあるけれど……苦笑)。率直にいって、目もくらむような大伽藍を見せられた気分ではある。「本質」という言葉を、普通は通り一遍の理解でかたづけてしまうけれど、これも実は洋の東西を往還すると、実に豊かな布置が描かれる、という一冊。とくに基本前提に据えられたイスラム哲学での本質の区分「マーヒーヤー」と「フーイーヤー」が重要だ。後者が個体的リアリティとしての本質を指すのに対し、前者は普遍的リアリティなのだという。つまりアリストテレスの本質(τί ἦν εἶναιのアラビア語訳。もう一方のフーヒーヤーのほうは、スコトゥスなどの「このもの性」へとたいるもの。東洋思想においても、この両者のいずれに重きを置くかで様々な流れが形成されているという。で、同書は意識の構造との関わりから、とりわけマーヒーヤーの実在論の数々を大きく3つに分類し、それぞれを詳細に取り上げて検証していく。この後の部分の詳述が、実に壮大だ……。うん、これは時間を置いてまた見返してみたいと思うような本。というか、井筒俊彦の本にはやはりそういうのが多いなあ。折しも、The Structure of Oriental Philosophyという英語での講義録が慶應義塾大学出版会から出た模様(2巻本、ハードカバー版とソフトカバー版あり)。これもぜひ見たいところ。

投稿者 Masaki : 23:48

2008年06月07日

「路上の人」

思うところあって、堀田善衞を改めて読み始めようかと。ねらい目はやはりスペイン滞在以降の作品。とりあえず、カタリ派迫害の頃のヨーロッパを舞台にした秀作『路上の人』。手にしたのは古本の新潮文庫だけれど、これは品切れものらしく、入手可能なものとしては、徳間書店から2004年に出た85年の新潮社初版の再刊があるようだ。で、これ、13世紀前半を舞台として、放浪の士から見た社会や教会が描かれる。話には聞いていたけれど、なるほどエーコの『薔薇の名前』でも使われた「アリストテレス喜劇論」がとても重要な役割を担う。これが同じ頃に書かれていたというのが興味深い(シンクロ?)。うーん、この筋運びといい、教会組織の内実描写といい、実に印象的だ。そもそもスケールが違う。ヨーロッパ的な乾いた空気の中でこそ書ける冷徹なまなざし、とでもいったところか。民衆的な視線をもった前半、悲劇的に転回していく後半と、筋回しも巧みなもの。中世の路上生活者、アリストテレス、カタリ派、異端の弾圧……。文献的な裏付けが知りたいような描写もところどころあって、個人的に調査意欲をかき立てられる。

カタリ派関連では、このところ渡邉昌美本が復刊になっている。『異端者の群れ』(八坂書房)は1969年刊行のものの改訂新版。さらに、毎年やっている復刊企画「書物復権」で、今年は『異端カタリ派の研究』(岩波書店)がリストに入っている。まだ出ていないようだけれど、これも要注目かな。

投稿者 Masaki : 23:48

2008年05月24日

[メモ] 井筒俊彦論

相変わらず井筒俊彦ものも読んでいるのだけれど、とりあえず読了したのが新書の『イスラーム哲学の原像』(岩波新書、1980)。これ、個人的には『意識と本質』(1982)へのプレリュード的な一冊として読み始めたのだけれど、途中からそのごっつい中身に圧倒される。講演を再構成したものということで、存在一性論、とくにイブン・アラビー(12から13世紀)を中心に、スーフィズム系のイスラム思想の骨子を平坦に語るという内容。言葉は平坦でも、中身はかなりの手応え。とりわけ、神秘主義での意識の探求を、なんとも手際よく図式化して逐一解説しているところがものすごい。しかもそれが、仏教の観想修行、古代ヴェーダの宗教(古代ヒンドゥー)などとも呼応しあうというなんとも壮大な思想世界の話が展開する。圧巻。

ちょうど昨年末くらいに出た本で、安藤礼二『近代論--危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版)に、井筒俊彦の評論を記した一章があると聞き、入手してみた。「同時多発的に発生する思考」という相を、その背景をなすアルシーヴ(文献的集積体)との関わりで論じようとする刺激的な本。扱っているのは明治時代の南方熊楠、柳田國男、折口信夫、西田幾多郎、鈴木大拙などなのだけれど、序文では、それらの同時代的な思想を条件づけたものとして世界戦争とテロリズムがあったと論じられ、またそうしたアルシーヴと思想の関係はその都度反復的に刷新されていくとされて、次なる危機の時代として昭和初期が取り上げられ、夢野久作、小栗虫太郎、さらには埴谷雄高などが言及されている。そしてまた、世界戦争とテロリズムは現代世界に蘇り、そうした新たなアルシーヴと思想の関係性を促しているとし、その文脈で井筒俊彦が登場するという仕掛けになっている。

で、その一章だけれど、まずもって、ホメイニのイラン革命を軸とした、井筒とフーコーの交錯の舞台が言及される。そしてその革命ゆえに帰国を余儀なくされた井筒は、一種の原点回帰という形で、『意識と本質』を上梓する話が続く。原点回帰?なるほどそれは、西田幾多郎の哲学とアジア主義との融合だというのだ。アジアの叡智を統合するという壮大な構想。同書ではそれを、換骨奪胎した「大東亜共栄圏の哲学」と見(「日本」なるものを「解体し尽く」した上でのアジア的哲学ということだが)、文献的に跡づけている。このあたりの論の展開もなかなかに興味深いのだけれど、いずれにしても、井筒俊彦の本がどこかしら醸し出す迫力の源泉の一端を、わずかながら垣間見るような思いだ。さて、個人的には『意識と本質』にも改めて取りかかろうっと。

投稿者 Masaki : 23:26

2008年04月30日

ヘルダー社の中世哲学叢書

途中で中断していたスコトゥスの『パリ講義録』の抜粋(ヘルダー社の中世哲学叢書のもの:Duns Scotus "Pariser Vorlesungen über Wissen und Kontingenz", Verlag Herder, 2005)を久々に開く。"Reportatio Parisiensis"から、知解と偶有に関する部分(I 38〜44)を抜き出したもの。で、これに関連して久々にこのヘルダー社の対訳シリーズを検索したら、なんかラインナップがすごく充実してきていてちょっとびっくり。ブラバントのシゲルスも出ているし、オリヴィやグンディサリヌスまでも!食指がそそられるなあ。さらに6月刊ということで、ソールズベリーのジョンの『ポリクラティクス』、ロジャー・ベーコンの『大著作』からの抜粋なども予定されているし(アマゾンの表示では昨秋に出たように書かれているけれど、まだみたい)。ユーロは相変わらず高いけれど、ここは一つ……(苦笑)。

投稿者 Masaki : 23:45

2008年04月24日

「中世の覚醒」&シゲルス

このところ、リチャード・ルーベンスタイン『中世の覚醒』(小沢千恵子訳、紀伊國屋書店)を通読中。これ、原題は「アリストテレスの子どもたち」というもので、2003年の本。著者は中世プロパーではなく、国際紛争などの研究者。それだけに、思想史を眺める目も実にパワーバランス的で、なかなかに興味深い。思想をとりまく政治状況が実に見事に活写されていく。たとえば13世紀のアリストテレス思想をめぐる大学と教会との対立関係などは、なるほど歴史的事実としては知っていても、こういう微細な人間模様として浮かび上がるとはなかなか想像できない(苦笑)。背景に在俗教師、ドミニコ会、フランシスコ会、司教などのそれぞれの思惑が交錯していて、実にスリリングな対立関係を織りなしていることがわかる。これはある種の整理としてはとても有用かもしれない。

ちょうど大橋氏のブログで、ブラバントのシゲルスについて取り上げられていたのだけれど、このシゲルスという人は実に波乱に富んだ一生を送っていて、なんだか小説の主人公にでもできそうなほど。若いころはいわゆる学生団(イタリアでもウケているという惣領冬実のコミック『チェーザレ』に出てくるアレですな)のリーダー格として暴れまくり(笑)、その後に学芸学部の教師になってからはアリストテレス思想をキリスト教とのすり合わせもなく教え(神学を巧妙に避け、非難をすり抜けるという政治性!)、一派を作り上げるまでにいたる(いわゆる急進派)。神学的には優秀でも政治的目配せにはやや疎いといわれる(?)トマスの論戦参入や、急進派が学部長選挙に敗れるなどの経緯(1272)を経て、急進派はいったん追いやられるものの、地下に潜り、やがて1320年頃に一派としては再浮上していく(パリ以外で)。一方、当のシゲルスは、なんと「秘書」(同僚の聖職者?)によって、1281年から84年の間に刺殺されてしまうのだという。

いずれにしても、思想史もこうやって外部の歴史につなげていくことはとても重要だ。改めてそのあたりのことを思い起こす。さて、この『中世の覚醒』のカバーを彩るのは、アンドレア・ダ・フィレンツェ(アンドレア・ディ・ボナユート:1343〜77)の有名な「トマス・アクィナスの勝利」(サン・マリア・ノヴェッラ教会)。Webでの画像はあまり発色が良くないけれど、カバー画はとても色鮮やか。

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投稿者 Masaki : 00:43

2008年04月03日

15世紀のイタリア料理

ちょっと閑話休題的に読んでいる、クラウディオ・ベンポラートの『15世紀のイタリア料理』(Claudio Benporat, "Cucina italiana del quattrocento", Leo S. Olschki Editore, 1996)。前に小さな論考で出てきた15世紀の代表的料理人「マエストロ・マルティーノ」を扱った序論と、その料理本の3つの写本の校注版を収録したもの。まだその序文にざっと目を通しただけだけれど、なるほどこれもまた面白い世界かも。人文主義者バルトロメオ・プラティナ(ヴァチカン図書館の初代館長になった人物)の著書『真摯なる欲望と健全さについて(De voluptate et valitudine)』で言及・紹介されているというマルティーノ。その手になる料理書もすでにしてルネサンス期の料理の革新を伝えているというけれど(食材の多様化、異国の食材の導入、調理法の多彩さなど)、プラティナはそれを、中世から引き継がれた身体の調和に関する理論(エンペドクレスからヒポクラテス、さらにガレノスを経由して伝えられた例の4気質論)や医術的知見の伝統(ガレノスに加えアヴェロエスなども経由したもの)をもとに再編し、人文主義の理想という形に練り上げているらしい。一日3食などという食事の仕方も、そうした理論を背景にして成立したものとか。イタリアは地中海域の交易のせいで、早くから様々な食材を取り込んだ革新的な料理が生まれていたようで、中世以来の食事内容・調理法が続いていた北部ヨーロッパとは大きく異なっている。そういえば余談だけれど、以前ある人が「イタリアはコーヒーひとつとっても、いろいろな工夫に富んでいる。口あたりだけでも味が変化することを心得ている」みたいなことをやや熱く語っていたっけ。その上流は中世末期ごろにまで遡れるということか。いや〜、このあたりの文化史ももうちょっと詳しく見てみたいところ。

バルトロメオ・プラティナの話ついでに、Wikipediaから、メロッツォ・ダ・フォルリ(ピエロ・デラ・フランチェスカの弟子筋の画家だ)による、プラティナのヴァチカン図書館司書任命を描いた一枚を。
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投稿者 Masaki : 23:50

2008年03月28日

[メモ]「スタンツェ」より

これまで部分的に参照したことはあったけれど、全体としてはどういうわけかスルーしてきたアガンベンの『スタンツェ』(岡田温司訳、ちくま学芸文庫)。文庫版が出たのを機に、全体に目を通せたのが嬉しい(苦笑)。若き日のアガンベンの、この博覧強記ぶりと目の付け所。やっぱり唸らせてくれる。個人的にとりわけ刺激的なのはやはり同書の中心をなす第三章「言葉と表象像(ファンタスマ)」だ。なにしろ、ジャン・ド・マンの『薔薇物語』の長い「脱線話」(ピュグマリオンの彫像話)から始まるこの章は、それがまったく脱線ではないことを示唆したあと、「像への愛」というテーマが13世紀の恋愛文学で多様されていたテーマであることを示し、そこからダンテを手がかりに、ファンタスマ、つまりは感覚で捉えられる像の考古学へと潜行していく。なかなかスリリング。その古層には、アリストテレスの視覚理論やその認識論、それらを中世に媒介したアヴィセンナやアヴェロエス、さらにそこに介在する「鏡」や光学理論、さらには医学的・生理学的な概念とコスモロジーをまたぎ、それらを媒介する精気(プネウマ)の理論、そしてそれらの医学的伝統と「愛(アモル)」の微妙な関係などなどがある。それらが壮大な見取り図のもとに浮かび上がってくる様は圧巻。

投稿者 Masaki : 23:34

2008年03月21日

就寝前読書本から

つい最近文庫で出たばかりのドゥルーズ『カントの批判哲学』(國分功一郎訳、ちくま学芸文庫)。就寝前読書という感じでつらつらと読了。『意味の論理学』に先立つごく初期のドゥルーズによるカント論なのだけれど、例の分厚い三批判をかなり平板に読み解き、カントの抱えている(らしい)問題点が見事に整理されている感じだ。とはいえ、その後の徹底的に脱主体化したドゥルーズ独特の思想体系の萌芽のようなものも随所に感じられて興味深い(特異点とか構造とか)。カントが切り裁いた感覚・悟性・理性の構造を、それぞれがシステム的に入り組む様子として再び総体的にまとめ上げようとする筆さばき。巻末の訳者解説で、この本はカント哲学の教科書としても読めるし、ドゥルーズ哲学の形成の一契機としても読める、と述べているけれど、まさにそんな感じだ。この間のマリオンの論もそうだったけれど、カントの美学まわりの問題はなかなか深いものがあるなあ、と。ドゥルーズもまた、「あらゆる目的を排除する、主観的で形式的な合目的性」として美学的合目的性を捉えている。うーん。

これまた就寝前読書本の一つなのが、アントニオ・ネグリのスピノザ論(Antonio Negri, "Spinoza", DeriveApprodi, 2006 (II edizione))なのだけれど、これは遅々として進んでいなかった。ネグリはもうすぐ来日だなあ、なんて思っていたら、なんといきなり直前で中止だそうな(月曜社のサイト「ウラゲツブログ」に詳細が)。ちょっとびっくり。「禁固などの経験者は入国させないが、政治犯なら例外だ、だから政治犯だったことを証明せよ」だって。それって普通に考えて、とても変な話。政治犯・思想犯だという「認定」は第三者的にしかなされないわけで、では誰がどんな書類でもって認定しうるのか、というのが問題になってしまう。今回のはまさにそういうことか(日本側が「彼は政治犯なのだから特例としましょう」といって入国を認める、とかいうのなら話はわかるのだけれど)。また、ここでいう「政治犯」は、たとえば体制側の一方的な暴力とかで収監された被害者的な意味などできちんと規定されているのかしら?そうでないと、テロリストとかどんどん入ってこれる理屈になってしまうのだけれど?ちょっと出入国管理法って調べてみようか。

投稿者 Masaki : 23:20

2008年02月25日

研究地図としての……

なにやら賛否両論らしい中央公論社の「哲学の歴史」シリーズ。3巻『神との対話−−中世:信仰と知の調和』(中川純男編)にざっと目を通してみたけれど、これはなかなか良く出来ているように思う。たとえば3年くらい前に出た同じ編者の『中世哲学を学ぶ人のために』(世界思想社、2005)が、テーマ的な編集で少し取っつきにくい印象を与えていたのに対して、こちらは年代順、トピックス別の構成で、概論・入門というよりも、参考書として引くみたいな使い方を考えているのがありがたい。そして何よりも、各項目に当てられているページ数だけから見ても、今現在のさしあたりの研究動向(日本国内の動向ではあるけれど)を伺い知ることもできる。アウグスティヌスやトマス・アクィナスの分量が大きいのは昔からだけれど、一昔二昔くらい前ならほかの事項はここまで詳しく取り上げなかっただろうという感じ。ビザンティン、イスラム、ラテン・アヴェロエス主義などなど。ガンのヘンリクスとかも。もちろん漏れている事項もたくさんあるだろうけれど、現時点での研究地図として、中世思想の領域を見渡せるという利点は、それを補って余りあるもの。個々の記載も、単なる紹介にとどまらず、結構核心的な部分をかいま見せたりしてなかなかに面白い。また、こういう本を読む楽しみは、別事項同士の微細な照応とかだったりする。そこからまた、新たなテキスト探求の刺激がもたらされたりもする。たとえばイスラム関連のところで、イブン・バージャーを取り上げているが、これにその有名な教説として、質料から分離した形相としての霊的形相の理論があると記されているかと思えば、ボナヴェントゥーラの箇所には、物体的質料に加えて霊的質料と呼ぶものが措定されている、と記されている。霊的形相に霊的質料。質料形相論が次第に細分化されていくプロセスがすでにして窺えるというもの。

投稿者 Masaki : 13:43

2008年01月23日

大学者たちの横顔

メタヒストリー的な研究史なのかと思って期待したノーマン・F・キャンターの『中世の発見』(朝倉文市ほか訳、法政大学出版局)は、どこか『先生とわたし』の欧米拡大版という感じの、どちらかというと人物像を広く渉猟したものだった。もちろん研究業績などの評価も記されているけれど、むしろ主観的な印象のようなものを前面に出していて、どこかゴシップ的な視線がちょっと鼻につく嫌いもある。ま、そのあたりも『先生とわたし』に通じるものが(笑)。日本語版序文にもちょっと触れられているけれど、学界関係者には不評だったという話も同じか。うーん、こういう本はやはり必ずや弟子筋の人々から総スカンを食らうんだなあ、と。なにしろ名だたる大学者たちの、あまり知られない俗物的部分・人間臭い部分が綴られていくわけだし、政治的な駆け引きなど、うさんくさい話だって触れないわけにはいかないだろうし。たとえばファンタジー小説のほうで人気を博したルイスとトゥールキンが、親交があった一方でまるで正反対の性格だったとか、まあ、そういった細部の、ある意味どうでもいい逸話・ゴシップ話を差し引いてみれば、それなりに研究史の流れ(といっても若干古いし、それほどの新しい発見というのはないけれど)も見えてもくるのだけれどね。とはいえ、そういうのぞき見的な部分は実際読んでいて「楽し」かったりするのがクセものなのだが……(苦笑)。アメリカで累計10万部売れたとかいうのも、そういう部分があるからなのだろうけれど、それにしてもなあ……と、ちょっと微妙というか複雑というか。

投稿者 Masaki : 23:12

2007年12月21日

[メモ]中世の系統樹の表象

クリスティアーヌ・クラピッシュ=ツーバー『祖先の影』(Christiane Klapisch-Zuber, "L'ombre des Ancêtres - essai sur l'imaginaire médiéval de la parenté", Fayard, 2000)をざっと読む。これもまた、なかなかに刺激的な一冊。これは以前、『系統樹思考の世界』が良かった三中信宏氏のこれまた有名なWebページで紹介されていたもの(もうひとつ、ヨアキムの図像世界に関する論集も紹介されていて、そちらも取り寄せてみたけれど、それはまた後で)。中世後期に盛んになる植物文様の家系図の作成が、どのような歴史的経緯をもって成立していったかということを、数多くの事例を挙げて論じている。全体の流れはこんな感じ。古くはローマ時代の法律家が作った家系図(stemma)や人物をあしらった渦巻き文様(peopled scroll)に端を発する祖先の表象は、一方でキリスト教聖職者らの手による聖書の人物相関図へと受け継がれる。「樹」のメタファーはすでに使われているものの、最初それはきわめて図式的なものだった。ところが12世紀ごろから具体的な「木」の表象が徐々に前面に出てくるようになり、13世紀、14世紀にいたり、聖職者ばかりでなく世俗の王侯貴族などにおいても家系の表象にも用いられるようになっていく。やがて印刷術の登場で、その世俗への浸透は一挙に拡大する……。

ちょっと面白かったのが、12世紀に教会関係者たちが多用するようになる木のイメージの拡大に、ひとつには「ヨシュアの木」と通称される「virga Isse」の伝統が大きく関わっていたという話。ヨシュアに示された「若枝(virga)」は要するにキリストのことだとされるわけなのだけれど、13世紀ごろにはその若枝が文字通り大木のように表され、歴代の教会の要人たちがその枝葉に描かれるようになる。さながらそれは教会の統一体のシンボルとなり、もはや本来のキリストの家系図という性格ではなくなってくるのだという。それはさらに聖人たちとの一種の「コミュニオン」を表す図像コードとなり、その伝統はフラ・アンジェリコあたりにまで連綿と続いていく……。

個々の事例にはヨアキムやルルスなども取り上げられて興味深いのだけれど、個人的にとりわけ興味をそそったのはサントメールのランベールによる「Liber floridus(花々の書)」(12世紀始め)か。同書は様々な文章と細密画、素描などから成る博物学的な書物。花や植物だけでなく、当時の自然学の総覧みたいになっているらしい。ランベールはサントメール聖母教会の聖堂参事会員だったというが、詳しい経歴などは不明とか。うーん、このあたりのちょっと詳しい研究とかも見てみたいところ(系統図とは関係ないのだけれど、そのLiber floridusからの細密画の一つを掲げておこう)。

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投稿者 Masaki : 00:18

2007年12月18日

[メモ]教皇と魔女

邦訳で出たばかりのライナー・デッカー『教皇と魔女』(佐藤正樹/佐々木れい訳、法政大学出版局)を読む(原書は2003年刊)。いやーこれは実に面白い一冊。魔女裁判とローマ教会との関係を、ヴァチカンの機密書類文庫に眠る史料から再検討しようというもので、魔女裁判は教会に責任があったなどという一般通念的な「思いこみ」は思いっきり粉砕される。代わりに浮かび上がるのは何かというと、世俗の裁判所、宗教裁判所、そして教皇庁の三つ巴のパワーポリティクスだ。そもそも「暗黒の中世」的なイメージで見られがちな魔女裁判・魔女迫害だけれど、実は近世になってからのほうが激烈の度合いを増している。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』では、女が火刑に処せられそうになる場面があるけれども、これはアナクロニズムなのだという。もちろんヴァルド派への十字軍とか、異端撲滅の運動はあったわけだけれど、いわゆる魔女はそれとは別次元にあったとのことで、そもそも魔女という概念や、夜間に飛行したりといった属性なども、近世になってから徐々に確立してくるものなのだという。そういった迷信のような話を、神学者たちは一笑に付しているほどだったらしく、また魔女迫害は地域的にも偏りがあり(とりわけアルプス以北)、世俗の裁判が大きく影響しているといい、宗教裁判所、さらに教皇庁は、とりわけ16世紀以降など、むしろそうした極端な迫害行為を抑制しようとしていたという。実際、迫害が激高すると、それを牽制し批判しようとする動きも出てくるようで、同書には様々な事例が挙げられている。このあたり、「検邪聖省」の暗く陰惨な固定観念的イメージも、ずいぶんと晴らされる思いがする。また興味深いのは、一般に「魔女」と言うものの、ジェンダーバイアスのようなものはなく、魔術で告発された人々は男女同数程度なのだという。カトリックよりもルター派や福音主義の地域でのほうが、女性の割合が大きいという研究もあるのだそうだ。いずれにしても、教皇庁の機密文書は98年に研究者に公開されたということなので、こうした宗教裁判などをめぐる新しい知見もこれからますます出てきそうで、大いに期待したいところだ。

投稿者 Masaki : 22:33

2007年11月11日

[メモ]「差異と反復」

ついこの間文庫で出たドゥルーズの『差異と反復』(上・下、財津理訳、河出文庫)。前のハードカバー本はあまりちゃんと読まなかったのだけれど(とはいえ、前も多少は字面を追い、個々のフレーズなどをえらく気に入ったりして、ある意味でドゥルーズの著作では一番好きなものになっている(笑))、それはまあ、当時はそれほど問題意識をもっていなかったせいが大きい。ま、もっとも今回も字面を追うだけにとどまっている気がしないでもないが(苦笑)、それなりに考えるところもあるので、なかなか軽妙かつ刺激的な、印象深い読書体験になってはいる(かな?)。一言でこう言ってしまうのはナンだけれども、全体としては、表象=再現前化の同一性をえぐって、その深みに差異・反復の湧出を見るというキー・ノートを、哲学史的な知見を取り入れつつ様々に展開するという、なかなか勇壮な著作だ。

上巻の最初のほうで、「存在の一義性」をめぐってスコトゥスの話が出てくる。トマス派の「存在の類比」(神と人間の存在の間に絶対的な溝があるというもの)は表象=再現前化の側にあるとされ、それに対してスコトゥスのいう「一義性」こそが、逆説的ながらヒエラルキーの一種「無効」を宣言している点で、一種アナーキーだというわけだ。山内志朗氏がこの点に異を唱えていたわけだけれど、それによると、その下敷きになっているスコトゥス像は、エティエンヌ・ジルソンにあるらしい。実際、『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000)などでは、スコトゥスはesseとessentiaの区別をそもそも認めず、essentiaはesseの様態の一つにすぎないとして、まさにesseの汎用論のようなことを提唱したのだ、と主張するスコトゥスへの注釈者の言が紹介されている。esseは、アヴィセンナをベースにトマスが論じるような、後からessentiaに加わるもの(そうして個別が存在するようになる)ではなく、むしろessentiaに先行し、その個別のessentiaをesseの現実態が規定する、というような話になっている。これはまた、個別化(個体化)が、種差などよりもはるかに一義的であるという話にもなるわけだ。このあたりを敷衍(というか換骨奪胎というか)すると、ドゥルーズのいう個体化の先行性・根源性という話につながっていく。で、『差異と反復』では、後半(第5章:文庫版では下巻)にいたって、シモンドンの個体化論を引き受けてさらに一般化されていく。

いずれにしても、哲学史的な知見と、それを巧みに自説の構図に移し替えるドゥルーズの手際には、同書のいう表象=再現前化と差異・反復とのそれぞれの項がそっくりあてはまるかのようだ。そこには明らかに決定的な溝がある……(立つ瀬の違いというか、対象に向かうそもそものベクトルの違いというか)。でも本当に(まれに)面白い思惟・論考というのは、いずれか一方の側の検討を徹底的に進めることによって、もう一方との境界にまで達するもの、その溝の深みをふと垣間見せてくれるようなものだ、という気がする。それは確かに至芸の域の話だと思われるのだけれど(理想型ですな)、そういうのにちょっとでも出会えると、まさに至福のひとときとなる。うーん、ドゥルーズの同書は、それ自体がそういう至芸をなしているというよりは、そういう至芸への期待や刺激を煽るという意味での一種のマニフェスト、あるいはヒントブックになっている感じもする……微妙だけどね(笑)。

投稿者 Masaki : 20:53

2007年09月18日

ゼーモン・デーヴィス

えらく久々に、ナタリー・ゼーモン・デーヴィスを読む。『贈与の文化史--16世紀フランスにおける』(宮下志朗訳、みすず書房)。モースなどの贈与についての論が、市場経済の前段階的な位置づけであるのに対して、ゼーモン・デーヴィスは、むしろそれが市場経済と併存する様に注目し、そうした贈与が担う社会的意味を説き明かそうとする。で、そのために選ばれた舞台が、ゼーモン・デーヴィスお得意の16世紀フランスというわけだ。昔、『初期近代フランスの社会と文化』の仏訳本とか読んだけれど、この民衆史的なアプローチ、縦横に繰り出される事例の数々は今も変わらない。「贈与と神々」と題された7章がハイライトで、カトリックとプロテスタントの対立を、贈与をめぐる立場の争いと見るのは秀逸。で、これを読んで思うのは、宗教システムが贈与に立脚することの意味合いは、もっと思想史的な面で深いところに探ってもよさそうに見えること。互酬とはちがう絶対的な贈与を、人がどうもてあますのか、なんていう視点から神学論とか見たら、また違って見えそうな気がする、と。

投稿者 Masaki : 12:19

2007年08月25日

うーん、このタイトル……

ちょっとヤボ用で今週後半は田舎へ。本読む時間があまり取れなかったのだけれど、とりあえず樺山紘一『地中海』(岩波書店、2006)を読んでみた。各章時代も場所も違う2人づつ中心人物を取り上げて、地中海の5千年にわたる文明を読む、みたいな謳い文句だったのだけれど、うーん、このタイトルから個人的には地中海にちなんだ歴史的逸話とかが展開するのかと思ったら、なんだか古代から中世の寄せ集め的な概説本になっていて、ちょっとはぐらかされた感じ。ヘロドトスとイブン・ハルドゥーン、アルキメデスとプトレマイオスあたりはよいとして、聖アントニウスと聖ヒエロニムスの章あたりからは横滑りし(『黄金伝説』の話が中心だけれど、これと地中海の連想ってのはちょっとなあ)、イブン・ルシュドとマイモニデス(地中海というよりはイベリア半島だよね)、ヨアキムとノストラダムス(これもちょっと。あ、でも、当時の地中海情勢をもとにヨアキムの預言思想を考えるというのはいいかもしれない)、はてはカナレットとピラネージ(どちらも18世紀の風景画家だ)でもって幕を閉じる。結果、地中海というタイトルながら、「地中海」なるものがさっぱり見えてこない・感じられないという、なんだか変な読書体験に……。

それでもまあ、カナレットのヴェネチア景観図は確かに写実的で興味深い。そんなわけで、『カナルグランデの入り口』と題された1730年の一枚を再録。
Canaletto1.jpg

投稿者 Masaki : 20:03

2007年06月19日

またまたピュシスとテクネー

今年の1月に亡くなったラクー=ラバルトによるルソー論を読む。『歴史の詩学』(藤本一勇訳、藤原書店)。ルソーの想定した「社会的起源」としての自然状態のラディカルさをすくい上げようとするもの。その自然状態からは、自然そのものの欠落と、その「代補」としてのミメーシス論が浮かび上がる。ミメーシスとしてのテクネーは、すなわち一種の「演じる術」であり、その演じる場は根源的な劇場だ。人間の根源的な存在論・技術論には演劇性があるということになるのだけれど、一方でルソーの場合、アリストテレスのミメーシス論にある「思考を可能にする条件」としてのミメーシスという捉え方(『詩学』)が欠けているせいで、演劇性のカタルシスの作用を捉え損ね、そのためにむしろ、カタルシスをめぐる思考を弁証法的に開き直していく……とまあ、そういうのが全体的な屋台骨だ。

ルソーはミメーシスの根源性を救ったという点で、プラトン的なその断罪よりはアリストテレス寄りの問題圏に踏み込んでいる、みたいは話なのだけれど、ミメーシスやテクネーをめぐる西欧の思想的伝統というのはもっといろいろと複雑そうではある。個人的に少し前からイアンブリコス(ご存じ、3〜4世紀の新プラトン主義派の一人)の『プロトレプティコス(哲学の勧め)』(Les Belles Lettresの希仏対訳版)を読んでいて、ちょうどピュシスとテクネーの話が出てくる箇所にぶつかったのだけれど、それによると、ピュシスがもともと偶然などに拠るのではなく、目的をもったもの(コスモスの調和という「善」に支えられている)だという発想がまずあって、そうした善に向かう方途としてテクネーがあるといった話になっている。ここでのテクネー(ま、厳密には模倣ではないけれど)は、自然の代補的な意味で積極的な役割をあてがわれている。うーん、思想の系譜・流れの上流は、まだまだ面白い問題がいくつもくみ取れそうな感じではある。

投稿者 Masaki : 22:48

2007年05月21日

16世紀文化革命

連休ごろだったと思うけど、NHKで寺山修司の活躍した時代を振り返る、みたいな番組があった。で、その当時の世相ということで安田講堂の事件が出て、若き日の山本義隆氏が檄を飛ばしている映像が使われていた。ああ、この人が後に『磁力と重力の発見』の著者になるのか、みたいな、不思議な感慨を味わう(笑)。数年前に話題となった『磁力と重力の発見』3巻本は、邦語の科学史本としてはまさに金字塔という感じだったけれど、いまひとたび、それを補完するかのような2巻本が出たのはつい先月のこと。で、早速購入してみた『一六世紀文化革命』1および2(みすず書房)。ルネサンス期の文化的な変貌が、大学のアカデミーとは別の領域から勃興したという観点から、当時の諸科学の動向を分野別・網羅的に描き出すという趣向。要所要所で立ち止まりつつ一通り飛ばし読み的に流しただけだけれど、芸術、外科術、解剖学、植物学、鉱業、商業と数学、軍事・機械学、天文・地理、言語などなど、まさに総覧という感じ。個人的には9章のラテン語と俗語の対立の構図あたりの整理に注目したいところ。また、最近もう少し前の時代の、アリストテレス受容の翳り、というあたりがとても気になっているところなのだけれど、直接的には触れられていないもののヒントとなりそうなところはいくつかある。いずれにしてもこれは、中世末期・ルネサンスあたりを探訪するなら、まさに今現在の必携の教科書(すべてはここから始まる、みたいな良い意味で)。

投稿者 Masaki : 23:23

2007年05月10日

商業革命は中世にあり

生産性問題再考への絡みもあって、ちょっとロバート・S・ロペス『中世の商業革命』(宮松浩憲訳、法政大学出版局)を眺めてみる。まだ前半のみ。訳者あとがきによれば、原書は71年のものだとか。都市の商業化という問題を中心にすえて、経済成長理論の立場から論じるというのがロペスの基本的立場なのだそうで、商業を資本主義の外的要因ではなく構成要因と見る立場だというのが興味深いところ。とはいえ同書は概論的で、詳しい理論的分析には立ち入っていないようだけれど、これはあとがきにあるように、「統計資料のない時代」の「経済活動を叙述すること」の困難があるためなのだという。うーむ、それはなかなか難しい問題ではあるなあ、と。

基本的に、経済的発展のベースには余剰生産物とその活用の気運というものがあり、どちらが足りなくても飛翔はできないというのが著者の立場のようだ。ローマが豊かであったにもかかわらず(中国もだが)、真の商業発展がなかったのは「成長よりも安全と安定が支配者階級の最高の理想であった」(p.73)からだという。なるほど、この理想は思想的にも裏付けられるかもしれない。で、変化の動因としては、イスラムの台頭とユダヤ人の活動、さらにはイタリアの都市化などが挙げられている。「あまりに大人数になりすぎて、世襲財産だけで快適に暮らすことができなくなった都市在住の小貴族家系」(p.86)に生じた変化が重要なのだという。資本の共同出資、政治参画などが導かれていくというこのあたり、各論的な論考をちょっと探っていきたい気がする。

上の支配階級の理想に関連して、ちょうど最近、後3世紀のイアンブリコスが逸名著者の経済論を伝えたものだというギリシア語テキストを読んだのだけれど(希伊対訳本『平和と繁栄』(Anonimo di Giamblico, "La pace e il benessere", Biblioteca Universitale Rizzoni, 2003)、伊語訳のマヌエラ・マリの紹介文では、この逸名著者については、前5世紀ごろの古代ギリシアの思想家とかいろいろな見解があるらしい)、これがまた、秩序のもとでの貨幣経済が人を幸福に導くかという内容で、大変面白いものだった。とてもモダンな議論で、同じく収められている解説(ドメニコ・ムスティ)も、英国やフランスの18世紀の功利主義・自由主義などと絡めて論じている。リベラリズム思想も、より考古学(フーコーが言うような)的に遡ってみる必要があるかもしれない、と改めて思ったり。

投稿者 Masaki : 23:12

2007年05月02日

ヨアキム思想と霊性

世間的には連休で、個人的にもここぞとばかりに、池上俊一『ヨーロッパ中世の宗教運動』(名古屋大学出版会)をひととおり読む。うん、これは力作・労作。13世紀(著者はフランボワイヤン期と称している)の多面的な宗教運動の数々をめぐりながら(隠修士、カタリ派、少年十字軍、ベギン会、鞭打ち苦行団、千年王国運動)、その霊性の変化・展開を大きな歴史的動きの中に位置づけようとする壮大な論考。読み応えたっぷり。新しい研究動向や知見もいたるところに盛り込まれていて、それらを拾っていくだけでも刺激的。カタリ派の二元論が外部から持ち込まれたものではなく、一神論内部で自発的に二元論化した、というあたりの議論や、トルバドゥールの抒情詩とのテーマ的な重なり合いなどは、改めてとても興味深く読んだし、鞭打ち苦行団とラウダの運動とが必ずしもイコールではないという話などは、恥ずかしいながらちょっと個人的に誤解していた部分を正してもらったり(苦笑)。

そしてなにより、6章の「千年王国運動」はヨアキム思想とその後の展開に関する、実に有益なまとめとなっていて、とても参考になった。歴史の2分割、3分割、あるいは7区分の6と7の重なりなどなど、漠然とヨアキムのテキストを見ていてはわかりにくい部分が憎いまでに簡潔に整理されている。このあたり、今後テキストなどを見ていく際の有益な手引きとさせていただこう。また、その思想が後代(といっても14、15世紀までだが)においてどう変形され使われていくのかを、具体的な諸派の特徴として鮮やかに描き出しているのもすばらしい。久々の大型の歴史横断的論考。

投稿者 Masaki : 23:20

2007年04月26日

フーコーで学ぶスコラ哲学?

ちょいと面白いものを読んでいるところ。フィリップ・ローズマン『フーコーで理解するスコラ哲学』("Undrestanding Scholastic Thought with Foucault", St.Martin's Press, 1999)というもの。これ、確かアルベルトゥス・マグヌスを研究しているという院生の方のブログに紹介されていたと思うのだけれど、今閉鎖されているようで確認できない。それはともかく、いずれにしてもこの本、タイトルがちょっとキワモノ的な印象である割に、中身はなかなか良くできた概説書だ。これから研究を、というような人には特にお勧めかもしれない。スコラ哲学の基盤をなす歴史的変化を、ミシェル・フーコーのメソッドをヒントに、手際よく多面的にまとめている。20世紀の研究史をおおざっぱに振り返るところから始まって、フーコーの特に初期の著作のエッセンスをまとめ、その応用として、まずはスコラ学が成立した背景として、手書き文字や読書習慣の変化と絡めて論じ、そのあとは古代ギリシアからの「円環と直線」のダイナミズムを簡単に振り返り、その延長線上でトマス・アクィナスの革新性を再論し、さらにスコラ哲学のエピステーメーの変化を概略的に辿っている。フーコーははっきりいってダシでしかないし、議論の中身もどこかで一度や二度は聞く話がほとんどだけれど、スコラ哲学の基礎をまとめて俯瞰しているところがとても好感がもてる。

……話はまったく変わるのだけれど、Herodote.netによると、4月26日はパリのシテ島にあるサント・シャペルが奉納された日なのだとか。これは1248年のことで、1239年にルイ9世が13万リーヴルでいとこのビザンツ皇帝からキリストの聖遺物を買い、それを収める場所として、建築家ピエール・ド・モントルイユ(Pierre de Montreuil:ノートルダム寺院も手がけた)が建造したのがサント・シャペル。建造費自体は4万リーヴルなのだそうで、それに比べると聖遺物がいかに貴重だったかがわかる。パリを聖地の一つにしようという政治的な意図もあったのだという。

投稿者 Masaki : 23:33