2008年07月18日

暑いときの暑苦しい映画は……

久々に映画ネタでも。このところの暑さにはちょっとゲンナリ。で、こういうときに暑苦しい映画を観ると、熱い番茶でもすするのと同じで、ちょっとクーリング機能があるかも……(?)。まあ、利かないことも多いけれどね(苦笑)。というわけで、この間、デビッド・リンチの新作『インランド・エンパイア』をDVDで観る(オフィシャルサイトはこちら)。相変わらずのリンチ節で、まったくもって暑苦しい(笑)。映画評論家の町山智浩言うところの「デビッド・リンチの脳内ツアー」で、しかも3時間!『マルホランド・ドライブ』なんかもそうだけれど、例によって主人公は、出口のまったく見あたらない「はざま」の世界に入り込んでしまう。今回は呪われたポーランド映画とそのリメイクというもともと二重の世界に、さらにその登場人物たちの私生活らしきものが絡み、またまたわけわからん世界に。でも今回、ネタバレ的に言っておくと3時間のラストで、ちょっと唖然とするような救済の瞬間が待っていたりする。あ〜、これはもう、『ツイン・ピークス』あたりから(というかその前からか)ずっと繰り返されてきた悪夢の、ある種の内破と清浄化みたいな。もちろんそれもまた、観る側の勝手なストーリーの組み立てではあるのだけれど(リンチの映画はそういう感じだよね)。

ちなみに「インランド・エンパイア」は実在する米国の地域名だけれど、上の町山氏のポッドキャストによると、リンチはこれを字義的に解してインスパイアされたらしい。「奥地の帝国」?いいねえ、これ。人の内部に巣くう帝国、みたいな感じで……(笑)。

投稿者 Masaki : 23:33

2007年10月19日

「モーゼとアロン」@ベルリン国立歌劇場

ベルリン国立歌劇場の来日講演。昨日はシェーンベルクの『モーゼとアロン』を観る。2月くらいにユイレ&ストローブの映像作品を観てとても面白かったのだけれど、実際の上演がこんなに早く観られるとは思わなかった(実は国内での本格上演は37年ぶりとかいう話だけれどね)。シェーンベルクの「強度」の音楽は、思ったとおり、まさに生音で味わうのが一番だ。バレンボイムもなかなか凄い演目でやって来てくれたものだ、という感じ。演出は、いきなり「マ……マトリックス?」と思わせるような黒ずくめ&サングラスの男たち(女性も同じ格好)が舞台に登場するとか、舞台は都市の立体駐車場みたいな感じだとか、2幕ではライトセーバー(?)を振り回すとか、テレビモニタがとても「ビッグブラザー的」だとか、いろいろな意味で俗っぽいのだけれど(ダイジェスト映像がeplusのサイトで観られる)、上のユイレ&ストローブの演出が民に対するアロンの統治思想を前面に出していたのに対し(映画作品なのでクローズアップなどが効果を発揮するからね)、こちら(ペーター・ムスバッハ演出)は明らかに翻弄される民に重点を置いている。無個性で画一的・同質的な烏合の衆のように描かれるイスラエルの民……。でも、それなら社会的風刺っぽいイメージで飾らなくてもよさそうなものだが……。それにしても主演の二人、特にモーゼ役(ジークフリート・フォーゲル)のド迫力の声が印象的だった(笑)。

投稿者 Masaki : 18:02

2007年05月05日

フォーレのひととき

3回目となる東京版「ラ・フォル・ジュルネ」。今年も一日だけ遊びに。「民族のハーモニー」ってタイトルも雑多だが、今回はプログラムもかなり雑多な印象。公式ポスターなんか、「モンティ・パイソンか?」というような切り貼りだし(笑)。まあ、これだけ雑多なプログラムでは、やはりピンポイント的に攻めるしかない(会場で、「今日も8公演はしごだぜ」みたいなことを宣言していたどこぞの若いオタ君がいて印象的だったが、そりゃまあ若いうちですわな)。というわけで、最近ちょこちょこと読んでいるジャンケレヴィッチの『フォーレ--言葉では言い表し得ないもの』(新評論)(まだあまり読み進んではいないのだけれど)を受けて(?)、今回はフォーレの宗教曲が聴ければそれでよしとしよう、と。今回のフォーレはなにしろミシェル・コルボだし。合唱はおなじみローザンヌ声楽アンサンブルで、管弦楽団はシンフォニア・ヴァルソヴィア。午後最初の宗教曲の小品集と夕方の『レクイエム』をそれぞれ聴く。小品では、小ミサとラシーヌ賛歌以外は恥ずかしながら初めて耳にするもの。タントゥム・エルゴなんてとても素晴らしかった。レクイエムは1893年版(第2稿)とのこと。サンクトゥスからピエ・イエズにいたる部分はもとより至福の旋律だけれど、コルボのゆったりとした優美な運びは絶品。ソプラノのアナ・キンタシュもなかなか(ベストな状態ではなかったみたいだが)。

あと、時間つぶしの一環としてチケットを購入していたレ・シエクルという若手演奏家らによるフランス近代ものの小品集(グザヴィエ=ロス指揮)も聴いた。うーん、このプログラム、ビゼー、サン=サーンス、シャブリエ、ショーソンの弦楽曲なのだけれど、総じてホールミュージックみたいで曲そのものが個人的にあまり面白くなかった(苦笑)。けれど、ネマニャ・ラドゥロヴィチというヴァイオリニストはなんかちょっと迫力だった。聞けばセルビア生まれで、このところの注目株なのだとか。なるほどね。このほか、民族音楽系のミュージシャンたちが無料コンサートなんかをやっていたものの、PA通した音に落ち着けず、個人的にはパスしてしまった。

ついでながら、上のジャンケレヴィッチ本の表紙を飾るのはフェルメール『音楽のレッスン』。1662年ごろのもので、英国王室コレクションの1枚になっている。描かれている楽器はヴァージナル(鍵盤に対して直角方向に弦が張られているもの)。

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投稿者 Masaki : 12:55

2007年02月21日

シェーンベルク

聖書つながりという感じで、シェーンベルクの未完のオペラの映画化作品、『モーゼとアロン』(ダニエル・ユイレ&ジャン=マリー・ストローブ監督作品)をDVDで観る。ORF、ARDなどの共同製作で、1974年の作品。いやーこれはなかなか面白い。神の言葉を受けつつも抽象的な語りしかできないモーゼ(ギュンター・ライヒ)と、それを具体的な「形象」で示す才をもったアロン(ルイ・ドゥヴォス)との、思想的・戦略的対立の構図として描いている。未完のせいか、主人公はむしろアロンというふうだ。媒介するものがいつの間にか君臨しているという、まさにメディオロジー的な逸話になっている。それはまた「信仰・信奉」というものがどれほど表層に食らいつくのかを、寓話的に語ってもいる。演出も、まずもってロケーションが素晴らしい。ローマの野外劇場跡地の廃墟が舞台となっているのだけれど、遠方にほの見える山々などが見事に取り込まれていてすばらしい。また、感情的なものをはねつける、砂漠の強度のようなものを感じさせるシェーンベルクの音楽が、そうした情景にみごとにはまっている感じになっている。歌などはほとんどモノローグの応酬のようにさえ聞こえる(笑)。ちなみに演奏はミヒェル・ギーレン指揮のオーストリア放送交響楽団&放送合唱団。

投稿者 Masaki : 23:40

2007年02月08日

時代の要請との距離感

昨日は、またもいただきものの券で(ありがとうございます)、岩名雅記(著名な現代舞踏家なのだそうで……舞踏方面はあまり知らないのだけれど)初監督作品『朱霊たち』をポレポレ東中野で観る。おー、これは寺山修司の映画へのある種のオマージュのような作品。冒頭のエピグラフがすでにして寺山の短歌だし。主人公の少年、戦後間もない時代という設定、特高くずれ、怪しげな館とそこに住まうどこか異形の人々など、まさに寺山映画・演劇のエレメントそのもの。寺山の場合には、それらのイメージは強烈な記憶の手触りみたいなものを発し、物語素を徐々に解体させて全体を詩に近づけていくのだったけれど(必ずしもそうでない通俗寄りの映像作品もあるけれどね)、こちらはどこかベクトルが逆で、全編白黒の画面の中で展開する詩的な映像は、わずかずつ幻想的な断片であることをやめて、物語に収斂していき、さらには現実の戯画を織りなしていく、という寸法(?)。やや穿った見方をするなら、そこに時代の転換を読み取るのも面白いかもしれない。イメージの横溢はそのままでは着地点をもたないけれど、かつてはそれはそれでよかった。今は、その先の着地点こそが求められる。ときには過剰に。着地点とは「わかりやすさ」だったり「物語」だったり「カタルシス」だったり。そうした部分と向き合うことは、もちろん迎合とかいう問題ではなく、時代の要請、空気のようなものの中で、作家個人がどう微妙な距離感を取っていくのか、という問題になるはず。現代舞踏のようなある種抽象的な世界が、より具体的な意味の発露を求めていくのは、あるいはそこに寄っていきながらどこかで引くのは、とても緊張感溢れる芸術的営為になりうるかもしれない。って芸術分野に限らず、いろいろなことについて言えることだけれども。

投稿者 Masaki : 12:21

2007年01月20日

チョムスキーとメディア

昨日は、いただきもの(多謝)の券をもって、来月ユーロスペースで公開予定のドキュメンタリー「チョムスキーとメディア--マニュファクチャリング・コンセント」(配給:シグロの試写会へ行く。途中休憩を挟んで3時間弱の長編。主にチョムスキーの講演や対談(テレビなどの映像)を集成・編集したもの。持論の「プロパガンダモデル」を武器に、チョムスキーは映画の多くの部分で喋りまくる。圧巻。細身の体のどこからそれだけのエネルギーがでるのだろうと思うほど。

前半のハイライトは、70年代の東ティモールの虐殺についての米国内記事の少なさが「意図的」だったかどうかをめぐり、チョムスキーと新聞社の代表その他の論陣が繰り広げる丁々発止。実は報道のレベルでアメリカに言論の自由は限定されている、という一般人の誰もが薄々感じてはいることを、様々な事例で説き明かそうとするチョムスキーの姿は、どこか妙にトリックスター的な様相を帯びていく。それが後半では、「言論の自由」と歴史修正主義がらみのスキャンダル(チョムスキーの真摯な姿勢が、歴史修正主義に利用された形だ)にまでいたる。最後はオルタナティブメディアの可能性についての展望で締めくくられる。メディアに構造的に内在している言語弾圧・思想注入の機能についての告発も、市民メディアのネットワークの話も、今やそれほど目新しい話ではないけれど、チョムスキーが語れば語るほど、逆説的に、その啓蒙的なスタンスそのものがどこか骨抜きにされて取り込まれ利用されていく様子が窺えたりもする。そのあたりをも捉えたところが、この映画のある種の成果なのかもしれない。やや穿った見方かもしれないけれど、市民メディアについても、そうしたアンチテーゼ的なメディアの成立そのものに、テーゼとしてのマスメディアがしっかりと根を張っているのではないか、という問題を考えさせられる。依存関係を含めて、すべてが主流メディアの力学の掌の上にあるとしたら、運動の熱自体が削がれたりしないのか、と。まるで自由という概念すら、必ずや(あるいは、そもそも)束縛とセットでしかありえないかのように。それはなんだか悪夢のようなビジョンだ。

映画は「議論の高まりを期待する」みたいな製作者側のメッセージで閉じられるのだけれど、やや皮肉な見方をすると、なんだかこの映画がおそらく副次的に投げかけてしまっているのは、オルタナティブが「オルタナティブ以上のものでない、オルタナティブ以上にはなりえない」ことを自覚したとしたら、あるいはオルタナティブメディアがかえって主流のメディアを強化するように作用してしまうとしたら(その可能性だってないわけではないわけで)、そのとき果たして、そうした運動はどうなるのか、どのように存続できるのか、自由という概念はどうなるのか、それ以外の有効な概念はありえないのか、といったペシミスティックな問いかけかもしれない。

ちなみに、チョムスキーと、映画にも登場するエドワード・ハーマンの共著『マニュファクチャリング・コンセント』の邦訳(中野真紀子訳、トランスビュー)が2巻本で間もなく刊行予定とのこと。この著作のほうも、メディアやプロパガンダの問題へのアプローチの実例として面白そうだ。

投稿者 Masaki : 23:21

2006年07月10日

ナレッジ・イズ・ザ・ビギニング

ワールドカップの決勝は、ジダン退場のフランスが負けて後味の悪い幕切れ。それにしても頭突きとはなあ。なんだか「選手としての自殺」のような最後、あるいは早すぎる伝説化をあざ笑うかのような暴挙。どこぞのメディアが報じたらしいように「マルセイユのクソガキの部分」("quelque chose (...) d'enfant des mauvais quartiers de Marseille")が顔をもたげたのか、なんだかよくわからないけれど、身体知と理性というものは、いずれかが天才的であればそれだけバランスを取るのにも才覚が必要になるのかしら、というようなことをちょっと考えさせられる。

あまりにも後味が悪すぎるので、ちょっとリフレッシュの意味で、少し前に購入したDVDを見直す。バレンボイムが2005年夏に行った、中東の若者たちによるラマラ・コンサート。その収録DVD2枚組("Ramallah Concert")から、演奏会にいたる軌跡を描いたドキュメンタリー作品を観てみる。『始まりは知識(Knowledge is the beginning)』というのがそれで、バレンボイムの盟友サイードの生前の姿とかも見られる。「私は政治をやっているのではない。音楽のような芸術が、400人ほどの人々に2時間くらいの間、憎しみを忘れさせる。そんなささいなことをやろうとしているだけだ」みたいなバレンボイムの言葉が感動的だ。ここには、身体知(感覚を含む)の側から理性への働きかけを素朴に信じる強い確信のようなものがある。うん、少し心洗われる気がした。

投稿者 Masaki : 22:51

2006年06月21日

プラド美術館展

昨日は新宿の紀伊国屋書店で稀覯本展をやっているというので、とりあえず覗いてみたのだけれど、どれも閉じた状態の展示だったのが残念。写真でもいいから、中を開いた状態が見たいのだけれど……面白いものとしては、ライムンドゥス・ルルスの『コディキリウス』の初期印刷本が出ていた。84万円。個人ではとうてい買えまっしぇん……。エラスムスなんかもあった。

さらにそこから上野に行き、念願のプラド美術館展に。会期の最初のほうに行くつもりだったのだけれど、ここまで伸ばしてしまい、その結果、すごい人の波にもまれてしまうことに。会場はまさに芋洗い状態だった(笑)。思うに、数年前からずいぶん幅広く導入された解説イヤホンシステムのせいで、特定の絵画の前で渋滞が出来ている感じ。うーん、ユビキタスの先駆的実例として紹介されたりもするシステムだけれど、これは良し悪しだな、という気がする。ま、それはともかく、それでもとりあえずティツィアーノほかお目当ての絵はちゃんと見れた。「ヴィーナスとオルガン奏者」(プラドに2種類あるうちの1つ。ほかにベルリンのものもあるそうな)なんかは想像していた以上に大きく、ド迫力だった。ほかにもルーベンスによるティツィアーノの模写「ニンフとサテュロス」などを堪能する。音楽図像学的な関心からいうと、ホセ・アントリーネスの「マグダラのマリアの被昇天」(1670-75)で、天使(プット)が奏でるリュートがとてもおぼろげに描かれているのが、なにやら当時の動向を象徴している感じがして興味深い。うーん、同時代の主流は、ヤン・ブリューゲルの「大公夫妻の主催する結婚披露宴」の擦弦楽器の楽隊や、テニールス「村の祭り」(1647)のハーディガーディやミュゼットなど、低音が重厚な楽器へと移行しつつあったということか(?)。

パノフスキーによるとヴィーナスの意味合いが変わっているのだというティツィアーノの「ヴィーナスとリュート奏者」を掲げておこう。ケンブリッジとニューヨークと2種類あるようで、これはメトロポリタン美術館のほう。
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投稿者 Masaki : 00:19

2006年01月17日

神々の黄昏

昨日はマリンスキー劇場の来日公演の一つ、『神々の黄昏』を観る。「リング」のツィクルスのうち今回観るのはこれだけ。うーん、これほどまでにオーケストラが主役だったオペラって観たことがないほど。その意味では実に面白かった。ゲルギエフ率いるオケの音量や躍動感がすごくて、爆走するところでは舞台上の歌手すら蹴散らしていく(歌手の声がかき消されてしまうほど)。なんだかど迫力の演奏で、あっという間に3幕が過ぎていった。ワグナーの音楽ってこういうものよね、という感じ。演出面は舞台装置も含めてけっこうミニマルで、あとは照明を駆使しまくりだけれど、それほどの目新しさはなし。『黄昏』は奸計が二重三重にほころんでいく話だけに、その結び目をなしているハーゲンのキャラは、ブリュンヒルデと並んでとても重要だと思うんだけれど、今回のハーゲンはなんだか今ひとつ物足りない。そもそもキャラクターデザインがイマイチだし、声量も今ひとつ足りない。そこがちょっと残念か。

投稿者 Masaki : 13:22

2006年01月04日

イーストウッド

クリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』をDVDで観る。イーストウッドの監督作品は、どれもある種の復讐譚。というか、人生の負債をなんとか晴らそうとする主人公たちの物語。少し前に観た『荒野のストレンジャー』(72年)なんかもまさにそんな感じ(これは後の『ペイルライダー』(82年)につながる作品。それを言うなら、ミリオンダラー・ベイビーにつながるのは、『センチメンタル・アドベンチャー』(85年)あたり?これ確かフランスでオールナイトで観た覚えがある。朝に無料で固いサンドイッチが食べられたっけ)。けれどもいつしか、そうした負債を晴らそうとしてもっと大きな負債を抱える、みたいな展開に力点が置かれるようになった感じがする(『許されざる者』『パーフェクトワールド』あたりから?)。「人は自分の人生に復讐される」とは色川武大の名言だが、まさにそんな感じか。ややネタバレだが(失礼)、ちょうどフランスではある尊厳死裁判をめぐって、検察側が免訴の請求を出したという話が報じられている。イーストウッドはどんな娯楽作品を撮っても、どこかにさりげなく社会的な問いをかましてくれるけれど、今回はまさに、という感じ。

Webcamから、昨年11月下旬のパリの朝焼け。なんだか新年っぽいんでないの?
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投稿者 Masaki : 00:35

2005年12月09日

ダーウィンの悪夢

Le Monde diplomatiqueなどでも何度か目にする「ダーウィンの悪夢」という表現。そのもとになっているフーベルト・ザウパー監督作品『ダーウィンの悪夢』(2004)はすでにフランスなどではDVDになっている。早速ゲットし視てみた(日本でもこの秋に外語大とかで上映会があったそうだし、山形ドキュメンタリー映画祭でも審査員特別賞を受けている)。いや〜、話には聞いていたけれど、ここに描かれるタンザニアはものすごいことになっている。生態系の破壊、貧困、戦争がもつれあった悪夢のようなその空間(しかも本当の悪夢はまだ少し先の将来にまっているという暗示付きだ)。そしてその上空には、まるで異世界から来るかのような飛行機が象徴的に舞っている……。

ちょうど今月号の岩波『世界』に、ザウパー監督のインタビューが掲載されている(外語での上映を組織した西谷修氏らによるもの)。「産業化社会では責任の分断が見られ、誰が何の責任を取らなければならないかわからなくなっている。システムそのものが問題なのだ」というような話に続けて、ザウパー氏は、資本主義のあとには「焼け野原しか残らない」ことを強く懸念すると述べている。無責任さは個人の問題ではなくて、システム全体に組み込まれている、ということなのだが(それは日本の耐震偽造問題などを見ていてもわかるけれど)、システムそのものの作り替えを模索しよう、みたいな話が徐々に出にくくなっているのも気にかかる。この映画からは、ローカルなシステムが、当事者には見えないより大きなシステムに組み込まれて成立してしまっていて、その内部からは壊せそうにない、という感触が伝わってくる。なんらかのカタストロフが起きるまで、そういう全体的システムからの離脱といったモチベーションは出てきそうにない。そのカタストロフは、存外に近いところにあるかもしれないというのに……。映画で描かれるタンザニアも、はるかに豊かな日本なんかも、一種の「臨界社会」みたいになっている点で、構造的にはそれほど違いはないのかも……ということを改めて思う。

投稿者 Masaki : 10:42

2005年11月06日

さまよえる……

昨日、二期会のプロダクションによるワーグナー「さまよえるオランダ人」を観る。日本におけるドイツ年関連のイベントなのだそうで、ハノーファー州立歌劇場との共同製作なのだとか。演奏はオランダ人指揮者ワールト+読響でなかなかのもの。歌手陣も善戦。だけれど演出(渡辺和子)はちょっと意味不明。小道具のオランダ人の彫像なんかも、使われ方がいまいちピンとこなかった。ラスト、オランダ人は去り、ゼンタも舞台から消えておしまい。救済はどうなったの?何かこの、演出意図と美術的構想と歌手たちの立ち振る舞いが全部微妙にかみ合っていない感じがして……演奏そのものは悪くなかっただけにちょっと残念か。

ま、もともとこの話、永遠の愛を誓えば救われるという設定を逆手にとったようなラストは、少し付け足しっぽくてあまり好きではないのだけどね。主人公ゼンタは、誓ってすぐ自殺してしまい、誓いが永遠化されてオランダ人は救済されましたとさ、というのは確かに今の時代からすれば安直。オランダ人もふくめ、どの登場人物も俗っぽく自分の身のことだけ案じている中で、オルタナティブな理屈を持ち出してくるゼンタは、確かに崇高に描くこともできるけれど、同時にひどく異様なものにも映りうる(実際、すべてはゼンタの妄想、みたいな演出もあったはず)。今回のはどちらかといえばそちら寄りだったのかしら?いずれにしても、これって描き方によっては、資本主義批判なんかにもっていくことだってできるだろうに……。なんか、もっと面白い演出で観たい気がする。

投稿者 Masaki : 12:55

2005年10月10日

王女メディア

9日の夜にNHKで放映していたク・ナウカの公演『王女メデイア』。少し前に東京国立博物館で行われたものらしい。お座敷を模した舞台、人形浄瑠璃的な見立てなどが、最初ギリシア悲劇っぽくなくてちょっと引いたものの(苦笑)、進行するにつれてそれなりに面白い舞台になっていった。ジェンダー論や民族的確執など、表面的な装置の数々はまあともかくとして、ギリシア悲劇がもつ冷徹さについては、黒子の語りはメリハリもあって、それなりに雰囲気を醸し出していたとは思う。それにしてもどもるメディアというのは珍しい。ま、寺山修司以来の演劇的トポスだけれどね。激高を抑える時にメディアの言葉がどもるのだけれど、そういう情念とロゴスの対立軸はテーマとして生かされもせず、安直に表面的なジェンダーの対立に置き換えてられてしまったみたい……うーん、この点はどうかなあ、と。それからこれは放送だからだけれど、黒子役の男性陣のアップもちょっとね。むしろ舞台全体を生かすようなカット割りにしてほしいよなあ。

投稿者 Masaki : 17:19

2005年01月19日

カフカ……

昨日、新国立劇場の小劇場で『城』を観た。カフカの原作を再構成した舞台(演出は松本修)ということで、結構期待していったのだけれど、個人的にはちょっとイマイチな感想。セリフは一本調子で叫ぶだけ、テレビドラマ風の安っぽい音楽の入れ方、かつてのアングラものを思わせるモブシーンでのあまり意味のない動き……なんだか小劇場系のさほど好ましくない部分ばかりが目につく感じ。不条理劇の迫り来るような不安感もなく(それは原作のせいかな?)、なによりも歌舞伎の見得のような演出はこういう不条理ものにはそぐわない。おしなべて表面的な「和風」のカフカ……って、ちょっと難あるよなあ、これ。変な比較になってしまうけれど、日曜にテレビ放映していたギリシア悲劇『アンティゴネー』の方が、よっぽど不条理ものの王道という感じだったな。舞台衣装などは和風なのに、ダイジェストのテレビ画面を通じても感じられる、せり上がってくるような重苦しさは、まさしくギリシアものの舞台の醍醐味そのものだ。

とはいえ、今回の公演では、時折字幕として挿入されるカフカの引用文が妙に面白かった。なるほど、アフォリズムとしてのカフカの面白さ、というのは発見だったかも。城をめぐる全体構造が見えない主人公のKは、出所もわからない目前のメッセージの断片にただ翻弄され続けるわけだけれど、未完の『城』そのものが、すでにしてアフォリズムの集成として読まれるしかないのかも。さらに、「出所のわからないメッセージ」の不穏さは、「宛先に届かないメッセージ」と同様、重大な「哲学素」(こんな言い方があればだけれど)をなしていくようにも思われる……と。

投稿者 Masaki : 11:17

2004年11月21日

韓国映画と懐古趣味

先日、あまり間隔を置かずに韓国映画を2本、DVDで見る。『ラブストーリー』と『殺人の追憶』。前者のクァク・ジョエン監督には、前作『猟奇的な彼女』でその伏線に見事にしてやられたせいもあって、今回は最初から目を皿のようにして見ていたのだけれど……なんだかえらくストレートフォワードな展開で、その意味ではちょっと拍子抜け(笑)。ま、それはともかく。このDVDで特に面白いのは、特典映像みたいに収録されている韓国と日本のそれぞれの予告編とTVスポット映像。韓国のものがいかにも現代っ子という感じにポップな面を前面に押し出しているのに対し、日本公開時の予告編はかなりノスタルジックな感じにまとめている。おそらくターゲットとする観客層の違いが反映されているのだろうけれど、それにしてもこれでは印象が違いすぎるというもの。もう一本の『殺人の……』は予告編につられるようにして見たのだけれど、田舎の警察のバカ騒ぎみたいな部分が延々と続き、詩的な映像になるのは最後のごく短い部分だけ。ちょっと予告編にだまされた感じか。『猟奇的な……』もそうだったけど、『殺人の……』の方は詩的という点でも今ひとつ。こういう映画の作り方、パターンに、あるいは映画そのものの受容の温度差が透けて見えているようにも思えてくる。ある種のヨーロッパ映画が絶対輸入されないように、韓国の映画もまたどこか日本での受容と微妙にずれている感じがする。西欧の場合は一種スノッブな姿勢に回収されて、そういうズレが肯定されていったりするけれど(西欧での日本映画の扱いもそう)、韓国のようにあまりに距離的に近い文化圏については、なかなかそうもいかないのではないかと思う。そこで持ち出してくるのが懐古趣味というわけか。『殺人の……』の宣伝に、黒澤明に言及するキャッチコピーがあったと思ったけど、それと『ラブストーリー』の日本版予告編には通底するものがあるというわけだ。流行の韓流ブームにもどこか同じ姿勢が共有されていそうで、ブームといいつつ、必ずしも隣国の文化的理解へと向かっていきそうにないのが歯がゆい感じもしなくない。

投稿者 Masaki : 21:23

2004年10月08日

崇高なヨタ話?

ミシェル・オンフレ初来日。フランスの思想界の次世代を担う一人……なのかしら、でも邦訳は『哲学者の食卓』(幸田礼雅訳、新評論)のみなので、日本での知名度はまださっぱり。古代ギリシアのキュレネ派から68年の5月革命まで、快楽主義的な系譜を大きく取り上げている。ちなみに拙訳で『<反>哲学教科書』というのが年内に刊行予定。長く技術系リセの教師だったというが、2002年からはカーン民衆大学(市民大学)というのを主宰している。

さて今回の来日公演、初日と2日目を聴いた。初日は日本の若手研究者との対話。いきなり紹介のイントロが長すぎた感じもあったけれど、まあ仕方ないか(笑)。ただ、書いてきたレジュメを読み上げるスタイルのプレゼンは日本の悪癖だ、といつもながら思う(それじゃレジュメじゃなくて原稿そのものだよなあ。ゼミの発表の悪癖ですな)。対するオンフレ本人は、特に準備した風もなく、ずらずらっと多岐にわたり「ヨタ話」を早口でまくし立てる。同時通訳は大変だったろうと思うけど、講演ってやっぱりこういう「ヨタ話」(いい意味での)が楽しいよね。ま、内容的には、いろいろ事例が取り上げられる割には「哲学はつまるところ自叙伝的」「現代のミクロ化した権力にはミクロ化した抵抗を」「個人の尊厳が認められる社会を」といったいくつかのテーゼに集約される感じだったけれど……。2日目もそれは同じ。フランス人翻訳家との対話を通じてブルデューについて論じたのだけれど、ブルデューの著作を秘められた自叙伝という視点で読む(実存的精神分析のアプローチ)というのはそれほど斬新でもないか。ただ、哲学者には、どこにでも赴くキツネと、一つにこだわり掘り下げるイノシシの2タイプがあるというミシェル・セールの言葉を引いて、みずからをキツネでありたいとの自己規定を述べている述べているあたり、どういう思想的な飛翔を遂げていくのか注目したいところでもある。

ちなみに、オンフレはLe Monde diplomatiqueの10月号にも寄稿していて、よく取り沙汰される哲学の貧困に対し、左翼系知識人の散発的・メディア戦略的な取り組みと、カーン民衆大学の実践とを紹介している。

投稿者 Masaki : 13:50

2004年09月12日

異人の名

昨日は東京シティ・フィルによるワグナー『ローエングリン』を観に。ほとんど前奏曲と有名すぎる結婚行進曲くらいしか知らなかったのだけれど、なるほど通して観ると実に面白い異人来訪の話になっている。うん、演奏も、シンプルな舞台装置と演出もなかなか素晴らしい。舞台は10世紀のハイリンヒ1世(オットーの息子でザクセン朝の初代国王)の治下のブラバント。内紛が持ち上がっているブラバントへ異国の騎士がやって来る。ちょうどゲルト・アルトホフ『中世人と権力』(柳井尚子訳、八坂書房)を読んだばかりだったせいもあって、なるほど私戦(フェーデ)を王が仲裁するという図式が用いられていて興味深い。

物語の軸をなす、名前も素性も聞いてはいけないという禁忌は、父親パルツィヴァルの逸話(クレチアン・ド・トロワの物語では、ペルスヴァルは漁夫王への問いかけをしないばかりに王を救えない)の逆転形だけれど、ここで思い出されるのはむしろ「まれびと」信仰だったり(笑)。共同体の外にある異人がその内部に取り込まれることの徴が、ここでは名前の欠落にあるというのが面白い。名前をめぐるタブーみたいなものって、ゲルマンの方とかにあるのかしら?うーん、このあたりはさっぱり知らないのだけれど、ワーグナー版のもとになっているらしい各種のもとのローエングリン伝説にもぜひ当たってみたい。

投稿者 Masaki : 17:22

2004年06月03日

カメラを持った男

映画音楽で知られるマイケル・ナイマンの「フィルムコンサート」に行く(昨日)。前半は「ピアノ・レッスン」(ピアノソロ)「英国式庭園殺人事件」「プロスペローの本」の挿入曲のコンサート。いやー、やっぱり管楽器が低音をブイブイ唸らせるのがいかにもナイマンって感じだ。後半が生演奏つきの無声映画上映で、作品はなんとロシアの記録映画作家ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929年)。革命後のロシアの様々な断片を、それを記録する男=カメラに寄り添う形でモンタージュした超有名な作品。それにナイマンが曲を付けているのだけれど、うーん、これは『コヤスカッティ』(そういえばフィリップ・グラスも昨秋同じようなフィルムコンサートをやったんだっけね)プラス『メトロポリス』という風だ。自然的・身体的な映像にスローの曲を、都市文明的・機械的な映像にブヒブヒいわすアップテンポな曲を付けているため、本来多義的であっただろう映像が、音楽に引っ張られて、『メトロポリス』的な二元論の対比という形で解釈を強要されてしまう。うーん、解釈を引っ張ってしまう音楽って、ある意味かなり暴力的かもしれないが……。

このセミ・ドキュメンタリーの映像を見て、ヴェルトフの一義的な目的は、やはり記録することそれ自体にあったのではないかと思えてならない。映像のジャーナリズムの根源……。先にイラクで殺害されたジャーナリストも含めて、中東にいるジャーナリストらのことを少しだけ思った。彼らは本来記録のために現地に入っているのだろうけれど、彼ら自身がテレビの前に立たされてレポートするわりに、彼らが日々記録しているであろう映像はきわめて乏しくしか放映されない。本当に重要なのは、彼らが記録したものの方だろうに……。機構としてのメディアがそうした記録をいじったり隠蔽したりするのは、作曲家が行う解釈の方向付けなどとは比べものにならないくらい横暴だ。

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(『カメラを持った男』の一場面)

投稿者 Masaki : 14:27

2004年05月20日

野田マクベス

昨日は久々の観劇(というか、オペラだけれど)。野田秀樹演出の新国の『マクベス』。新聞の音楽評の欄などに見られるように、「ヴェルディのオペラ」と思って観る人には評判が悪いようだが、野田的演出を多少とも観たことがある向きにはなかなか楽しい、ニヤリとするような小細工(いい意味で)が満載だ。というか、ビジュアルに押されてか、音楽そのものはさっぱり響いてこなかったぞ。そもそもヴェルディのこの音楽、あまり面白くはない(暴言だけど)。シェークスピアのどこか不気味で禍々しい物語を、ヴェルディは魔女の予言に翻弄される悲劇的人間という総じてファンタジックな方向に解釈した感じで、音楽はかなり脳天気だ。これにシェークスピア的なものを再導入するという試みを、おそらく野田は意図的にやってるんじゃないかな、という気がした。ま、夢の遊民社時代から野田演劇では「黒子芝居」とモブシーンがお得意だったけれど、今回も実にうまく絡めている。嫌いな人は嫌いだろうなあ、こういうの。特に歌手一人一人の歌唱をひたすら聴きたがるオペラファンには抵抗あるでしょうね。とはいえ、そのスタイリッシュな演出はカーテンコールまで統制されていて、よくある歌手たちがダラダラと手をつないでお辞儀するだけ、というのとちょっと違っている。演劇的にはこうじゃなくちゃ。次回(あればだけれど)にも期待。

投稿者 Masaki : 13:23