アウグスティヌスとアフロディシアスのアレクサンドロス

ド・リベラの『主体の考古学–第1巻』(Alain de Libera, “Archéologie du sujet, vol.1 – Naissance di sujet”, Vrin, 2007) を相変わらず読んでいるところ。第三章「付与論(attributivisme)の起源」では、魂をめぐる命題が「付与論」から「内在論」へと移行する重要な結節点にアウグスティヌスが位置することを改めて取り上げている。アウグスティヌスがベースとしている哲学的議論は、プロティノスにあることはよく知られているけれど、ド・リベラはもう一歩踏み込んで、そのさらに古層にはアフロディシアスのアレクサンドロスの『霊魂論』がある、と見ている。これはなかなか面白い議論だ(思想史的にではなく、あくまで哲学上の議論としてだけれど)。アレクサンドロスが物質論的に「魂は身体と分離しえず、物体の混成物に加わる態勢・潜勢である」と見なすのに対して、アウグスティヌスは魂を分離可能な実体と見なすという抜本的な違いがあることは、前者の『霊魂論』のさわりと、後者の『魂の不死性について』のさわりをざっと読むだけでもわかるけれど、ド・リベラの分析によると、少なくとも主体に付帯性が宿るような形で身体に魂が宿るのではないという論点で両者一致するのだといい、その意味でアウグスティヌスの「哲学」はアリストテレス・アレクサンドロス・プロティノスという思想的堆積の上にのっかっていて、その上に立って暗示的な形でアレクサンドロスの議論に批判の矛先を向けているのだという。うーん、このあたり、改めて次のことを思わせる……。系譜関係というのは必ずしも「先人の著作を後世の者が直接読んだ」という場合に限られるわけではなく(それは文献学的領域だが)、こういう間接的な立脚・批判の関係というのは何らかの分析の枠組みをもちこまないと浮かび上がってこない。後者のような探求は、なかなか「歴史学」では認められないけれど、意外に興味深い議論になることもあったりするので、一概には切り捨てられない。もちろん、その持ち込む枠組みの是非は問題になるだろうけれど……。当たり前といえば当たり前な話だが。