「三位一体」の問題圏

しばらく前から読んでいるアラン・ド・リベラ『主体の考古学』は、終盤にさしかかったところで別の仕事で慌ただしくなり一時中断、ようやく最近になって読了した。うーん、様々なテーゼを簡略な公式にまとめながら論を引っ張っていくという著書なので、一度読むペースが狂うと式の意味内容がおぼろげになってしまい、議論の流れに復帰するのに時間がかかる(苦笑)。ま、それはともかく、終盤はもうすっかりアウグスティヌスの問題圏という感じ。その魂論の核心部分では「愛や認識は知(記憶)のうちに、知がみずからのうちに存在するように存在する」とされ(つまり実体的に、しかも相互陥入的に存在するというわけか)、つまりは三位一体論の「相互内在性(περιχώρησις、circumincessio)」がベースになっているらしい。ちなみにペリコーレーシスという用語を最初に使ったのはダマスクスのヨアンネスで、ピサのブルグンデイオによるその翻訳に訳語としてcircumincessioが当てられ、中世においてはよく知られていたのだとか(ボナヴェントゥラなど、フランシスコ会がこの用語を駆使するようになるらしい)。もちろんその相互内在論にも長い歴史があるわけだけれど(エイレナイオス、ポワティエのヒラリウス、アジアンゾスのグレゴリオスなど)、それが中世にいたると、とりわけトマスなどを通じてアリストテレス的な主体概念と結びつき、思考の「主体=代理者」という図式ができていく(「魂はそれがみずからの作用をなすときにのみ主体となる」)のだという。

まだこれは1巻目で、主体成立の長い道筋の端緒についたところまでなのだけれど、改めて三位一体論というのは難しい問題を孕んでいるのだなあと思わせる。相互内在性の議論というのも今ひとつすっきりとは見えてこないのだけれど……同書で言及されている著者たちの議論をちょっと調べてみるのもいいかもしれない。いずれにしても少しド・リベラ節に目が眩んだ感じもするので(笑)、迂回路に入って少し気分を休めてから、昨年刊行された2巻目を読むことにしよう。