付帯性

フライベルクのディートリヒによる『存在するものの何性について』をようやく読了。前に挙げた『選集1』(“Dietrich de Freiberg – Oeuvres choisies”, Vrin, 2008)所収のもの。この論での一番のポイントは、なんといっても付帯性(=偶有)の扱い。ディートリヒは「何性」は形相でモノの定義に与る部分であるとし、一方の「付帯性」は形相ではなくあくまで実体に属する部分で、基体とは別様の定義に与るもの、というふうに区別している。トマスなどは付帯性もまた形相に位置づけていたと思うけれど、そこからするとこれは一見些細な、ごく小さな転換のようにも見える。とはいえ、どうもこの実体への位置づけ、後世からすれば「大きな」転換といえそうな気配もある(そのあたりはこれからちゃんと見ていかないといけないのだけれど)。


それにちょっとだけ関係する話。ちょうど何気なく読み始めた檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社、2008)の2章目で、九鬼周造が取り上げられていて、その『偶然性の問題』がドゥルーズの議論に重なってくるといった話になっている。紹介されている九鬼の偶然性の区分の一つに「定言的例外」というのがあるのだけれど、これが本質に対する例外(つまりは付帯性=偶有)の議論なのだそうで、九鬼はそこで、例外であるとは実在する個物のことだとしているのだという。付帯性が実在(実体)にあるという話が、そのまま唯名論的個に結びつくような格好だ。これには思わず唸る。なるほど、言われてみれば、付帯性を実体の側に位置づけることは個物のみの肯定という議論を導くことにもなるのかもしれない……九鬼おそるべし(笑)。九鬼の議論はもちろんこんなところにとどまったりはせず、「仮説的偶然」(異なる二系列が邂逅する偶然)、「離説的偶然」(様々な可能性の枝分かれから、現実にかくあるものが成立する偶然)と論を進め、最終的に刹那の時間論にまでいたるらしいのだが、先の西田もそうだけれど、こうした日本思想の先進性は個人的にもまったく見過ごしていたなと反省しきり。お恥ずかしい話、九鬼というと『「いき」の構造』くらいしか読んだことがない(それも大昔)。『偶然性の問題』はぜひ見ておかなくてはね。またこの檜垣氏という著者には西田幾多郎論もあるようなので、遅ればせながらそちらもぜひ見たいと思う。

製本

昔から革装の本の製本技術には大いに関心があった。そんなわけで、ジョゼップ・カンブラス『西洋製本図鑑』(市川恵里訳、岡本幸治監修、雄松堂出版)を購入してみる。図書館に置くような大型本を購入するのは結構久しぶりかも。児童向けの大型カラー図鑑とかを彷彿とさせ、妙に懐かしい(笑)。で、内容も実にいい。カラー写真満載で、製本技術についてかなり詳しく紹介している。職人の細かな手作業の雰囲気がびしばし伝わってくる。羊皮紙の時代からある製本技術。西欧では今でも袋とじ本があるし(だいぶ少なくはなっているみたいだけれど)、ペーパーナイフで切りながら読み、読み終わったら製本を頼んで保存版とするといったサイクルがあるわけで、そうやって子孫に書物を残していくというのは実に奥深い伝統だと改めて思う。大量消費の「使い捨て本」の対極にある書物文化だ。

でも、一方で大量の印刷・製本をする今どきの本でも、西欧ものは以外に不備があったりする。乱丁・落丁は滅多にないとはいえ、そんなに版の古くない大型辞書とかでも、数ページ分、紙の端が折り込まれてそのまま裁断・製本されてしまっている場合がある。おそらく機械が、ページの裁断時に紙を巻き込んでしまうのだろうけれどね。うちにある羅仏辞書の定番ガフィオ(”Dictionnaire latin-français Le Grand Gaffiot”, Hachette)や、希英辞書の定番中の定番リドル&スコット(”Greek-English Lexicon”, Oxford Press)などはその例。仕方ないので、折れている部分を広げて端をナイフで切り揃えて使っている。ま、乱丁・落丁ではないので、ごく些末な問題にすぎないのだけれど、もうちょっと機械とか改良してほしいよなあ。