Ἡ τῶν ἀσωμάτων προσηγορία οὐ κατὰ κοινότητα ἑνὸς καὶ ταὐτοῦ γένους οὕτω προσηγόρευται καθάπερ τὰ σώματα, κατὰ δὲ ψιλὴν τὴν πρὸς τὰ σώματα στέρησιν· ὅθεν τὰ μὲν αὐτῶν ὄντα, τα δὲ οὐκ ὄντα εἶναι οὐ κεκώλυται. καὶ τὰ μὲν πρὸ σωμάτων, τὰ δὲ μετὰ σωμάτων· καὶ τὰ μὲν χωριστὰ σωμάτων, τὰ δὲ ἀχώριστα· καὶ τὰ μὲν καθ᾿ ἑαυτά ὑφεστηκότα, τὰ δὲ ἄλλων εἰς τὸ εἶναι δεόμενα· καὶ τὰ μὲν ἐνεργείαις τὰ αὐτὰ καὶ ζωαῖς αὐτοκινήτοις, τὰ δὲ ταῖς ζωαῖς παρυφισταμέναις ταῖς ποιαῖς ἐνεργείαις. κατὰ γὰρ ἀπόφασιν ὧν οὐκ ἔστιν, οὐ κατὰ παράστασιν ὧν ἐστι προσηγόρευται.
非物体の呼称は、物体が呼ばれるときのように同じ一つの類の共通性にもとづいているのではなく、物体に対する純粋な欠如にもとづいている。それゆえ、以下のことを妨げるものはない。つまり、そのうちのあるものは存在し、あるものは存在しないし、あるものは物体に先んじ、あるものは物体とともにある。あるものは物体から分離するが、あるものは物体から分離しない。あるものはみずから存続し、あるものは存在するためにほかのものを必要とする。また、あるものは活動(現実態?)やみずから動く生命と同一であり、あるものはなんらかの活動(現実態?)のおかげで存続しうる生命と同一である……。なぜなら、それらが呼ばれるのは存在しないものの否定においてであり、存在するものの肯定においてではないからだ。
柴田元幸責任編集の雑誌(ムック)『monkey business』の最新号(vol 4. 少年少女号) を出先で買う(1月に出ていたのね)。まだ中身をよく見ていないのだけれど、巻末の編集後記らしい「猿の仕事」という文章に、ある作家が、オバマ政権誕生によっても是正されない悪は、アメリカにおける蕎麦の不在だとのたまったという話が出ている。まあ、蕎麦の場合には色も味もインパクトがないわけで、天ぷらや寿司、照り焼きがアメリカ中に広まったようにはいかないんじゃないすかね(別に炭水化物への差別というわけではないんでは……)。また、ほかの作物が潤沢にできる気候風土があるときに、ソバの実なんかまず栽培しようとは思わないだろうし。ま、それはともかく、オバマに「過剰な期待をしてしまいます」というその末尾の一文から考えることはいろいろと多い……。『現代思想』3月号 とか、岩波の『世界』4月号とか、なにかどうも「前政権のブッシュの『呪い』(つまりは負の遺産)によって、オバマは思うような政策を取れない」というのが評論的にスタンダードな見方になってしまっているような感じだけれど、オバマが政策的に大きく失敗するというのはよっぽど大きな悪夢になるような気がする。なにしろその場合、「やっぱり黒人は……」みたいな感じでレイシズムが蔓延したり、マイノリティの社会上昇がますます困難になったりするかもしれないし、下手をすると米民主党そのものだって二度と浮上できないほどの打撃を受けて弱体化し、すると4年後にはまた共和党政権になって、ブッシュに輪をかけて横暴な大統領が「やっぱり戦争しかねえな」なんてことを言い出したりして……。いやいや真面目な話、オバマには失敗は許されないっす。
上の『現代思想』、萱野+諸富対談で、かつてのルーズベルトのニューディールは大恐慌を克服できなかったというのが学術的な定説だという話が出てくる。結局は第二次大戦の戦争景気でもって危機を乗り切ったのだ、という話。うーん、このあたりの話は、素人なりにもっとちゃんと知りたいところ。もちろんニューディールにも意味はあったという話も続いているけれど(インフラの整備、税制の確立、戦後体制の基礎づけ、福祉など)、克服できなかったというのが定説なら定説で、何がどう問題で克服できなかったのか、というあたりのこともちゃんと分析されているのかしら、と疑問に思ったり。同誌にはまた、チョムスキーによる中東問題へのオバマの姿勢についての批判の文章も掲載されている。チョムスキーが支持しているらしい(訳者解題による)二国家分離による併存について、最近ヒラリーが言及するなどの動きもあったようだけれど、同じく訳者解題にあるように、それが一面では入植地問題の悪化を招くことにもなるわけで……。うーん、歴史は繰り返すというけれど、かつてのイギリスの委任統治の失敗とかも想起されたりとか……なんてことを思うと、本当に1920年代、30年代が亡霊のように漂っている感じになってくる……(おーこえ〜)。
昨年新装版で出たユルスナール『黒の過程』(岩崎力訳、白水社) を読了。訳者は学生時代にお世話になった先生(笑)。地の文が入り込むフランス式の会話文は久々で妙に懐かしい。16世紀を舞台に、ある錬金術師(医者でもあり哲学者でもある)の遍歴を中心に、ルネサンス期のゆるやかな社会変革にあって覚醒と蒙昧との境界線上の波間を漂う狭間の人々を描き出しているという一作。話には聞いていたけれど、なかなかに味わい深い。読み応えたっぷり。語り口もなんともいえず、いったん主人公が後景へと消えて端役のような扱いで戻ってくるあたりの巧みな語りも、あまりお目にかかれない小説技法という感じだ。
で、巻末についているユルスナールの「作者の覚え書き」がまた実にいい。主人公ゼノンをはじめ登場人物の造形のモデルや、エピソードのもとになった歴史的事実、背景などを蕩々と語っている。当然ながら真摯な学究的な姿勢の上に、その資料の合間を縫ってフィクションが紡ぎ出されるという小説構築の作法。そういうものの積み重ねがあっての堂々たる作風。
今回の新装版のカバーにはヤン・ヴァン・ゴイエン(Jan Van Goyen)の「スケーターたち」(Les patineurs)という絵の一部が使われている。1645年の作品で、リール美術館所蔵とか。人も描き込まれた全体図を掲げておこう。
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