リュートtube

うーむ、5月の連休開催の今年のラ・フォル・ジュルネ音楽祭はバッハ特集ということで、リュート演奏とかも期待していたら、登場するのはエグエスだけで、しかも先行販売の段階であっという間に売り切れ。チケットgetならず残念(T T)。今日から一般販売開始だったのだけれど……。先行販売で売り切れるような販売方法ってなんだかなあ。今年は日数とか演奏回数とか若干縮小されているのもなんだかなあ。ま、そちらは景気後退のあおりですかね。プログラムも本国フランスはナントの同音楽祭は、同じバッハ関連でもたとえばブクステフーデのカンタータとか集中的に組んだりしたようだけれど、東京版はちょっとおとなしくメジャーな曲が多い印象(っていうか、文化受容の強度の差とか?(笑))。

ま、気を取り直してリュートもの。最近、YouTubeでリュート演奏をずらずらブラウズすることが多いのだけれど、これも結構ピンキリで楽しい(笑)。プロからアマチュアまで、みんな頑張っているなあ、うまいなあ、という感じ。とりあえずの一番のお気に入りは、いくつかアップされている重鎮ロバート・バルトの渋い演奏。ヴァイスとかロイスナーとか。というわけで、ロイスナーの名曲、パッサカリア・ニ長調を貼り付けておこう。

ビュリダンの「推論」論

14世紀に活躍したジャン・ビュリダンとその周辺(先に挙げたザクセンのアルベルトとか)について、個人的に少し詳しく知りたいと思っている。どちらかといえば自然学方面での著作を検討したいわけなのだけれど、ビュリダンのもう一つの軸になっていると思われる論理学方面も見ないわけにはいかない……。ビュリダンの『ソフィスマータ(謬論)』の仏語訳(“Buridan – Sophismes”, trad. J. Biard, Vrin, 1993)の序文によると、ビュリダンの論理学は当然ながらその自然学の基盤をなしていて、無限、原因の種別、量、運動、真空など、いずれの問題についてもビュリダンはその言語的な解明、命題の分析、概念の意味の明確化をつねに念頭に置いているのだという。なるほどね。というわけで、まずはとっかかりとして、比較的短いテキスト『帰結論(推論論)』の校注版(Hubert Hubien, “Iohannis Buridani Tractatus de consequentiis”, Publicaitons Universitaires, Louvain, 1976)を読んでいるところ。まあ、推論の各種パターン(条件命題など)を整理・分類しているものなので、「むちゃくちゃ面白い」というわけにはいかないのだけれど(苦笑)、それでも三段論法(syllogismus)をきっちり推論の特殊形態として、かなり厳密に定義しているところなどは面白い。上の『ソフィスマータ』も同じようなスタンスの著書のようだけど、そちらもまた見ていかないと。

アーカイブ・サイト

最近個人的にちょっとハマっているテキスト・アーカイブ・サイトがDocumenta Catholica Omnia。お恥ずかしいことに最近まで知らなかったのだけれど、ここは古代末期から中世・ルネサンスまでの哲学・神学のテキスト・アーカイブ。発展中という感じだけれど、とりあえず特に13世紀くらいまでは網羅的で、ものすごく充実している。たとえばこのblogでもメルマガでも言及したセドゥリウス・スコトゥスの注解書とか、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの『自然の区分について』とか、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』とかいろいろ手に入る。トマス・アクィナスなどもずらずら並んでいて壮観。ラテン語はもとより、ギリシア語文献もギリシア教父のほかいろいろあるし、各国語訳もいろいろある。ちなみに目次というか索引というかはhttp://www.documentacatholicaomnia.eu/a_1003_Bibliothecae_Partes_seu_’Site_Map’.html。テキストはdocないしpdfでアーカイブしていて、大変にありがたい。多謝。これからの一層の拡充も楽しみ。

アウグスティヌスとアフロディシアスのアレクサンドロス

ド・リベラの『主体の考古学–第1巻』(Alain de Libera, “Archéologie du sujet, vol.1 – Naissance di sujet”, Vrin, 2007) を相変わらず読んでいるところ。第三章「付与論(attributivisme)の起源」では、魂をめぐる命題が「付与論」から「内在論」へと移行する重要な結節点にアウグスティヌスが位置することを改めて取り上げている。アウグスティヌスがベースとしている哲学的議論は、プロティノスにあることはよく知られているけれど、ド・リベラはもう一歩踏み込んで、そのさらに古層にはアフロディシアスのアレクサンドロスの『霊魂論』がある、と見ている。これはなかなか面白い議論だ(思想史的にではなく、あくまで哲学上の議論としてだけれど)。アレクサンドロスが物質論的に「魂は身体と分離しえず、物体の混成物に加わる態勢・潜勢である」と見なすのに対して、アウグスティヌスは魂を分離可能な実体と見なすという抜本的な違いがあることは、前者の『霊魂論』のさわりと、後者の『魂の不死性について』のさわりをざっと読むだけでもわかるけれど、ド・リベラの分析によると、少なくとも主体に付帯性が宿るような形で身体に魂が宿るのではないという論点で両者一致するのだといい、その意味でアウグスティヌスの「哲学」はアリストテレス・アレクサンドロス・プロティノスという思想的堆積の上にのっかっていて、その上に立って暗示的な形でアレクサンドロスの議論に批判の矛先を向けているのだという。うーん、このあたり、改めて次のことを思わせる……。系譜関係というのは必ずしも「先人の著作を後世の者が直接読んだ」という場合に限られるわけではなく(それは文献学的領域だが)、こういう間接的な立脚・批判の関係というのは何らかの分析の枠組みをもちこまないと浮かび上がってこない。後者のような探求は、なかなか「歴史学」では認められないけれど、意外に興味深い議論になることもあったりするので、一概には切り捨てられない。もちろん、その持ち込む枠組みの是非は問題になるだろうけれど……。当たり前といえば当たり前な話だが。

パラディアンズによるタルティーニ

タルティーニとくれば、定番は「悪魔のトリル」ことト短調ソナタ(Op.1 No.4)。とはいえあんまり聞く機会はないけれど……(苦笑)。で、そんな中、パラディアンズというユニットの録音『悪魔のトリル–タルティーニのソナタ』を聴く。これはなかなか秀逸な演奏では?個人的にリファレンスがそう多くあるわけでもないけれど、収録されている表題作のト短調ソナタは情感たっぷりで、いやがおうにも引き込まれる。うーん、素晴らしい。以前、アンドリュー・マンゼとかの無伴奏での演奏とか聴いたときには、個人的になんだか今ひとつ盛り上がらんなあ、という感じだったのだけれど(失礼)、それからすると今回はまるで違っている。このユニット、元はレイチェル・ポッジャーとかが91年に結成したアンサンブルだったそうで。なるほどね。ほかの収録曲もとてもいい。「知名度はより低いけれどむしろより非凡な成果」とライナーに謳う「捨てられたディドーネ」ことト短調ソナタ(Op.1 No.10)も、その言に違わぬパフォーマンス。ほかは、若かりし頃のタルティーニが圧倒されたほどのヴィルトゥオーゾだったというヴェラチーニのソナタ(参考という感じの収録)と、再びタルティーニにもどって、より「軽妙」とされるイ長調ソナタ(Op.1 No.13)など。ちょっとお薦めかもね。

The Devil’s Trill / Palladians [SACD Hybrid]