2007年01月05日

パースの宇宙論

昨年秋に出ていて注目していた伊藤邦武『パースの宇宙論』(岩波書店)をやっと通読する。パースの宇宙論の全体像を、そのテーマを扱った論文から再構成するという労作・力作。『連続性の哲学』がそうだったように、パースはとても晦渋だったけれど、同書は実にみごとに切りさばいてまとめ上げている感じだ。印象としては、なるほどパースの宇宙開闢論は、新プラトン主義の伝統のうちに息づいていた内容を、より近代的な数学理論と結びつけたものなんだなあ、と。偶然が法則性へと移行するプロセスの理論的考察こそきわめて近代的ながら、柱となる部分は、まさに中世以来の伝統の延長線上に位置している。最後の4章では、パースが普遍論争の議論を、ある意味蒸し返したことが示されていて興味深い。で、パースはスコトゥス流の「実在論」の立場に立ち、「縮減」概念(クザーヌスが「神の自己自身への引きこもり」と称したものだという)を通じた、イデア世界から現実世界の誕生を考えていたのだという(p.209)。西欧の知の歴史、というか、むしろそれを織りなす個々人の思想が、いかに息の長い体系の伝達の上にあるのかを、あらためて考えさせられる。

投稿者 Masaki : 23:23

2006年11月02日

ソフィスト

納富信留『ソフィストとは誰か?』(人文書院、2006)を読む。個人的にも、ソフィストというのは実は再評価されるべきなんじゃないかしら、と前から思っていたのだけれど、そのためのとても参考になる一冊。プラトンの著作でこれでもかという感じで攻撃されるソフィストだけれど、少なくともプラトンの批判が政治的なものであることは近年いろいろ指摘されてきた。とはいえソフィストと呼ばれた人々にまとまった著作が残っているわけでもなく、それだけに実像は霧の中という感じが強い。そんな状況の中、同書の著者は、プラトン以外の文献などを駆使しながら、時代状況の中のソフィストという存在に接近しようとしている。ソクラテスがソフィストとして裁かれていることや、プラトン以外のその弟子たちが、ソクラテスとソフィストとの対立図式を用いていないことなどを指摘したあと、プラトンに見られる対立点を整理しながら、ソフィストとされる人々の論点、とくに相対主義的な考え方を浮かび上がらせようとしている。余談ながら、この相対主義的なスタンスと、それに対立する形での絶対主義的なものとの関わりというのは、歴史的に繰り返されるある種のパターンとして、中世あたりについても再考してみたいところだったりする……。

同書の後半では、ゴルギアスとアルキダマスのテキストをもとに、彼らの言論技法の実際を細かく検討している。とくにゴルギアスの、『ないについて、あるいは自然について』というテキストとその検討はなかなかの傑作。そもそもこのテキスト自体がかなりの違和感を覚えさせるのだけれど、著者はそれを技法とのからみや、参照元となっているであろうパルメニデスの存在論やその継承者たちの議論との関係などから、そうした違和感について詳細に論じてくれている。ゴルギアスの論が、一応の対立項として立てられる哲学の側のパロディであるかもしれない、という論旨だ。うーん、存在論がらみの議論がそのように読めるというのがとても斬新。

投稿者 Masaki : 20:40

2006年10月03日

パース

新書館が出している季刊誌『大航海』(別冊ダンス・マガジン)No.60の特集はパース。変形文法のチョムスキーと政治批評のチョムスキーがときに同一人物ではないかのような誤解を受けたりするけれど、パースもまた、記号論のパースと、『連続性の哲学』などのパースとがイメージ的に分裂していたりする。なるほど、そのあたりの補正にも一役買いそうな特集、というわけだ。『謎への推量』というパースの論文草稿の翻訳もさることながら、毎号どちらがインタビューアーなのかわからなくなる(笑)三浦雅士氏の、パース研究者伊藤邦武氏へのインタビューが面白い。たとえばパースの場合のフォームとマター(形相と質料)は決して静的なものでなく、カオスの状態(質料)になにかがぶつかるそのぶつかり(形相)の関係にあるのだというくだり。ちょうど『ローマ帝政期のマニ教テキスト』(I.Gardner & S.Lieu, "Manichaen Texts from the Roman Empire", Cambridge Univ. Press, 2004)をちらちら見ていたら、リコポリスのアレクサンドロスのテキストに、アリストテレスとは違う質料形相論が見出されるという話が載っているのを眼にしたばかり。マニ教のコスモロジーでの質料は「無秩序な運動」のことなのだという。なんだかこれ、遠い残響をなしているようでとても興味深い。

投稿者 Masaki : 22:10

2006年05月18日

戦略的敗北?

日仏会館で、両国の宗教学者らによる講演会があったのだけれど、あいにく予定が立て込んでいて行き損ねた。現代におけるセクト問題など信仰の(悪しき)「復活」をめぐる討論、ということのようで、行けなくてちょっと残念だがまあ仕方ないか。文脈は違うけれど、ちょうど最近眼にしたラカンのインタビューのタイトルが「宗教の優位」("Le Triomphe de la Religion", Seuil, 2005)。1975年初出のインタビューだそうで、この中でラカンは、宗教は精神分析その他の優位に立つ、それは宗教が現実界の、たとえば生などに意味を付与するものだからだ、というようなことを語っている。うーん、これって、一種の敗北宣言(何に対して?宗教に対して?)のような感じでもあるけれど、実はその認識を突き詰めてなお現実界へのアクセスを探りうるかというような、戦略的敗北という感じでもある(悲壮な感じはまったくないし、開き直っているわけでもないし)。

ラカンなんか読むのはちょっと久しぶりなのだけれど、ちょうどつい先日、ほとんど手違いに近い形で入手してしまった中野昌弘『貨幣と精神』(ナカニシヤ書店)が、予想に反して(新たな貨幣論を期待して眼を通したわけだけれど)、ラカン理論を援用して「最初にXありき」(Xには贈与とか、構造とか、力とかいろいろなものが入る)みたいな論を総ざらい的に批判していくというもので、ちょっとしたシンクロを感じてしまった(ラカン理論の整理の部分なんかは、藤田博史氏あたりが90年代頭ごろに出していた著作を思い出したり)。こうした論も、やはりどこかであらかじめ戦略的敗北を宣言せざるをえないし、そのせいで常にある種の空疎感を抱え込まなくてはならないし。それを突き抜けていくなんて、並み大抵のことではないのだが……。

投稿者 Masaki : 23:11

2006年04月05日

落差

東京の桜はほぼ最盛期を過ぎつつあり、一部で葉桜という感じだけれど、東北以北はこれから順次開花シーズン。「桜の咲く頃1年生」というような定型句が当てはまらない北部地域では、子どものころから「中央と地方」みたいな落差を何となく感じ取って育つ。季節感の微妙なずれから、テレビ番組の違いまで、いろいろなところでそういう落差に直面する。私の出身県では、たとえば初期の「仮面ライダー」シリーズなんかは半年以上遅れて放映され、「仮面ライダー・アマゾン」はシリーズまるごとカットされた。当時、『冒険王』などの児童向け雑誌で東京での放映状況はわかったため、当然大きなギャップを感じるしかなかった……ま、それは受け入れるしかなく、そういうギャップを自分の中で埋めることから情報リテラシーの基礎みたいなものを身につけていく、という感じもないわけではなかったけれど。

昨晩のNHKで、美輪明宏が寺山修司の思い出を語っていくという番組をやっていた。なんだかありそうであまりなかった番組(笑)。しきりに訛りを気にしていたという寺山は、そういう落差を逆手にとって、あるいはスプリングボードとして、中央に反撃を加えることのできた達人のようにも思えてくる。落差が強いる生産性、みたいなものは敷衍できるのかしら、なんて考えたり。番組中、映画『田園に死す』の一部を流していたけれど、ラストシーンの晴れた日の乾いた田んぼの情景は、寒々しいながらも、東北地方的な春の心象風景を見事に切り出しているように思えなくもない……。

写真は先月31日の隅田川沿いのもの。結構寒かったぞと。
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投稿者 Masaki : 23:12

2006年04月02日

ギブソン

ちょっと思うところあって、ギブソン『生態学的視覚論』(古崎敬ほか訳、サイエンス社)に眼を通す。ご存じ「アフォーダンス」概念の生みの親、ギブソンの遺作。生物にとっての環境が様々な意味を「アフォード」してくるという、主観・客観の二分法を超越したその知覚論が、ここでは視覚・光学に特化する形で詳細に展開する。生物にとっての環境は物理的な環境ではなく、「面」で構成される生態学的環境だ、というのが基本スタンスで、その面を構成するのが抱囲光配列、さらにそうした配列構造を形作るのが物質と媒質の織りなしだというあたり、あれあれ、中世のロジャー・ベーコンあたりの光学理論に、結果としてどこか似ている(笑)。うーん、アフォーダンスの革新は50年代から60年代にかけて大枠が形作られたという話だけれど、やはりこのあたりまで、中世からのなんらかの思想の残響が響いている気がする。うーん、これ、現象としてはとても面白いよなあ。

そういえば、視覚論の歴史についての基本図書、デヴィッド・リンドバーグ『視覚の諸理論−−アル・キンディからケプラーまで』("Theories of Vision", The University of Chicago Press, 1976)を見ると、9世紀から10世紀にかけてバグダッドで活躍した医学者兼翻訳家のフナインあたりが、媒質としての空気に言及した嚆矢らしい。グロステストやロジャー・ベーコンにつながる、ガレノスの視覚光線の送出理論(extramission)とアリストテレスの送入理論(intromission)の折衷案の先駆、ということ。

投稿者 Masaki : 22:12

2006年03月11日

非類似の類似

NHKのBS2で昨日放映されたN響によるスクリャービン「プロメテウス」を録画で視る。2月の定期公演だったというこれ、「色光ピアノ」というスクリャービン本人が望んだ仕掛け(楽譜に指示があるんだとか)を取り入れたものとしては世界初演だということで、一部で話題だった。なるほど、オケの後方にしつらえたスクリーンに、抽象的な模様がライティングでもって映し出されるという趣向。スクリャービンはこれを、一種の瞑想体験として考案したという話だけれど、iTunesなどのサウンドイフェクトなどに慣れ親しんでいる現代人にとっては、それほど斬新なものではない……よなあ、やっぱり。

けれどもこういう抽象模様の瞑想性というものは、実は古くからある。なんと中世のころから。最近読んだディディ=ユベルマン『フラ・アンジェリコ−−神秘神学と絵画表現』(寺田光徳、平岡洋子訳、平凡社)は、ドミニコ会の神秘神学との連関でフラ・アンジェリコの絵画を読み込もうとする意欲作だけれど、議論の柱の一つがフィレンツェはサン・マルコ修道院の回廊にある「影の聖母」の下部に配置された、大理石風の抽象模様の解読だ。石の表象ということで『鉱物論』のアルベルトゥス・マグヌスや、非類似の類似という文脈から偽ディオニュシオス・アレオパギテスが召喚されたりする。議論は「場」(コーラ)そのものをめぐるものにまでなっていき、アルベルトゥス『魂について』などの質料形相論も援用される。うーん、お見事。絵画が瞑想的な思惟に踏み込んでいることを浮かび上がらせるために、論考もまた瞑想そのものに立ち会おうとするということか。

フラ・アンジェリコの有名な「受胎告知」の一つを掲げておこう。この列柱が形作るmの文字の形象や、さらにはそれが3つの区切りが三位一体を表していること、画面の外に押し出されているもう1つの柱の空間から、外面の右にいるマリアが実は列柱のまん中に座していることなど、イコノグラフィックな議論も同書には満載だ。

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投稿者 Masaki : 21:29

2006年03月01日

トマスの「教師論」

思うところあって、トマス・アクィナスの『教師論』を読み直してみる。テキストは"Uber den Lehrer - De magistro"(Felix Meiner Verlag, 1988)。『真理論』(Quaestiones disputatae de veritate)の問題11がそれで、同書ではあわせて『神学大全』第1部の問題117も併せて掲載している。教師論といいつつ、要するに知性がどう作用するかという話が展開するわけで、人間に内在する可能知性が、外部の能動知性の作用を受けて顕在化するというのが主軸。種子(semina)の形で与えられている知性、すなわち原初の知的な概念作用(conceptio)が、能動知性の「光」を受けて、感覚を捨象した像(species)を認識する、というもの。この一種の内在論は、中世を越えて根強く継承されていくわけだけれど、おそらくこの能動知性の話が後退していくところに、近世以降の科学の台頭がある……んだろうなあ。ちょっとそのあたり、ちゃんと跡づけていく必要があるかもね。能動知性の後退……ってテーマ的に面白いかも。

Webcamシリーズ。昨年12月上旬のパレルモ。ああ、地中海(笑)。
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投稿者 Masaki : 23:25

2006年02月21日

エックハルトの「光」

いつもながら興味深いblog「ヘルモゲネスを探して」は、1月から2月の一連のアーティクルでガンのヘンリクス(13世紀を代表する思想家の一人)による照明論を取り上げていた。ヘンリクスに限らず、この時代の光の比喩(というか、実際にはそれ以上のものなのだけれど)は、認識論と存在論との微妙な錯綜を浮かび上がらせていて面白い。トマスなどは認識論的に読めるので、はるかにわかりやすいけれど、対照的にエックハルトあたりになると、かなり存在論の方にシフトしている感じで、いろいろ意外な記述に出会ったりとか。両者の中間あたりにガンのヘンリクスが来るのかしら(そういう中間のものこそが、案外一番わかりにくく、そして一番刺激的だったりする。そのうち当たってみたいところだ)。ちょうど最近、昨年ネット経由で海外の古本屋から入手した『ヨハネ福音書注解』の分冊(本文のごく一部だ)を眺めていたところなのだけれど、そこでは光は単なる能動知性の枠を越えて、形相=生命=知性(さらには存在)という連鎖を次々に表していくもののよう。照らされて浮かび上がるスペキエス(プログラミング用語的にいうと、クラスに対するインスタンスだ(笑))も、認識論と存在論の間を揺れ動いている感じ。

それにしても上の『注解』の分冊、戦前の印刷物だけれど、まさに中世の学生たちが手にとっていた形式。昔はこういう流通があったのだなあ、と。分冊をすべて集めて自分で製本していたわけだ。うーん、今現在、全部集めるのは難しそうだが……。それにしても書籍のそういう売り方、復活してほしいような気もする。

投稿者 Masaki : 17:03

2006年01月02日

ソクラテスと中世

プロクロスなどを読んでいると、当然ながら随所でプラトンの著作に言及されるわけだけれど、ソクラテスの名前は出ても、それはあくまでプラトンのテキストの中の登場人物程度の扱いでしかなく、いわば思想としてのソクラテスは「不在」だ。この不在ぶりと、後世のソクラテス評価というのは実に対照的。どうしてこんなことになっているのかと前から疑問だったのだけれど、この年末年始、納富信留『哲学者の誕生−−ソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書)を見てみた。ここには、あらためてソクラテスの受容の問題が少しばかりクローズアップされている。日本でキャッチフレーズ的に教えられている「無知の知」なんてのは、実はソクラテスの発言には登場しない。アリストテレスとキケロのフィルターを経て、さらにはクザーヌスにいたる否定神学の流れと出会って「知ある不知」という概念ができあがり、これが近代にまで受け継がれ、ドイツ経由で日本に入ってくるという紆余曲折を経ているのだという。うーん、なるほど、否定神学的なものの見方は意外なところにも影響力を及ぼしているらしい。まさしくこれは中世の思想史の問題。ソクラテスの神格化のプロセスというのも面白そうな問題領域だ。そういえば余談だけれど、『パイドン』の中でソクラテスが語る「魂の不死」の思想(それ自体はプラトンのものとされるけれど)が、ピュタゴラス派の思想を反映しているのではないか、という話もある。それも遡ればオリエントの死生観に至る、という話。このあたりももう少し詳しく押さえてみたいところではある……。

投稿者 Masaki : 19:50

2005年12月20日

イスター

昨日は、ベルナール・スティグレール来日公演の一環として日仏会館で行われた映画『イスター』の上映に。うん、これは見応えがある。イスターはドナウ河の古名で、ヘルダーリンが詠んだその賛歌をハイデガーが1942年に解釈したことをめぐって、映画はドナウ河を遡る形で、スティグレールの技術哲学を下流とし、ジャン=リュック・ナンシーの政治哲学、ラクー=ラバルトのハイデガー解釈を経て、ヒトラーをテーマに映画を撮ったジーバーベルクの「詩と歴史の問題」という上流にまでいたる、ある種壮大な叙事詩をなそうとしている。スティグレールの話は、主著『技術と時間』第1巻の(を中心とした)エッセンスの要約になっている。また、フッサールと決別したハイデガーが、ヘルダーリンへと向かった根底には、個人に限定されない「歴史的過去」の認識があり、そしてそれは技術によって可能な過去なのだとスティグレールはいう。なるほど、技術哲学から詩的へ、ね。そういえば、ドイツ語では技術的なものはみなGe-という接頭辞がつく、という話が、加藤尚武編『ハイデガーの技術論』(理想社)なんかにも載っているけれど、ドイツ語で詩はGedichtというのだった。けれどもその川にはもう詩的な力がない、と最後の方でジーバーベルクが嘆いてみせるのが印象的だ。

それにしても映画の中で語られる個々の議論は、なるほど大局的にみると面白い図式だったりもするけれど、よく考えると問題をはらんでいそうな文言だったりもする。たとえばスティグレールは、エピステーメーとテクネーの分離・対立をプラトン以来とし、その再統合が19世紀の産業時代を特徴づけているとしているけれど、それはあくまで表面の島嶼の話で、たとえば中世以降に魔術的なものとして現れる動きは、島嶼を取り巻く統合的な流れの一端、という気がする。西欧がそういう流れもひっくるめて過去を継承しているという意味では、「技術の申し子という意味で、西欧人も日本人ももとをただせばギリシア人なのだ」(笑)というような放言は、やはりそう簡単にはいえないよなあ、と(哲学者に限らず、フランス人の放言はえてしてとても図式的・捨象的なので注意しないと)。同じような過剰な図式化は、ナンシーの「前12世紀から前8世紀に、ミュトスにロゴスが取って代わった」という文言にも感じられたり。

上映後に行われた討論会は、少し散漫な感じ。パネリストをそんなに多くしなくても(身内の関係者にひととおり声をかけないと失礼だ、みたいなのが彼ら「インテレクチュアル=大学人」の間にはあるらしいけど(笑))、ダイアローグぐらいの方がもっと面白かったのでは、という気がしたし、あるいはフランス語プロパーじゃないパネリストなら(ギリシア哲学の関係者とか)さらに面白い議論になりそうな気も(それはちょっと無理か)。

投稿者 Masaki : 11:17

2005年12月06日

多神教的世界

この間ひさびさに会食の席での通訳仕事があった。フランスから来た客人を日本側がもてなすわけなのだが、懐石料理の素材について、あらためてこちらの語彙の貧困さを思い知る(苦笑)。ま、それはともかく。その客人はオフの日程を利用して浅草界隈に行ってきたとかいう話で、寺でお香をたぐりよせる仕草や、神社で鐘をならして手を打つ仕草、さらにはおみくじなどを面白いと感じたのだという。あまりに日本人は信心深いみたいな感想を言うので、「信じていなくても、その場にいったらそういう身振りをするという人は結構多い」みたいなことを言ったら、えらく怪訝そうな顔をしていた。一方で公の場にクリスマスツリーが飾られているのも、解せないのだという。「日本は何でもあり」みたいなことをホスト側が言うものだから、相手は苦笑するばかり。うーん、文化的なものを説明するのはムズカシイ。

でも考えてみると、日本の土着信仰や、その上に立っているオフィシャルな宗教とのつきあい方というのは、案外古代ギリシア世界あたりの「信仰」状況とパラレルなのかもしれない。ヨーロッパも根っ子をたどれば多神教的なものに行き着くわけで。そんなことを改めて思わせてくれるのが、木村凌二『多神教と一神教』(岩波新書)。地中海文化圏の神々を広範にたどっていくという入門書で、とても好感がもてる。多神教から一神教への移行に絡んでくるとされる文字の成立や民族の記憶などは、ちょっとドブレのメディオロジーっぽい話でもあるし。いずれにしても、日本文化をエキゾチックに見る好奇の目には、こういう話を返してあげるのがよいのかもね。

写真はWebcamではなく携帯のもの。11月某日の代々木公園
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投稿者 Masaki : 19:35

2005年10月18日

分解能

先日のこと。朝、駅の付近で二人連れのオッサンたちが話ながら歩いてきて、よそ見をしていた一人が駐車してあった自転車にけつまづき、バランスを失って倒れてしまった。その倒れ方が、実にゆっくりと余裕のある倒れ方で、まるで転び位置を確かめるかのように崩れていった。ソフトランディング。当然、怪我もない。この場面に偶然居合わせたのだけれど、なんだかその身のこなし方にちょっと感動した(笑)。たしか内田樹あたりがいっていたと思うのだけれど、身体の動きを連続写真的にイメージ上で分解することによって、突発事にしなやかに対応できるという一種の身体技法があるのだという。有名なアキレスと亀のパラドックスなども、亀の側から見た「追い越される」ダメージの軽減技法のように読めなくもない(笑)。古代から、そういう分解能的な発想というのは結構いろいろありそうだ。このところ考えているのだけれど、新プラトン主義のコスモロジーとか、あるいは偽ディオニュシオス・アレオパギタの神秘神学とか、世界の分節(階層)とその遡及プロセスを考えているあたり、どこかそういう分解写真的な発想が核心にあるように見えなくもない。うーん、これって面白い問題かも。

それにしてもスピードと変革ばかりが強調される昨今の世の中において、こういう分解的な身の処し方というのはとても重要なんでないの、という感じもある。ぐずぐずすること、スローであることをもういっぺん見直してもいいかなと。一般に、性急で荒っぽいハードランディングよりは、微細で穏やかなソフトランディングの方がよいわけで……分解能って、いかにイメージを豊かさに保ってくかという話だよなあ、と。

投稿者 Masaki : 21:41

2005年09月23日

ムスリムの翻訳運動

12、13世紀の西欧中世を理解する上で、イスラム世界で8世紀以来綿々と続けられいたギリシア文献の翻訳運動はやはり重要。少し前にさる方から教えていただいた、ダンコーナ=コスタ『知恵の館』("La Casa della sapienza", Guerini e Associati, 1996)を読み始めようと思っているところなのだけれど(ギリシア文献の翻訳とアラブ哲学の形成を論じている一冊)、その前哨戦的に、イベリア半島の文化史を扱ったマリア・ロサ・メノカル『寛容の文化』(足立孝訳、名古屋大学出版会)がなかなか面白い。アラビア化していたかつてのイベリア半島では、ユダヤ人やキリスト教徒との豊かな共存環境が整っていて、それだけに言語的な交流もさかんで、文献の翻訳などが広く進んでいた……アンダルスはそれ以前のバグダッドでの動きを継承していく。それが後の西欧の文化面を下支えしていくわけなのだけれど、著者はそうしたギリシア文献の翻訳運動を、イスラム世界に内在した「本質的に創造的な自由の一部」(p.218)だったと述べている。翻訳が盛んになされる環境というのは、やはり開かれた自由な空気をともなっていなければならない気がする。社会が閉塞すれば、翻訳に代表されるような異文化の取り込みなども窒息してしまうのかも。同書はそのあたりの陰りの部分にも一定の目配せをしているところが心憎い。あれ、翻って現代のこの国はどうなんだろう。右傾化が進み、出る本はどれも国内の著者のものばかりになっていくとしたら、そりゃちょっとまずいよなあ……。

投稿者 Masaki : 23:28

2005年08月20日

内在と外的要因と

CNETに掲載の「音楽鑑賞力は生まれつきか?」という記事もそうだけれど(これはMITの学生による調査の話だ)、文化的な差異は認めつつも、生物学的共通基盤の部分の範囲の確定をしようという動きが米国あたりを中心に拡がってきている。言語などについても、例えば今月号の『Software Design』誌(技術評論社)のバート・アイゼンバーグの記事(拙訳)では、DNAの標識でもって太古の人類学的な移住径路を調査しようというプロジェクトが紹介されているのだけれど、そこで「言語的差異と遺伝子的差異」に相関関係があるのかないのか、といった問題が人類学的問題の一つとして示唆されたりしている。確かに興味深い話ではあるけれど、ここでふと感じるのは、文化的差異にいちおうの目配せをしている、という文言が、本当にあくまで「いちおう」になってしまうんじゃないかという懸念。どこまでが「共通」なのかという問題の立て方は、「人類は皆同じ」、と一見文化的差異を許容するかに見えて、その実、「差異なんて些末な問題なのだから、ある文化が別の文化を駆逐したりしたところで、さしたる問題ではない」といったふうな、論点先取り的なスタンスが背景に見え隠れしてる感じがしなくもない。上のMIT学生の例でも、初期調査が北米ユーザに限定されていることが問題点として指摘されているが、なんだかグローバル化(=アメリカ化による均一化)を背景として文化的差異を軽んじていく面をも合わせもっていそうで……。

そういえば、少し前に人から聞いたパスカル・ボワイエ(英語読みならパスカル・ボイヤーかな)の『そして人は神々を創った』("Et l'homme créa les diex", Gallimard, folio essais, 2003)をこのところ読んでいるのだけれど(これ、フランス語版がオリジナルじゃないみたい。文体が翻訳調だし。それに聞いていたほどにはあんまり専門的な生物学本じゃない。一般向け。ちなみに英語版は"Religion Explained - The Evolutionary Origins of Religious Thought")、「宗教が何で生まれたか」という理由付けがどれも嘘っぽいという批判は面白いのだけれど、「宗教を構成する表象のうちどれが生き残るのかというダーウィン的なアプローチ」を取ってからは、なんだか昔のエドガール・モランの図式くさい話とか、一部の物語分析みたいな話に入っていく。つい「差異のダイナミズムはどうなるわけ?」と問いたくなってしまうのだが……。ボワイエはフランス人らしいのだけれど、現在はワシントン大学で教鞭を執っているという。うーん、米国的な学問的ヘゲモニーと戦ったりはしないのかしら?ま、読了後にあらためてコメントすることにしよう。

投稿者 Masaki : 16:16

2005年07月16日

可塑性概念

カトリーヌ・マラブー『私たちの脳をどうするか』(桑田・増田訳、春秋社)を読む(ちょうど最近行われた来日公演は、ちょっと忙しくて行けなかったが)。前に取り上げたヴァレラほかの『身体化された心』は、経験としての認知と科学的記述との埋めがたい溝をどうするかというテーマを、仏教思想をヒントにして乗り越えようという試みだった。そこで描かれたのは、確たる自己もない単なる複合的なプロセスの行き交う場でしかない場から、そのプロセスの行為によって世界が立ち上がるという「徹底した唯物論」だったのだけれど、こちらのマラブーの立場は、なんだかちょうどその溝で待ちかまえている「中間レベル表象」(ジャッケンドッフ)に絡め取られたもののように思えてしまう。問い直すべきは表象ではないのでは……と思ったりもするのだけれど、マラブーは執拗に表象にこだわり続ける。その結果、ニューロンのネットワークと企業のネットワークがちょっと短絡的な感じで結びつけられたりとかする。ミンスキーなどのエージェント概念が認知アーキテクチャの抽象化されたモデルだったのに比べると、かなり荒っぽい感じなんだけど……。アラン・レネの映画の映像の断片性が脳の力の忠実なイメージだ、なんて簡単に言っていいのかしら?

とはいえ、生物学的なものの専横に政治的な意図が結びつくような昨今の状況(マラブーが指摘するように、柔軟性の名のもとに、外部から新しい制度や規制が加えられ、それに抵抗しない者が心理的不整合を起こしてしまうような新手の暴力とか)に、脳の問題からアプローチし直そうという姿勢自体は興味深い。そう、哲学や思想史の側も、生物学を語っていいし、語らないといけない時代なのだ。素人だからってただ言いなりにはなっていてよいわけがない。ヴァレラの本は仏教思想をヒントとして持ち出してくるけれど、西欧においても、その古代や中世のアニマとかヌースとかモナドとかの再考をそのあたりに再接合できるのでは、という気もする。そういえば『現代思想』の7月号でも、脳科学者の茂木健一郎が「生物学の概念をそちら[アニマ概念など]に置き換える方が、思考のフレームワークを広げる方に相当する」のではないか、と語っている。マラブーの可塑性はヘーゲルから取ってきた概念だというけれど(Plastizitätとかかな?)、これだって形相概念が遠くに響いているわけで。中世思想はこれからいっそうアクチャルかもしれない、なんてね。

投稿者 Masaki : 22:17

2005年05月26日

「永久」の担保

思うところあって、このところ読んでいたアレクサンドリアのフィロン(ピロン)による『世界の不滅について』(希仏対訳本:"De aeternitate mundi", cerf, 1969)。フィロンといえば、キリストとほぼ同時代に活躍したユダヤ教系の思想家で、プラトン主義の先駆的な存在とされる人物。この『世界の不滅』については、プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の『創世記』の記述をつき合わせて、世界が創造されたものであるにせよ、なにゆえに不滅であると考えられるか、ということについて論じている。滅する因には外的・内的な因があるものの、「世界」にはどちらも当てはまらない(世界には外部はないし、内的な要素の組み替えの契機もない)というのがメインストーリーだ。不滅でないとすると、そもそも神との契約そのものの信用が成り立たなくなるというようなことを、フィロンは考えている節があって(?)、なにかそのあたりの切迫感のようなものが興味深い(これはちょっと穿った見方かもしれないけれどね)。期限が切られない、あるいは「永久」といった言葉で示されるような契約関係においては、一度その契約関係が取り交わされてしまうと、その部分をいじることは、当然契約そのものの信用性、持続性を損なう可能性が出てくる。だからこそフィロンがここで論理をかざして問うのは、世界の起源ではなくて、その「終わりのなさ」の担保であるように思える。

余談ながら、これでちょっと思い出すのは最近改憲論とかさかんに言われている日本国憲法。これにも「永久」の語が3度も使われている(戦争放棄の9条、基本的人権の11条、憲法による基本的人権の保障を説いた97条)。仮に改憲するとして、このあたりの文言がどうなるのかは、もしかすると国民的な契約の根源にかかわる問題になったりするんじゃないだろか。「永久」と言ってはみたものの、結局改訂するまでの「永久」でしかありませんでした、などということになったら、二度とその文言は信用されないわけで。そこで謳われている理念が、あるいは契約関係そのものが、総崩れしてしまうことにもなりかねないかも……と。

投稿者 Masaki : 16:18

2005年05月05日

顔の現象学へ?

最近、DVDで出ていた『緋牡丹博徒・お竜参上』(加藤泰監督作品、1970)をレンタルで看た。浅草の一家が仕切る演芸場を別の一家が乗っ取ろうとする、というのがストーリーの基本線で、なんだか先のフジテレビVSライブドアを彷彿とさせる(笑)。映画では、乗っ取りをかけるほうの親玉は例によって悪人面で、勧善懲悪のパターンが踏襲されている(両方やくざなんだから、本当なら勧善懲悪なわけないのだけれど)。フジテレビあたりもこういうストーリーを演出したかったのだろうけれど、そう出来なかった一つの理由は、映画と違い登場人物の人相がどれもこれも「善玉」っぽくなかったせいじゃないか、という気もしなくない。うーん、こうしてみると、「人相」または「顔」の現象学的考察なんて話が改めて気になってきたり。

説話的なパターン認識を崩してしまうほどに、人相ないし顔というものはあいまいなもの、分類や理解をはねつけるものだ。境界線上の曖昧なものは恐怖を誘い、人はそれをアブジェクトしたがる……ってなところから例によって始まるクリステヴァの『斬首の光景』(星埜・塚本訳、みすず書房)は、そうはいっても、メドゥーサの恐怖を一方に、そしてイコンの聖性をもう一方の側に見据えながら、そうしたものの恐れや畏怖を和らげ塗り固めていくフィギュール(表徴)へと足を踏み入れていった西欧のイメージの歴史を、辿り直すという面白い一冊。頭部への両義的なこだわりというのは、「オイディプス期前の母親への恐怖」(いかにもクライン派っぽいが(笑))の文脈でなくとも、いわば全体的な自己認識にぽっかりあいた穴を、別の代償で埋めようとするもののように思える。何しろ自分の顔を見えないために、あえて他者の顔に自己投影をしようとか(そんでもってそれを次々に切り替えていく)、さらには超越的な視線を仮構しようとしたりとかする……ある意味でそれは、聖なるものへも通じる空虚かな、と。先に挙げた野家啓一『物語の哲学』で紹介されていたエルンスト・マッハの自画像(ソファに足を伸ばした自分を自分が見たままに描いた図で、当然頭や顔は見えない)などが、とりわけそういうことを考えさせたり……。

投稿者 Masaki : 08:17

2005年04月10日

「情報」

ほとんどイリイチの「視覚の過去とまなざしの倫理」の邦訳が読みたくて、だいぶ前に購入していた『季刊・環』vol.20(藤原書店)。改めて他の特集記事を読んでみた。特集は「『情報』とは何か」。「情報」も、先の「空の言語学」での話と同様、その定義自体が問題になる多義的なターム。定義づけをしてから論じるのか、それとも定義づけのプロセスそのものを論じるのか……といった話は悩ましそうだが、この特集で個人的に面白かったのは、むしろ歴史的な話を情報という切り口で取り上げた二編だったりする(笑)。アンデス文明の話を紹介する大貫良夫「先史文化と情報」、日本の駅伝とのろしについてのノートである平川南「古代日本社会における『情報』伝達」。近代以前の、ブリコラージュ的(間に合わせ的)ながらそれでいてきちんと組織される「伝達」のあり方は、もっと再認識されていいんじゃないかな、と常々思う。清水克雄「『情報社会』の何が問題なのか」は、ハロルド・イニス(マクルーハンをすべて含んでいたと言われる)を引きながら、空間の支配に成功しても時間の持続を犠牲にした文明に、果たして未来はあるのか、と問うている。むー、やはりこの先に進むためには、創造的後退が必須なのかもなあ、と。

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(東京中野・哲学堂公園、4月8日)

投稿者 Masaki : 19:19

2005年01月07日

弔い……

スマトラ沖地震の被害に対して、国際的な人道支援もまた史上最大規模になるという。こうした人の生き死にについて、いつもながら欧州の反応の素早さや規模には本当に頭が下がる。もちろん過去の植民地支配などの経緯があるからだと言ってしまえばそれまでだけれど、そうした部分も含めて、欧州はやはり「弔い」に敏感なのではないかと思う。最近読んだ内田樹『死と身体』(医学書院)の最後では、20世紀のヨーロッパの思想的課題には、大戦による死者をどう弔うかという問題があったと指摘していた。大戦はヨーロッパが起こしたものであるからには、その結果の責任を引き受けるのはヨーロッパの仕事であると考えているのは理解できるが、あるいは彼らはそこから敷衍して、今や世界的な民族紛争も、下手をすると自然災害すら、自分たちに責任の一端があると考えるのかもしれない。少なくとも「構え」が出来ているのだろう。それはアメリカなどとも違う「構え」だ。一方、同じアジアにありながら「対岸の火事」的などこぞの国はなんとも情けない。そこではまるで、死者は型どおりの手続きで葬りさえすれば、それで問題なく弔ったことになると考えているかのようだ。復興会議に参加する首相も、災害現場の視察もなし。後追いで金だけだせばいいというのか……。生き死にへの感覚の鈍りは最も危険な徴候だ。

それにしてもこの『死と身体』、講演をまとめた書籍のようだけれど、身体感覚や時間意識の問題など、共感できる部分が少なくない。楽器を師匠について習うようになって、自分のような初級者と兄・姉弟子などを含めた上級者の差異として、その身体的制御の細やかさの違いを強く感じていたのだけれど、武道家でもある著者は、それを「プロセスの割り方」という風に表現している。師匠から弟子への「教え」が実は構造的に織り込まれた関係性であるという部分も、妙に納得(笑)。

投稿者 Masaki : 23:45

2004年12月18日

内破の鍵

拉致被害者のものとされた遺骨の鑑定結果に、北朝鮮が「認められない」とのコメントを出したそうだが、日本側からすればお門違いともいうべきそのコメントが一見寒々しいのは、科学的調査をも政治的イデオロギーと一緒くたに見て、相反する主張はすべてレトリック・解釈の問題にしてしまえばいいというどこか安直な対応と、「自分たちがやっていることは他国もやっているはずだ」という北朝鮮側の不信感を、改めて見せつけるからだろう。なるほど、不信感を抱いているのは彼らの方なのだ、ということがよくわかる。その障壁がなくならないのでは、問題は解決に向かっていきようがないのだけれど、と同時に、あるいは彼ら自身のイデオロギーの内破は、案外そういう不信感の表面化、客観化によって崩れていったりするんじゃないかしら、と思ったりもする。表面化は揺さぶりだからだ。

上の寒々しさの二つのポイントは、実は一般的な歴史認識の問題にもよく似ている。歴史とは歴史として書かれる「物語」のことにすぎないのかという話と、現代人が捉える歴史はその現代人の感性によるバイアスを逃れられないのかという話がそれで、どちらも乗り越えるべきアポリアであるのは確か。例えば、邦訳が長らく品切れで最近になって復刊したポール・リクール『時間と物語』第1巻("Temps et récit", Seuil - Points, 1983)では、その中ごろで、レイモン・アロンやマルーによる歴史批判(歴史家の視点や問いが歴史記述を作り上げるという構築主義的考え方)や、アナール派の実証主義批判などが再検討されている。そこから浮かび上がってくるのは、歴史と物語(語り)が同一視されるような場合において問われなければならないのは、その語りがどういうものであるかという問題だということ。そのあたりの自己内省的な構えがあってはじめて、そうしたスタンスはしなやかな歴史認識に開かれうる。凝り固まっているイデオロギーも同じこと。それを開いていく鍵は内的なものだろうけれど、きっかけは外からでも与えられるんじゃないかな、と。

投稿者 Masaki : 22:02

2004年10月26日

暴力論?

新潟中越地震の波が関東に押し寄せる直前、レンタルビデオの返却が迫っていた『リリィ・シュシュのすべて』(岩井俊二監督作品、2001)を観ていた。これ、かなりキワモノの暴力映画(ネットとかで検索しても完全に評価が二分されているみたい)。舞台となっているのは栃木県らしい(現実の栃木県は地域ネットワークが緻密で、少年たちがやり放題というのはありえない、という話だが)が、雰囲気はゲットー化した東京の郊外という風。その中で繰り広げられる中学生たちの犯罪行為の数々。ロングショットと淡い光線、カメラの手ぶれなどを多用することによって、少年らの表情はひたすら排され、それだけにいっそう犯罪行為の無目的性が浮き彫りになる。昔の不良少年たちのような体制への反撃という目的もなく、他人がもつ異質な部分をひたすら否定しようとして暴力行為が繰り返される。

ここで描かれているのはまさに、マジョリティ(を自認する側)がマイノリティを敵視するという構造のミクロ版。この構造については、例えば酒井隆史『暴力の哲学』(河出書房新社)ではロドニー・キングの事件の絡みで取り上げ、人種差別の構造として論じていたりするけれど、人種差別などに収斂していかない「いじめ」などであっても、同書が示唆する「境界の不安」(自分の領域が侵される不安)がそうした暴力を下支えしていることは十分に窺える。クラスのような小さな集団であっても、その集団の均質性を脅かすものは攻撃対象になり、一方、もともとその集団から突出して均質性を破っているはずのボスは、自分が均質性を破っていることを見えなくするため、均質性のほころびを他の対象に転嫁し恐怖政治を定着させる。うーん、問題なのは均質性、というか均質幻想の一般化か。バラバラな個が、不安をともなう孤独を是認できない場合、一番手っ取り早い解消法は「皆同じ」と無理にでも言って群れること。それは同時に異質なものの暴力的な排除を抱え込んでしまう……。

中学といえば、昔は教室で集団行動を学ぶという目的で「班」を作らされたものだが、ある意味でそうした下位ユニットが、様々な異質なものを混在させ性急な均質化を食い止める調整役を果たしていた気がする。この別のユニット、別の組織化というのは、より大きな問題についても(例えば上の人種差別のようなものについても)有効でありえるだろうか?どういう形で、何を根拠に別の組織化ができるだろうか?……こうしてみると、いろいろ考えることが出てくるかも。

投稿者 Masaki : 23:12

2004年10月11日

制度的希釈化……

巨星逝く……。さすがにフランス各紙は大きく取り上げていたデリダ死去のニュース。当然、これからしばらくは様々にオマージュが捧げられるだろう。特に日本では、弟子筋って感じで書きたい人も多いだろうし。11日付けのLiberation紙は、1面からデリダの写真。現代思想系の書き手ロベール・マッジョーリの追悼文など、いくつかのオマージュを掲載している。マッジョーリのそれは、その生涯を大まかに振り返りながら、制度や機構には到底回収しきれないその屹立したスタンスをまとめ上げている。

それを読んでみても改めて思うのだけれど、デリダのような人物の輩出は、逆説的ながら、そうした突出ぶりが一種の対立項として浮かび上がるような、厳粛な制度的伝統があってはじめて成立するように思える。デリダ以後の世代に、これぞといった特異な人物がさほど見当たらないのは、一つにはそうした制度の側が対外的に開かれ、全体として徐々に緩んで行かざるをえなかったせいかもしれないなあ、と(フランスも80年代以降、学生数の増加や改革の施行でずいぶん様変わりしたという)。もちろん開かれた学問的制度はある種の理想。ただしそれは全体的な希釈化・縮小化が伴うのではないという条件つきだ。前回のアーティクルで取り上げたオンフレは「哲学の教師がいなくなっても、哲学の営みそのものには何の影響もない」と楽観視しているが、社会集団的な面から考えると、そうもいっていられないかも。拡大再生産か、縮小再生産かを決定づける上で、そうした媒介役(この場合は教師か)の役割は重大だ。ん?対する日本は……そりゃ、言わずもがなってものでんがな。

投稿者 Masaki : 23:38

2004年09月15日

モナド……

このところ、中世もののテキストで何度かモナドの話に出くわし、かなり気になっている。Scriptorium 2で読んでいるサン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン』もそうなら、エックハルトの説教(アンソロジーものをちびちび読んでいるのだけれど)、世界を映し出す鏡といった比喩などで登場する。神を意味する一者とそれに準じる魂との関連という話には生成論的な部分などもあって、なかなかに興味深いものではある。直接的な関連はあまりないが、少し前に清水高志『セール、創造のモナド』(冬弓舎)をずらずらっと読んだのだけれど、それによるとミシェル・セールのライプニッツ解釈(あの分厚い本、昔途中で放りだしてしまったっけ(苦笑))は、「神によって選ばれた世界は可能性の最大量となるような世界である」という命題の「最大量」を、アルゴリズム的な組み合わせの最大量として理解しているのだという。うーん、そうした解釈の是非については言うべき言葉をもたないけれど、いずれにしてもモナド概念の究極の到達点がライプニッツだとすれば、思想史的にはそこにいたるまでの概念の変遷というか、いろいろな流れが気になるところだ。それはまさにセリーですな(笑)。

投稿者 Masaki : 23:17

2004年08月26日

倫理の要?

オスロの美術館から盗まれたというムンクの『叫び』。このところ仕事の合間に読んでいる今道友信『ダンテ「神曲」講義』(みすず書房)に、ムンクの『叫び』がこの世の地獄を描いたものだという解釈もあるという話がちらっと紹介されていた。同書では、地獄という概念が教育的・倫理的な拠り所となっていたことが再三示されている(仏教の場合の地獄観は相当違うとはいえ、寺山修司じゃないけれど、昔は例えば地方の寺なんかにも地獄絵図はあって、子ども心に結構異様なものを感じ取っていたものだ)。現代においては、地獄はもはや誰も信じなくなったわけだけれど、その地獄に変わる教育的・倫理的な拠り所の概念が必要だと、これまた再三説いている。うーん、なんらかの恐怖がなければそもそも倫理は築けないのか、という問題もある。考えようによっては、かつての恐怖は不安という形で薄まりつつ一般化してしまったのかもしれない、と。現代世界そのものの袋小路ぶりがまさにその薄まって広まった恐怖かも。このところの石油価格の高騰なんかも、じわじわと言いしれぬ不安を高めたり……。そんな薄く伸びた不安から、倫理の芽をもたげさせるにはどうすりゃいいのかしら。ムンクの『叫び』が地獄絵なのかどうかはともかく、美術品の窃盗のそもそも背景をなしている資本主義の暴政こそ、地獄絵をなしてたりとか……。

投稿者 Masaki : 01:04

2004年07月24日

映画と哲学

去る5月に日仏学院で詩人で映画監督のピエール・アルフェリと女優のジャンヌ・バリバールのティーチインがあったそうだ(行けなかったのだけれど)。アルフェリはデリダの息子だしバリバールもまたエティエンヌ・バリバールの娘。ドゥルーズの娘(エミリ・ドゥルーズ)以来、フランスの哲学者の子どもたちは映画を目指すのかしらん?そういえばランシエールなんかも『カイエ・デュ・シネマ』に寄稿しているし、スティグレールも大著『哲学と時間』の第3巻は副題が「映画の時間」(2001年刊。未読だけれどね)。皆こぞって映画を問題にしている感じがある。これはどういう動きなんだろうか?当然、一つには現象学への回帰みたいなものがあるのだろうけれど……。日本でも最近では、映画関係者や美術・建築関係者(学生も含めて)が思想書の購買層に占める割合は高いそうだから、知的な生産の舞台もやはり変わりつつあるんだろうなあ。

最近ようやくスティグレールの『象徴的貧困について』第1巻("De la misère symbolique", Galilée, 2004)に目を通したのだけれど、これでも盛んに自著の「映画の時間」に言及している。2巻本だそうで、2巻目は今年秋の刊行らしいが、これなども現象学的な問題を扱おうとしているようにも見える。特に「感覚器官の組織学」という意味で美学を考え直そうとしているところ。これはかなり面白そうな問題だけれど、1巻目では詳しく取り上げられていない(2巻目に期待)。

この本で言及されるアラン・レネの『恋するシャンソン』(On connaît la chanson)も、ベルトラン・ボテロの『ティレジア』(これも去る1月に日仏学院で上映会+トークショーがあったらしい)も、個人的には見ていないのがちょっと不甲斐ないか。そういえばスティグレールはIRCAM(現代音楽・音響研究所)の所長になってたんだっけ。音楽については論じないの?ちなみにレヴィナスの息子ミシェル・レヴィナスも作曲家・演奏家だ(これまた未聴だが(笑))。

(補足):
上のスティグレール本、1巻目の主眼はシモンドンの個体化論を検討し直そうとしている部分かしらん。そもそもシモンドンの個体化論では、かなり大雑把にいえば、受容体(レセプター)に応力のようなもの(情報)がかかることによって、あるシェーマ(形)、つまり周りよりもエネルギーが高い状態ができることを一般的に個体化といっていて("L'individuation psychique et collective", Editions Aubier, 1989、を参照。アリストレテス流の質料と形相に通じるものがあるぞ)、人間個人や社会までをも包括する理論が模索されていたんだっけ。その意味では、スティグレールがあえて主体(私、われわれ)の話だけに限定してしまっているのに対して、当のシモンドンの論の射程はもっと長い気がする。確かに、そうした応力をめぐる(環境も含めた)質的・量的変化が個体化にどういう影響を与えるか見ていこうというのなら刺激的だけど、この本ではgrammatisation(文法化?)なんていう概念を出してきて、余計に話を複雑にしているような気も……(笑)。うーん、ちょっと全体図が見えにくい。繰り返し言われる「原初的ナルシシズムの破綻」と「現代人の不満(mal-être)」の詳細についても……やはり2巻目ってか。このあたりの問題もまたすこぶる現象学的。

投稿者 Masaki : 20:19

2004年07月19日

資本主義の猛威

絵柄が生理的にダメという人は除き、いろんな人が褒めていた岡崎京子のコミック『ヘルタースケルター』(祥伝社)をようやく読むことができた。連載は95年から96年、作者の交通事故のため単行本化は初版が2003年で今や8刷になっている。うーん、この底知れぬ迫力、ただものではない。資本主義の行き着く先は、こうした模倣の欲望と一種の自己喪失と騒乱だということか。日本は一度、その終末的な状況に足をかけていたことがあったっけなあ。いわゆるバブル期だ。この作品も、そういう意味では、今の時代というよりもバブル期の雰囲気を色濃く刻印されている気がする。逆に言えば今なお、ポスト・バブルというか、バブルの精算後でしかないのかもしれないなあ、と。何も不良債権に限らない。粉飾された表面的繁栄の下で、生体的・身体的なものが著しく損傷する……そのツケを払っていくのが今、そしてこれからなのかもしれない。一方でその後追いのように、グローバル化した資本主義はごくわずかな囲い地をも呑み込む勢いだ。

France 2のニュースでやっていたけれど、イスラエルの社会主義的実験共同体(農場)として知られる「キブツ」が今、風前の灯火なのだそうだ。農地の多くはすでに私有財産となり売買までされているという。うーん、なんてこと。オルタナティブの可能性がまた一つ失われつつあるのか。地域通貨の運動とかは大丈夫?

投稿者 Masaki : 22:14

2004年04月07日

指輪物語の譜

3部作として完結した映画『ロード・オブ・ザ・リング』では、指輪をはめると姿が消えるというモチーフがあったが、これはプラトンの『国家』にあるリュディア王ギュゲスの逸話にまで遡る物語素だ。最近読んだ岩波文庫版の河野与一『学問の曲り角』に所収の「貨幣と独裁者」という一文によると、このギュゲスは、後代に暴君を表す「ティランノス」という言葉(当時は絶対君主ほどの意味)で初めて呼ばれた王だという。ギュゲスは一方で貨幣の鋳造でも知られていて、最初それは合金(エレクトロン:琥珀の意味もあって「電子」の語源)であり、ここに「貨幣、エレクトロン、独裁者」の悩ましい関係が、指輪を介して浮かび上がってくる……。思わずうなってしまうほどの意味的な連関だ。

同じく所収の「ギリシア哲学の盲点」では、自然(ピュシケー)をめぐるギリシア思想が「形」にばかりこだわり「もの」それ自体を捉えないという話が披露されている。本は「形」として捉えれば個体として存在するけれども、読むという行為があって初めて「もの」として成立する。家もまた同じ。そういったヒトとのインタラクションやら意味論やらを含めた「もの」という視点は、中沢新一言うところの「雑色のまだら色をしめした」東洋的な「もの」(『緑の資本主義』、集英社、2002)へと道を開く、再考への鍵をなしていて、これまた実に興味深い。

投稿者 Masaki : 21:13

2004年04月04日

模倣と高低差

先週後半からちょっと用事で田舎に帰省。地方都市(県庁所在地)の駅前は再開発がさらに進み、幹線道路や橋、高層マンションの建設が相次いでいるという。なんだかミニバブルみたいな感じもしなくない。駅ビルなども含めた一帯の再開発が露骨に目指しているのは、大都市圏の「模倣」。そんなに「ミニ都心」みたいなものばかり作り出してどうするんだろうなあ、と思ったりもする。地方暮らしの長かったさる友人の記者はこの間、「田舎で食い物がマズいのは競争がないからだ」と語っていたが、そうした「ミニ都心化」で食の環境などが多少とも良くなっている感じも確かにあるから複雑だ。

なるほど競争というのは基本的に「模倣」から始まるもの。改善がなされない直接的な理由は、模倣に足る情報がないからかもしれない。食の加工方法など、一度練り上げられパターン化したものはなかなか変えられない。パターンを揺さぶるには、なんらかのせっぱ詰まった状況がなければならないわけだけれど、最も容易にその駆動力となるのは、模倣しうる程度の高低差(埋められうる高低差)だ(圧倒的な高低差があると、模倣しようという気さえ起きなくなってしまう)。けれども模倣によって、結局は高低差が縮まり全体は均質化する。均質化が進みすぎれば再び差異化の動きも出てくるかもしれないが、いずれにしてもそれもまた模倣を促し、かくしてそうしたプロセスは無限の運動を導いていく……。思うにヤバイのは、そういう上昇圧力となりうる高低差の幅が徐々に小さくなってしまうことかもしれない。高低差がちょっと大きいために、埋める努力を放棄してしまえば、無為の状態で投げ出されてしまうかもしれないからだ。こうして均質化する上の層と、停滞したままの下の層が分かれてしまう。もちろん、オルタナティブが生まれる可能性は、上層の均質化の中よりは下層のカオスの中の方が高いと思うけれど、安易に無為な形で投げ出された場所で、創造的な力が果たしてどれほどあり得るのかが気になるところだ。県庁所在地でもない地方都市が疲弊している状況からして、「別の模倣対象」を末端から創っていくのは並大抵の事ではないかもしれない……。とすると、高低差を埋める努力はそのままに、別の対象へと模倣をシフトさせていくことはできないものだろうか?

投稿者 Masaki : 19:58