2008年09月04日

秋読書

夏読書は必ずしも計画通りというわけではなかったけれど(苦笑)、それなりに充実。さて今度は秋に向けてだな。というわけで、まずはギリシア語文献はニュッサのグレゴリオスの「魂と復活についての対話」をひもとくことに。夏に前半を中心に読んだアフロディシアスのアレクサンドロス(「形而上学」)は、語句の繰り返しも多く、こちらの関心の薄い箇所などはさらっと流せる(笑)感じだったのだけれど、グレゴリオスのテキストは、前にも感じたことがあるのだけれど、ちょっと文章が締まっている風でこちらも緊張したりする。勢い、辞書を引く回数も増す。全体的に、逍遙学派系よりも新プラトン主義系のほうが、語彙の使い方とか文章の凝り具合とかがウワテな感じ。少し精読に近くなりそう。

あと、目下のもう一つの主軸は、アガンベンのひそみに倣って、「経済神学」みたいなことを改めてちゃんと考えてみようかなということ。というのは、アガンベン『王国と栄光』の序文に、個人的に大いに盛り上がってしまったから(笑)。キリスト教世界にあって、「三位一体のオイコノミア(経済=救済体系)が、統治機構の基盤を観察するための特権的なラボをいかになしうるかを示す」というその展望がシビれるでないの(以前に読んだマリー=ジョゼ・モンザンあたりのイコンの問題系ともつながってくるかしら、なんて)。

投稿者 Masaki : 00:04

2008年02月06日

数学ガール、哲学ボーイ?

プログラミング本の数々で超有名な結城浩氏の小説風数学入門書『数学ガール』(ソフトバンククリエイティブ、2007)。正月に読むつもりが、のびのびで今までかかったけれど、これ、内容的にはとても興味深い。数式遊びをする高校生たちののその「遊び方」、つまり数式のいじり方を実例的に見せてくれる。そこがとてもいい。こういう本に若い内に出会える青少年たちは幸せかも。20年以上前ならきっとこういう本は生硬な教科書として出ていたはずだろうから、これはいわば出版不況がもたらした逆転的な良書ということなのかも。ご本人のWebページによると、なんとコミック化されるのだそうで。

で、こういうのを読むと、大事なのは「いじり方」なのだということを改めて思う。で、ふと見回すと、同じように「いじり方」を見せてくれる哲学入門書というのがほとんどないことにも気づく。そう、『哲学ボーイ』はいまだないようなのだ。身近な事例を掘り下げようとする入門書は多いけれど、多くはすでに確立された思考経路をすいすいと通ってみせるだけで、思考経路を開くための試行錯誤のようなものはまず触れられない。「いじり方」にもいろいろあるわけだけれど、幾通りもの「いじり方」をあーでもない、こーでもないとこれ繰り回すようなものはあんまりない気がする。でも本当に面白い部分というのはそっちにあるのだけれど……。

入門でなければ、もちろん面白い論考は山ほどあるし、様々な「いじり方」を味わうこともできる。ちょうど今入不二基義氏の『時間と絶対と相対と』(勁草書房、2007)を半分ほど読んだところなのだけれど、これなどもそういう「いじり方」の極地という感じ。前半部分は年末に読んだ『時間は実在するか』(講談社現代新書)のポイントをまとめ直した感じだけれど、それにしても、「ない」という否定表現の二重性(「ある」に対する「ない」と、絶対的な無に相当する「ない」)・重なり合いを手がかりに、「過去」、「未来」、「現在」といった時間概念のそれぞれに切り込んでいく手際のあざやかさが印象的だ。うーん、刺激を受けるなあ。たとえば同書とはまったく違うベクトルだけれど、たとえば「弁証法」はもともとミニマルな時間性を孕んでいる(テーゼとアンチテーゼ、ジンテーゼのそれぞれに時間差が前提される、なんてことはあながち突飛ではない)などと考えたりすると、やがて空間もまた時間性だ、みたいな話になっていったりするのだが、こういうのもいろいろこねくり回して楽しみたいところ。

投稿者 Masaki : 22:44

2007年07月07日

蔵出し

転居してからというもの、トランクルームに預けていた荷物を少しづつ搬送し整理してきて、ようやくそのトランクルームを解約できるところまできた。まあ、大半は書籍(というか紙というか)なのだけれど、学生時代からたまっていたものを、売り、捨て、温存に分類する作業。実に久しぶりで、ある意味とても楽しい作業だった。今となっては不要なものもいろいろ(昔の映画関係本とかマンガ、コンピュータプログラミング本など)。懐かしい書籍もいろいろ(丸山桂三郎などの記号論関連本など)。積ん読のままだったものなどもいろいろ(頭の数ページしか読んでいない仏語の小説とか)。今にして思うと、重要なものって大してないかも(苦笑)。

とはいえ、懐かしいものが出てくると、ついつい取りのけて部分的に読んでしまう。先頃亡くなられた今村仁司『暴力のオントロギー』『労働のオントロギー』『排除の構造』などとか、『現代思想』1985年4月号の後期レヴィ=ストロース特集とか(クレティアン・ド・トロワからワーグナーまで、と題されたパルシファル論などは今読んでも面白い)、すっかり忘れていたジュリア・クリステヴァの『愛の歴史』(Histores d'amour", Denoël, 1983)とか(「スターバト・マーテル」というタイトルのマリア信仰を扱った論考や、トルバドゥールの歌に関する論考があった。昔は見過ごしていた)。ロラン・バルトの『旧修辞学』(沢崎浩平訳、みすず書房)も(これなどは、数あるバルト本の中でも数少ない、後々まで読みうるものの一つだと思う。2005年に再版されているんだね)。もっと最近のでは、平野啓一郎のデビュー作『日蝕』が掲載された文藝春秋とかも出てきた。ずいぶん前かと思いきや、1999年だったのか。これ、今ちらちら読み直しても実によく調べて書かれている。いや〜、たまに蔵出しするのは結構刺激的だったりする。そのことを改めて実感。

投稿者 Masaki : 23:42

2007年06月05日

上野でルネサンス

もうすぐ会期終了のダ・ヴィンチ『受胎告知』と、始まったばかりのパルマ展を梯子する。前者は結構な人出で、まあ落ち着いて見るぎりぎりのところ。一枚だけの展示スペースはやや広く取りすぎている感じも(苦笑)。併設の特別展はダ・ヴィンチの手稿の図などを実際に模型にしたものが中心で、それほど目新しい感じはなかった……。うーん、今回の目玉が『受胎告知』だけだというのがちょっと寂しい。それよりもやはりパルマ展だ。ルネサンス期(16世紀)からバロック期(17世紀初頭)にかけてのイタリアはパルマの絵画の数々。コレッジョやパルミジャニーノ、スケドーニなどの絵画がずらずらと並び、見応え十分。まさに眼の贅沢という感じだ。今ならまだ会場もかなり空いている(笑)。コレッジョはなんといっても『階段の聖母』『幼児キリストを礼拝する聖母』あたりが見事。ウフィッツィ美術館の至宝。聖母子図の伝統はやはり強力だなあ、と。バロック期のスケドーニは、陰影の濃いドラマチックで大判の絵画。

ではそのコレッジョ『幼児キリストを礼拝する聖母』を。
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投稿者 Masaki : 22:41

2007年03月11日

春先の東北

ちょっと会津旅行のついでに盛岡に寄る。久々に新幹線の車内誌をめくってみると、西行(ご存じ12世紀の日本の歌人・僧侶)の小特集を組んでいて、これがなかなかに面白かった。特に時の権力者たちとの政治的な立ち振る舞いに多くの文章を費やしていて、同じ12世紀の西欧の聖職者たち=知識階級にも通じるものを強く感じさせる。西行の詩作や陸奥行脚も、ある意味トルヴェールなどの行脚に近いものがあるように思えるし、どこかいろいろな部分でパラレルな現象が感じられる。でもま、文学史的な言及はともかく、思想的な側面があまり取り上げられていなかったのだけれど、そのあたりはどんな感じなんだろうか、とふと思ったりもする。

時代的にそれにやや関連するが、最近ちょっと眼を通していたのが、小峯和明『中世日本の予言書−−<未来記>を読む』(岩波新書、2007)。ヨーロッパでは12世紀以降ヨアキムなどの預言が流布していくわけだけれども、それとある意味でパラレルな(?)現象が日本にもあった、というところがとても興味深い。この本の中ではノストラダムスなどが言及されていたりするけれど、むしろ西欧でも司牧の説教や民間説話などがそれに近いものじゃないかなあと。いずれにしても、実際の政治的な事件や世相を取り込んでは近未来的なヴィジョンを織りなしていく想像力の脈々たる流れには、なんだか圧倒される思いがする。

……で、東京に戻ったら、だいぶ前に注文していたヨアキム本が船便で届いていた。ナイスタイミング!

写真は会津の宿からの風景。
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投稿者 Masaki : 21:36

2007年01月02日

シモンドンの小編

謹賀新年。今年の年越し本(笑)は、ジルベール・シモンドンの講義再録本、『動物と人間についての二つの講義』("Deux leçons sur l'animal et l'homme", Ellipses, 2004)。シモンドンは最近、以前は分冊で出ていた博士論文が合本で出たり、別の大分な講義録も出版されていたりして、再び注目されるところ。で、これは100ページに満たない小著で、動物と人間の間に断絶を見るという西欧の哲学的スタンスを、古代ギリシアから近世まで、駆け足で、とはいえ手際よくまとめてみせている。動物と人間の本格的な区分を最初に導いたのはソクラテスで、それをプラトンが精緻化するも、アリストテレスがそれを機能論を持ち出すことで連続性として捉え直したのだ、というのが前半のハイライト。その対立軸は後に、それぞれアウグスティヌスとトマス、あるいはデカルト(とその継承者たち)とボシュエ、ラ・フォンテーヌなどによって継承されていく、というのが後半。アリストテレスやラ・フォンテーヌに大きな部分を割いているところがなかなかに印象的だ。連続性と差異のダイナミズムを捉えようとするシモンドン流の個体化理論の残照がそこかしこに感じられる。なかなかの味わい。

投稿者 Masaki : 22:50

2006年12月20日

師走の風景

師走はやはりいろいろと忙しない。世間の年末進行は、こちらにも否応なしに関係してくるわけだけれど、そんな中、足かけ2年かけてちびちび行ってきた(途中ほかのが入ったりして、遅れたりしたが)プロクロス『プラトン神学』の原典購読(Les Belles Lettresの希仏対訳版)を一通り完了する。うーん、6巻通読はなかなかの読み応え。プラトンの著作に出てくる神々を体系化するというもので、重複や繰り返しがいろいろあったけれど、なかなか興味深いものではあった。で、今度はアプロディシアスのアレクサンドロス『宿命論』に取りかかる(先のピーター・ブラウンに触発されて)。逍遙学派から見た宿命論としては唯一無二のもの。のっけからアリストテレスの4大因の話が出てきて、ヘイマルメネーをそうした原因の観点から説く方向に行きそうで、ちょっと期待している……。

また、先に眺めていたフィオーレのヨアキム『黙示録序説』は、6と7の数字の重なり合いで引っかかったまま読了。これに関連する論考を見つけたので、アマゾンで注文してみたが、さてどんな感じだろう……?いずれにしても、これでようやく、秋に出て早速入手したアルベルトゥス・マグヌス『自然ならびに魂の起源の書』の羅独対訳本("Über die Natur und den Ursprung der Seele", Herder, 2006)に取りかかれることに。これ、断片的にしか読んだことがなく、こういう形で廉価版で読めるのが嬉しい。アマゾン・ドイツで結構前に予告が出てからずっと待っていた一冊。これも最初から、『鉱物論』などで展開される質料ドリブンな話が炸裂していて、すでにして興味深い。アルベルトゥス関連の比較的新しい論集も入手したものの、秋からいろいろあって手つかずのまま。ま、ゆっくりやっていこうと思う(いつもそう言っているが(笑))。

久々のWebカムは、12月上旬のブダペスト。朝の光がとても美しい。
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投稿者 Masaki : 21:38

2006年12月08日

雑感:フランス24

tHerodote.netのニューズレターによると、去る12月5日は、かつてのフランス通貨「フラン」が誕生した記念日。1360年にコンピエーニュで、ジャン2世(善王)が創始した金貨で、トゥールで鋳造されていたリーヴルと同じ価値があったという。ジャン2世はポワチエの戦いの後、捕虜としてロンドンに連行され、その身代金が300万リーヴルとされた。当時のフランスは百年戦争で財政的に荒廃していて、王は自分の娘をミラノ侯爵ヴィスコンティに嫁がせることで、最初の支払いとして40万リーヴルを拠出し、いったん解放された。francという名称はその解放を示唆しているのだという。英仏の争いの中で生まれたフランは、2002年にユーロに置き換わって消滅したわけだけれど、その直前、自国通貨を失うということの重大さをレジス・ドゥブレが指摘していたことが今さらながら思い出される。フランスの国際舞台でのプレゼンスが相当に弱まってしまっている現在、やはりこの自国通貨の喪失は、大きく響いているのかもしれない。ユーロが前面に出た「ヨーロッパ」という文脈では、フランスとて一種の「小国」のようでしかないわけで……。

そんな中、折しもフラン誕生の記念日の翌日、さしあたり報道分野での情報発信力を盛り返そうと、政府主導で発足したニュースチャンネル「FRANCE 24」(www.france24.com)が本格始動した。でも、コンテンツ的には公営チャンネルのニュースレポートの使い回しという感じが強く、いまひとつ魅力に欠けている印象だ。もちろん、まだできたてなので、早計かもしれないけれど。いずれにしても必要になるのは、違う見方を示すための広い意味での「思想」だ。そういうバックボーンがないと、報道の視点も安易なほうへと流れてしまうしかない……。そういう意味では、政府主導だというあたりがちょっと……。

ついでながら、Wikipediaなどにも掲載されているジャン2世の肖像を掲げておこう。これ、ルーヴル美術館所蔵の作者不詳(?)テンベラ画で、1349年ごろのものとか。
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投稿者 Masaki : 19:46

2006年11月17日

場所の想像力

この間レンタルDVDで『奇談』を見た。諸星大二郎の短編漫画(「生命の木」)が原作。昔いくつか読んだけれど、今思い返すと、諸星作品の短編ものは『世にも奇妙な物語』あたりで取り上げるくらいが相応しい感じだったような。ちょっと長編には向かないのでは……と思っていたのだけれど、案の定、映画『奇談』は、原作にはない神隠し話をからめて長編化していて、その部分と本来の「生命の木」の話との融合具合が、ちょっと今ひとつだった……。でも、阿部寛の稗田礼二郎(異端の民俗学者)役は、『トリック』の上田を引きずるのではと思っていたら、意外に良かったり。

まったく関係ないものの、この話を観て思い出したのは、ほんの30年くらい前には、田舎のほうに、確かになんらかの土着信仰的なものが、おそらくはすっかり形骸化した形で、断片化して残っていたように思える、ということ。嘘か本当か、それほど遠くないところにある霊山に、家系的に入ってはいけないのだという同級生とかいたし(子どもの戯れ言だったのかどうか、不明なのだけれど)、より近所の山の中でも、あまり人の行かない場所とかあって、子どもらの間では、その場所の因縁めいた妙な話がまことしやかに語られたり、何か嫌な体験をしたという噂話が流れたりしていた。なにかそういう場所的なものが、ひどく想像力をかき立てる面があって、東京からテレビなどを通じて発信されてくる娯楽や情報などと、そういう戯れ言めいたものとが、ごく普通に共存していた。諸星作品が汲み上げている感覚というのは、そういうもののような気がする。宅地整備とかが進んで、ずいぶん見通しがよくなってしまったらしい田舎の画像をGoogle Mapなどで見てみると、のっぺりとしたその写真の感じもふくめて、場所の想像力もすっかり消えているんだろうなあなどと思ってしまう。

投稿者 Masaki : 22:21

2006年10月13日

甘い顔して……

少し前にジョージ・クルーニー製作総指揮の映画『シリアナ』をDVDで観た。中東の石油利権に絡んだ諜報戦の内幕を描いたもの。映画だけに多少の現実離れした部分もあるだろうけれど、とりわけ、日々の苦渋を感じている若者たちに、イスラム系のテロリスト集団が食事と教育を餌に「甘い顔をして」接近していく様が、なんだかとてもリアルだった。若者たちは結局洗脳されて、自爆テロへと疾走していく。岩波の『世界』11月号には、8月くらいにナチスのSS(武装親衛隊)のメンバーだったことをみずから暴露したギュンター・グラスの『フランクフルター・アルゲマイネ』紙のインタビューが翻訳で掲載されている。これを読むと、グラスにしても、若い頃にひたすら家を出たい一心で志願兵となり、結果的にSSに編入させられたのだということがわかる。グラスは、ヒトラー・ユーゲントの教育はモダンで、団長は「いいやつだった」と振り返っている。これってまさに、上の映画のイスラム原理主義組織の手口と同じ。口当たりがよく、未来の希望を抱かせるふりをして、つけいってくるというわけだ。現状への不安・不満につけこみ、輝かしい未来を吹聴しては、おのれの陣営にからめとる。しょせん思想は後から付いてくるのだから、ということか……。

考えてみれば、そういうことは大なり小なり様々な場面で行われている。一般市民にとっての日常においては、一寸先が闇なのはもとからのこと。それを、たとえば小泉内閣はたくみに政治利用しようとした。もともとそうであるものをことさらに吹聴して、改革の軸にしようとしたわけだ。とはいえ小泉は、輝かしい未来といったそれなりの希望を言葉たくみに描きはしたものの、具体的に見せるところまではいかなかった。というか、希望を見た人たちは新自由主義万歳になり、そうでない人たちは反新自由主義という立場を取り、全体的にみると、幸いながら前者が席巻するというところにまではいかなかった。で、今回の北朝鮮の核実験で、政治家たちは脅威のレベルが格段に上がったということを言う。これもまた同じ構図になっていきそうな点が気がかりだ。北朝鮮が核実験をしようとしまいと、日常のレベルでは何も変わらない。一寸先が闇という時間意識はもとより組み込まれているものだから。もしかすると、より上位の国のレベルでも状況は何も変わっていないのかもしれない。北朝鮮脅威論自体はずいぶん前からあるのだし。問題なのは、今後そういう不安につけこんで、いろいろと軍拡的な施策が直接・間接に行われていくかもしれないということ。どこかで誰かが書いていたと思うのだけれど、大学だけを9月からの始業にし、高校卒業からの半年を、若い人たちの社会奉仕活動にあてようという案は、有事をあてこんだ兵役にシフトする恐れがあるのでは、そのための布石なのでは、というような話もある。うーむ、いかにもありそうで恐い……気がついたら妙なことになっている、というのが一番厄介だ。

投稿者 Masaki : 12:18

2006年09月26日

論集を読む愉しみ

ちょっとほかのことで忙しいものの、少しずつ眼を通しているのが、『アルベルトゥス・マグヌス−−その時代、作品、影響』(”Albert der Grosse : Seine Zeit, Sein Werk, Seine Wirkung” Walter de Gruyter Inc., 1981)。Miscellanea mediaevaliaというシリーズの1冊で、80年に開かれたシンポのact。いや〜こういう論集を読む愉しみというのは、そのシリーズ名にもあるように、その「雑多煮」的な部分。ここでも、思想内容の話から研究状況のまとめ、後代への影響など、いろいろな論考が並んでいる。ちょっと面白かったのは、José Ignacio Saranyanaによる小論。久々のスペイン語論文だ。アルベルトゥスの存在論において、esseとessentiaの区別がどう付いていたのかをめぐり、先行研究から肯定派と否定派を紹介し、そのアウフヘーベンとして、ブラバントのシゲルスによる証言を傍証という形で取り上げている。シゲルスの見解の信憑性は、トマスの存在論をめぐるそのコメントによって証されるのだといい、よってアルベルトゥスが両者の区別をつけていたというそのコメントも十分に信用できるだろうという次第。ま、傍証という多少の弱みはあるものの、なんだか論文の書き方の見本のような感じ(笑)で好感がもてる。あと、Sten Ebbesenによるアルベルトゥスの「オルガノン」(アリストテレス論理学)への論考や、George C. Anawatiによるアルベルトゥスの錬金術関連研究のまとめなどは、そのうちメルマガの方で取り上げることにしよう。

投稿者 Masaki : 23:33

2006年09月16日

掘り出し物

近場の古本屋で、"Revised Medieval Latin Word-List from British and Irish Sources"(Latham, British Academy, 1965)の73年のリプリント版を安く購入(Amazonのものよりもちょっとだけ安かった)。見出し語と文献の初出年(現存するもの)と簡単な訳語が載っているだけなのだけれど、これはこれで一応簡略化された辞書として引ける。聖パトリックからフランシス・ベーコン(ロジャー・ベーコンはもちろんとして)まで網羅しようという遠大な辞書編纂プロジェクト(分冊で出ているDictionary of Medieval Latin from British Sourcesや、同じくform Irish Sourcesなどがその成果だけれど、それらは揃えるとなるとちょっと個人では高額。図書館に期待したいところなのだけれど)の最初の派生物が1934年のBaxter & JohnsonのMedieval Latin Word List from British and Irish Sourceで、それを大幅に増補したのがこれというわけ。「学生向き」を謳っているだけあって、見出し語の意味や用法の変遷も大まかに追えたりもする。うん、なかなかいいね、これ。

投稿者 Masaki : 21:56

2006年09月02日

グーグルのブックサーチ

グーグルのブック検索で著作権切れ本のフルダウンロードが始まったときき、さっそく覗いてみる。最近gmailが招待制でなくなったので、速攻でアカウントを作ったのだけれど、ブック検索で中身を見るにはそのアカウントが必要になる。うーん、これ、簡易サーチでは基本的に検索語が引用されている書籍がずらずらっと出てくるだけ(ま、それはそれで凄いのだけれど)。著者名で検索しても、著作の数々が並ぶわけではない。たとえば「Hans Jonas」(先のグノーシス本の著者だ)で検索すると、Jonasに言及した本がずらずらと表示される。Jonas本を表示させたい場合は、検索語に「inauthor:」とか付ける。Hans Jonasにマッチさせるなら、「inauthor:Hans inauthor:Jonas」なんてしないといけない。結構面倒かも。また、基本的に大学などの図書館本をPDF化しているというような話だったけれど、フルダウンロードできるものはまだまだ数が限られているようだ。とはいえ全ページをスキャンして、しかもその全テキストでインデックスを作っているというのはものすごい。ある意味感動的。ここは素直に、今後の品揃えとインターフェースの改善に期待しよう。

投稿者 Masaki : 19:54

2006年08月23日

名前の禁忌

レンタルビデオ屋の棚を眺めていたら、実写版『ゲド戦記』というのが置いてあった。笑えたのは、ジャケットがいかにも欧米系ファンタジーの「クリシェ」っぽくて、『ゲド戦記』そのものとは似ても似つかない感じなこと。『ゲド戦記』は哲学的な台詞が多くて、映画にやすやすとできるようなアクションなどはほとんどない……といっても、3巻までしか読んでいないのだが(苦笑)。岩波のハードカバーはちょっと抵抗があって買わずじまい(大昔に確か友人が持っていたものを部分的にずらずらとばし読みした)。昔、ちくま文庫で1巻「影との戦い」が出て、「よっしゃ、ちくま文庫版でそろえたろ」とか思っていたら2巻以降は出ず、最近になってようやく岩波のソフトカバー版を購入することに……。こういうパターンの人って結構多そうな気がする。ちなみにジブリにはまったく期待していないので(最近のジブリ作品の色づかいになじめないのと、deus ex machina的なおそまつな結末ばかりになってしまっているのがつまらなない)、この夏のアニメ版はテレビででも放映するまでは見る予定なし。

それにしてもその作品世界でとりわけ興味深いのは、名前をめぐる禁忌と支配。真の名前を知ることで、その名のついた対象を制御できるという基本設定が暗示しているのは、二重世界(聖なる名前と俗なる名前、あるいは魔法世界と世俗世界)というか、いわば聖・俗の二分割が十全に生きている世界観だ。3巻「さいはての島へ」では、そうした分割線があいまいになってしまうことで、世界の価値の体系が崩れていく、という舞台設定へと反転する。なるほどこの聖・俗の二元論は、実際の歴史においても、たとえば文字の使用の制限という形で制度に反映されて、結果的に文字の神聖化を助長してきたんだっけ。文字というところを魔法に置き換えれば、ル=グインの作品世界の基本設定が得られる。その意味で『ゲド戦記』は文字社会の歴史を批判的・寓話的に写し取ったもの、というふうにも取れる。

投稿者 Masaki : 23:22

2006年07月29日

ギリシア語2題

深夜枠で放映されている「コマネチ大学数学科」を久々に見る。放送日を間違えたり、録画に失敗したりして、このところはあまり見ていなかったのだけれど、いつの間にか、thinking time前の決め台詞(ガダルカナル・タカ)が、「cogito, ergo sum」から、「αριθμοι κυβερνουν συμπαν」(数は万物を支配する)に変わっていた。「アリスミ・キベルヌン・シバン」と読んでいることからもわかるように、現代ギリシア語(活用語尾も、-ωσιじゃないし)。なんで古典語じゃなく?ピュタゴラスとかじゃないの?おそらく「数は万物を支配する」も、「無知の知」「オッカムの剃刀」みたいに、そのものズバリの一句というのはない、ということか……?これに関連して、Loebのアンソロジー"Greek Mathematical Works"のピュタゴラス関係の部分をズラズラっと眺めているところ。

Le Mondの校正係がやっているブログ「langue sauce piquante」(辛口言葉)の、エピメテウスの語源についてのアーティクルのコメント欄がえらく騒がしくなっている。Προμηθεύς(Προμᾶθεύς)と対をなすΕπιμηθεύς、「pro(前)」に対して「epi(後)」、メーテウスはμανθάνωに由来し、「後から考える者」というのが一般的な語源的解釈なのだけれど、これがいわゆる「アホ、間抜け(フランス語のcon)」の意味になるかどうか、というのがその争点。Baillyの辞書(希仏)も言及されているけれど、これは英語圏ならLiddle & Scottの辞書に相当するもの。奮っているコメントの数々が脱線していく様がなかなか面白かったり。

投稿者 Masaki : 22:56

2006年07月18日

構築への意思

最近『神話論理』の刊行が始まったりして、久々に注目されていたレヴィ=ストロース。論理に矛盾があるとかいろいろ言われたりするけれど、その学問的な「構築への意思」はほかではマネできないほどのもの。そこがとても感動的だったりする。昨年平凡社ライブラリーに入った『レヴィ=ストロース講義』(川田順造、渡辺公三訳)は、来日の際の3本の講演を収録したものだけれど、これもまた文化人類学の可能性に対する強い意思を感じさせるテキスト。人種のような生物学的要因が文化に影響するのではなく、逆に文化の様式が、人類の生物学的変化の方向をかなりの程度決定してきたのではないか、というのだからものすごい。

「構築への意思」といえば、この長い週末、映画化されたりして何かと話題のコミック『デスノート」全12巻を大人読みしてみた(笑)。この緻密な心理戦・論理戦は、まさに作者たちの構築の意思の賜物。そして作中人物たちも、壮大な「構築への意思」を展開する。でもって、それがちょっとした末端の揺らぎによってほころんでいく様が圧巻。なんだかこれ、設計する技師は賢いものの、末端の技術者が手を抜いたりして、全体的にクオリティが必ずしも高くなくなってしまうという、一昔前のフランスの技術関係者の世界に似ていたりする。某エレベータ会社が、欠陥を保守担当会社のせいにしたりするのも同じ構図か。ヒエラルキー構造は、末端のゆらぎにもろく、すべて統制されて自己完結するようにはならない、という一種の戯画としても、『デスノート』はかなり面白い。

投稿者 Masaki : 22:59

2006年05月27日

奥底

フランス・ドルヌ+小林康夫『日本語の森を歩いて』(講談社現代新書)を読む。ドルヌ氏は昔、外語の院に講師としていらしていて、発話行為の言語学(lingustique de l'énonciation)についての講義を持っていらした。うーん、なつかしい。で、旦那さんの小林氏(授業後の飲み会みたいなところで、一度だけお目にかかったことがあったっけ)とのこの共著、なんだか新書にするにはもったいないほどの情報量。空間表象の話や、助詞「に」「て」の孕む諸問題、「よく」の意味論、「た」の用法の多様性などなど、日本語とフランス語の微細な表現方法の差異を説得力あるやり方で詳述していく。発話行為を考えるという営為は、どこか思考の本質的部分に触れるものなのだなあ、ということを改めて思う。

そういえば、最初の章で、「au fond」というフランス語が、日本語でいう手前に対する奥では全然ないという話があったけれど(fondはいわばデッドエンドだという話)、ちょうど読み始めたジャン=リュック・ナンシー『イメージの奥底で』(西山 達也、大道寺玲央訳、以文社)もタイトルからしてまさにそんな感じ。イメージのデッドエンド性へと潜っていくような印象だ。このあたりを敷衍するに、写真や映画も、私たちが思うようなどこか窓のように開いた感覚ではなく、媒体の向こう側に穿たれた、あるいは抉られたもの、というような感覚になるのかしら。当然そこには聖像との連関も、もっといえば質料論的な連関もあるはずで……。

ナンシー本のカバーはカラヴァッジョ『執筆する聖ヒエロニムス』の一部。全体を挙げておこう。
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投稿者 Masaki : 23:21

2006年05月10日

完全休養

リンパ腺が腫れて発熱、7日以来完全休養状態。やっと熱が退いてきたのでぼちぼちとネットをやっている。先月28日だかにオープンしたというINAのArchive pour tous(万人のためのアーカイブ)なんかも覗いてみた。放送通訳業務などで、たまに古い番組映像がニュースの中にポンと出てきて、その当時の番組本体を知らないので、なんのこっちゃとなる場合があったりするけれど、これで、もしかすると多少そういうのも詳しく調べられるようになるかもしれないなあと。テレビ番組などは、実際に眼にしたことがないとなると、まったくリファレンスがわからないもの。そういう意味ではこのアーカイブ、なかなかよく出来ている……って、ストリーミングは無料でも、ダウンロードしてローカルで見るには数ユーロとか払うわけね。先にできていたBBCのOpen News Archiveとは方向性が違うけれど、いずれにしても動画のアーカイブって、これからの大きな流れなんだなあ、と改めて。

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投稿者 Masaki : 22:38

2006年04月15日

ラディカルな「信」

アントニオ・ペタジネ『困難なるアリストテレス主義』("Aristotelismo dificile", Vita e pensiero, 2004)。途中まで読んでちょっと息切れ(苦笑)。アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、ブラバントのシゲルス、さらにボナヴェントゥラまでの、人間知性をめぐる思惟の微細な差異を追っていくというもの。シゲルスの単一知性論に差し掛かるかな、ところで足踏み。それとの関連でいうと、シゲルスの『形而上学問題集』("Questiones in metaphysicam")といい、なかなか核心的なところに入っていかないのが難儀なところ……。この『形而上学問題集』は4つの異本があって、一応の校注本が2巻本で出ている。ケンブリッジ/パリと、ミュンヘン/ウィーン。いずれも講義の記録(reportatio)。さしあたり前者を入手して頭のほうから漠然と読んでいたのだけれど、うーん、こういうのはやっぱり漠然と読んではいかんなあ、と(反省)。シゲルスのラディカルさというのは何なのか、どこに由来するのかというところからアプローチしなおしたいところ。仕切り直しをしよう。

キリスト教圏は昨日がイースター前の聖金曜日。十字架の道の礼拝などが各地で行われたそうで、France 2では聖職者が十字架をかついでモンマルトルを登る様子をちらっと紹介していた。ヴァチカンでのこの礼拝は、コロセウムで行われるんだねえ(RAInetのニュース配信でも少しだけ中継していた)。さらに強烈なのが、フィリピンでのキリスト磔刑の再現。AFP BB Newsで写真が出ていた。うーん、いわゆる第三世界での「信仰」はどこかラディカルな方向に引っ張られていく感じがする……。

投稿者 Masaki : 23:56

2006年03月30日

ソラリス……

スタニスワフ・レム死去のニュース。著名人の生死って、時に勘違いしたりすることがあるけれど、レムについてもそうで、存命だった事実を知らず、訃報にびっくりしてしまった(苦笑)。合掌。あまりにも有名な『ソラリスの陽のもとに』のほか、『捜査』とか『枯葉熱』とかも持っていたはずだけれど、去年夏から借りているトランクルーム行きにしてしまったせいで手元にない(笑)。レムの作品はどれもアイデア的に面白い。『ソラリスの……』なんか、構図としては知性的なものによって、第一質料(みたいなもの)が形をなすっていうんだから、まさに中世の質料形相論っぽい話。質料形相論的な視座が、作品が書かれた60年代くらいまで連綿と伝統として息づいていたのかも、なんて考えるととても興味深い。

質料形相論とくれば光の隠喩。というわけでもないのだけれど、1月某日の代々木体育館の反射光を。
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投稿者 Masaki : 21:51

2006年03月28日

『Cマガ』休刊……

プログラミングを囓ったころに購読していたものの、もうかなり前から買っていなかった『C Magazine』が4月号で休刊だそうで。これも時代の流れだなあ、としみじみ。思えばインターネットにはまりだしたころは、ちょうどPC UNIX(LinuxとかFreeBSDとか)の人気が出てきた頃あいと重なって(当時はインストールが大変だった)、お遊びプログラミング熱も世間的にもっと高まっていたように思う。個人的にも結構楽しんだクチで、イントラネットでもって、perlやCのCGIで「お遊び」会計ソフトなんかを自作して使っていた(市販の方がはるかに多機能で使いやすいので、あまり活用せずに終わったが)。今はWeb 2.0とか言って、さもパラダイムシフトのようなことが言われているけれど、たしかにブロードバンドや各種ツールの整備が進んで斬新なサービスができるようになったとはいえ、Webをプログラムインターフェースにするという考え方はもともとあったよねえ。ただ昨今はセキュリティの問題があるので、昔みたいに安直な「Webツール」を作って公開するわけにはいかないのだけれど……そのあたり、ちょっと寂しい気もする。

Web2.0の代表の一つみたいにも言われるGoogleの各種サービス。そのうちの1つ、Google Earthを使った、桜マッピングプロジェクトとかいうのがあると聞いて、ちょっと覗いてみた。Google Earth上に各地の桜の写真データを取り込むというもの。なかなか面白いでないの。それにしてもGoogle Earthの衛星写真、ちょっと古いよなあ。でも東京はダメだけれど、パリなんかだと通りの名前も詳細に表示できたりしてなかなか便利ではある。

せっかくなので、Google Earth+桜マッピングの画像を。
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投稿者 Masaki : 23:25

2006年03月24日

ティツィアーノ

明日から上野で開催されるというプラド美術館展の目玉の一つとされるのが、ティツィアーノ「オルガン奏者といるウェヌス」。パノフスキー『ティツィアーノの諸問題』(織田春樹訳、言叢社)によると、ティツィアーノには同じポーズのウェヌスの作品がいろいろとあるらしい。「オルガン奏者……」も、ベルリンのものとプラドのものがあって、さらにオルガンがリュートに置き換わった後代のものがケンブリッジやニューヨークにあるのだそうで、それらの移行に、聴覚と視覚の別々の美(それぞれ楽器とウェヌスで表現された)から、やがてウェヌスがすべての美の女王となる変化が読み取れるのだという。有名な「聖愛と俗愛」が体現しているのは、フィチーノやピコ・デラ・ミランドラなどに代表される新プラトン主義の高次の世界なのだという。パノフスキーの解読はとても刺激的だ。

サロメについても面白い議論がなされている。ヘロデの娘(サロメ)が洗礼者ヨハネに直接エロティックな想いを寄せている、という風に変えられたのは19世紀ロマン主義の中でだとばかり思っていると、不意を突かれる。というのも、そのロマン主義の「解釈」につながる流れは、12世紀に端を発しているというのだから。ヘントのスコラ学者ニヴァルドスという人物が、ヘロデの娘を義理の娘ではなく実の娘とし、自分が属する教会の守護聖人(聖女フェレルデ)と同一視し、聖書の記述をラブストーリーに変えてしまったのだという。この異説はヤーコプ・グリムによって再録され、19世紀のロマン派の間に拡がったのだという。うーん、お見事。

せっかくなので、『聖愛と俗愛』(ローマ、ボルゲーゼ美術館)を。
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投稿者 Masaki : 23:43

2006年02月20日

雑感:フレーズの一人歩き

少し前だけれど、「辛口言葉(Langue Sauce Piquante)」がマルクスの「宗教は民衆の阿片である」という一節を取り上げていた。ソクラテスの「無知の知」ほどではないにせよ、これも一人歩きしている句ではある。実際には、これはもうちょっと長く、「宗教は不孝に苛まれる者のため息、心なき世界の魂、精神なき時代の精神なのだ、(要するに)それは民衆の阿片なのだ」、みたいに続く。阿片そのものも、当時は痛みを緩和するものという意味だったようで、麻薬的なニュアンスではない。

そういえば技術論で引き合いにされたりするプロメテウス神話(およびそれに先立つエピメテウスの過ち)も、プラトンの『プロタゴラス』を改めて見てみると、なるほど技術は人間に与えられたものの、それはあくまで生活のための知恵であって、社会をなすための知恵(戒めと慎み)はというと、やはりゼウスによって(ヘルメスを遣わして)、しかも万人に(少数者だけにでなく)与えられたという話の展開になっていく。プロクロスの『プラトン神学』5巻などでは、このあたりの話からゼウスとデミウルゴスとの同一視という議論が展開していくのだけれど、それはともかくこの政治的「技術」が非専門技術であるということは、なかなかに示唆的ではある。

久々にWebcamから。1月初旬のモンデッロ湾(パレルモ)。いいねえ地中海は。
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投稿者 Masaki : 16:12

2006年02月17日

不信社会

救急医療はまったく当てにならないという現実をまざまざと見せつける出来事が、最近ごく身近なところであった。レントゲンまで撮っても骨折を見抜けない医者が現実にいるというのは恐るべき事態だよなあ。こういうところから医療不信なんてことが起きてくるわけで。医療に限らず、広義のサービス業全体にそういう不信が広まってきている感じもする。あるいは世代間不信なんてのも、昔よりひどくなっているみたいだし。上の世代は後続世代を信用していないし、下の世代も上に対して同様だ。なんだか不信が社会の隅々にまで雲海のように拡がっていこうとしている感じ。やだよなあ、こういう雰囲気。

絲山秋子「沖で待つ」という小説を読んだ。芥川賞受賞作。こういう受賞作を読むのなんて川上弘美『蛇を踏む』(文藝春秋)以来かも。亡くなった同期入社の友人のハードディスクを、生前の約束にしたがって壊しにいくという話……って、こう要約してしまうと身も蓋もないけれど、実際には独特な味わいで、微妙な関係性を切り出しているところがなんだかほほえましい感じもする。どこか孤島のような作品世界。けれどもその孤島の周りには、ひょっとして地鳴りのごとくに社会の不信感のようなものが渦巻いているのかしら……なんてつい穿った見方をしてしまう。巨大な不信社会に抵抗できるのは、案外こういうミクロな連帯感しかないのかも、という感じを抱かせもする。

投稿者 Masaki : 16:33

2006年02月03日

ラスト・オブ・イングランド

ある方と雑談をしていて、米国が日本の牛肉禁輸措置について「米国は日本車に欠陥があっても禁輸にはしない」と述べた話が出、その人(毒舌が持ち味だけれど)は米国について「なんだかまるでサタンの国のようだ」とおっしゃった。うーん、意外なところでサタンの話が出てきたなあ、という感じ。とっさにヨハネの黙示録が思い出される(笑)。そういえばヨハネの黙示録は新約の中では「浮いて」見える。正典の中では落ち着きが悪いような感じ。そもそもどういう経緯でこの文書が正典入りを果たしたのか気になるところ。改めて言うまでもないけれど、そもそも聖書の正典成立過程はいろいろ謎だよなあ。そのうちちゃんと勉強してみたいところなんだけれど……。

終末論的悪夢といえば、最近久々にデレク・ジャーマンの『ラスト・オブ・イングランド』をレンタルDVDで観た。87年の作品だったっけ。ジャーマンの映画としてはとりわけわかりやすい。細部はすっかり忘れていたけれど、大英帝国の終末のイメージが強烈なリズムでモンタージュされている。寺山修司の実験映画に通じるものがあるし、シャコンヌやら民謡やら威風堂々やらの曲の使われ方もサウンドコラージュとして興味深い。映像の物語素というものを考える題材にもなる……けれども現代世界の文脈からすれば、やはりそのテロリストの悪夢のイメージがなんといっても強烈だ。実験映画のある種の暴力性と、描かれるものの暴力性とが重なり合って、とても息苦しい映像体験が拡がる。だけれど、のっぺりしたテレビ画像ばかりが流れるこのご時世には、どこかこういうアンチテーゼももっと欲しいところかもね……?

投稿者 Masaki : 15:32

2006年01月21日

本業、副業

自由競争だといっても、内実は自由に競争なんかしていないことが改めて露呈した今回のライブドアショック。ま、それはともかく、ライブドアが未だにIT企業だと称されているのはなんだかなあという感じ。話はえらく違うけれど、今週、聞いたことのない会社から翻訳依頼の電話がきた。聞けば、えらい昔に何度か仕事をしたことのある翻訳会社が社名を変更したのだとかいう。以前の社名には翻訳会社っぽさがあったのだけれど、新社名は印象としてそんな風ではなく、一瞬セールスの電話かと思ったほど。丁重にお断りさせていただいたのだけれど、おそらくこの新会社、翻訳業務などはもう本業ではないのかもしれない。くだんのライブドアだって、ITとか言いながらそれは副業になり、企業買収が本業になっていたわけで。

こういう本業・副業のシフトは、バブル期以降に盛んになされ、以来衰えるどころか、ますます拍車が掛かっているように思える。印象としては90年代以降のほうが、むしろ安直にシフトするようになった(?)。これは企業も人も同じ。たとえば研究者だって、特に人文系など、結構安直に他の領域に口出しするようになった感が強い。それがちょうどポストモダンばやりのころからか。ま、面白い成果が出るなら全くオッケーだけれど、20年前はそれでもずいぶん慎ましかった。仏文学者が日本文学を取り上げるぐらいで、専門領域としてオーバーラップする部分がちゃんと確保してあった。その後は学際性ということが安易に言われ、けれども人的交流が進むのではなくて、単純に異分野が安直に言及・直結されやすくなっただけのようで……。それはまあ、日本だけの話じゃないけれど(もとの文学専攻がコンピュータ社会なんかを論じたり、哲学専攻が脳科学に足を踏み入れたりとか)、ちくはぐな印象を拭えないものも少なくない。ま、本業と副業の差はどこにあるのかといったら、その分野に固有の核心的な労苦にどれほど肉迫してきたか、俗っぽくいえばどれほど修羅場をくぐってきたか、というあたりに帰着しそうなのだけれど……。あ、その意味では、ライブドアなんかも、今回の事件でようやく本物の株屋になるのかもしれない(って、存続できるならの話だけれど)。

投稿者 Masaki : 16:46

2005年12月24日

法王の赤い帽子

ローマ法王が赤のベルベット帽と緋色のケープで一般謁見に現れた話は、F2などでも「サンタのよう」といって紹介されていたが、このカマウロ(camauro)という帽子、今ではとても珍しいものなのだとか。普通、法王が被っているのは、カロッタという帽子で(イタリア語ではzuchetto)、法王は白、枢機卿は赤、司教が紫、一般の聖職者が黒ということになっている。で、この枢機卿の赤色は、おそらくかつてのガレーロという帽子(galero)から来るもの?ガレーロ帽について「SPAZIO」というサイトに面白い記事が載っている。これによると、ガレーロ帽の制度は、各種の制度設立者として有名なインノケンティウス4世(13世紀)からのものだそうで、20世紀半ばまで使われていた。赤の色はローマ教会への犠牲、身を捧げることを表すのだという。今回のカマウロ着用もまた法王の伝統回帰指向の現れ、なのだろうか?

そういえば、この時期に読むにとてもいいお手頃な一冊が竹下節子『ローマ法王』(中公文庫)。98年のちくま新書を改訂したもの。ヴァチカン市国の概要などが簡潔にまとめられている。著者はヴァチカンをヴァーチャル国家と見なしているのだけれど、このヴァーチャル国家という考え方はひょっとして国家論的に敷衍できないものかな、なんてことを思ったり。巻末には歴代の法王一覧がリストアップされている。

写真は12月上旬の東京・初台。
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投稿者 Masaki : 16:14

2005年12月04日

アレイオス・ポテール

もうすぐ4作目も映画が公開されるハリー・ポッター。ずいぶん前に、「ラテン語版が出たら買うかな」なんて記したことがあったけど、第1作に関しては今やラテン語版(『ハリウス・ポテル』)のほか、古典ギリシア語版まで出ている("ΑΡΕΙΟΣ ΠΟΤΗΡ καὶ ἠ τοῦ φιλοσόφου λίθος")。いや〜これいいなあ。読本として使えるじゃないの。これを使った「ハリポタで学ぶ古典ギリシア語」なんていいかもね。メルマガとかでやろうかしら(笑)。

このところCGを多用したファンタジー映画が隆盛で、来年にはC.S.ルイスの『ナルニア国物語』も映画になるという話。『ロード・オブ・ザ・リング』もそうだし『ハリポ』のシリーズもそうだけれど、欧米のファンタジーってどこか暗いというか、小さい子どもがみたらかなり怖い感じというか。日本の童話的な「ファンタジー」とはだいぶ違うことがわかる。けれども日本のような、くさいものには蓋みたいな生ぬるさよりも、残酷さや圧倒的に怖いものを描いて、ヒーロー・ヒロインがそれに立ち向かうという方が、教育的という意味でははるかに健全な気がする。ビルドゥングス・ロマンってそういうものよね。ずいぶん前だけれど、あるローカルなパソコン通信のネット(そんな時代があったよね)で、日本に長く住んでいたアメリカ出身の某翻訳家が「日本のファンタジーって特殊。欧米のファンタジーは別物としてファンテシーとか呼んだ方がいいんじゃない?」みたいなことを書き込んだことがあったっけ。こうしてファンタジーものが映像化されてみると、あらためてそのあたりの隔たりの大きさを感じさせられる。『指輪物語』の「中つ国」なんて童話っぽい地名だけれど、あの映画で見る限り、ミドル・アースってすんごく現実的で広い土地だよなあ。

Webcamは11月22日のアララト山。

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投稿者 Masaki : 18:41

2005年11月21日

ロスト・イン……

ボジョレー・ヌーヴォーの解禁だった17日、時差の関係で一足先に解禁になった日本のおバカなパーティの様子を、F2の20時のニュースがエンディングで流していた(例によって呆れた感じのコメントがついていたり)。なんと今年、は露天風呂みたいなところに、ワインを入れた「ボジョレー風呂」だってさ。なんでこういう馬鹿騒ぎのイベントになっちゃうんだろ(バブルのイカレ加減が戻ってきている?)。もっと普通にパーティすればいいのにねえ……しかも取材まで許したりして。またしても対外的に冷笑され、そいでもって「エキゾチック」「理解不能」として排除されるだけなのに……。

最近ようやくレンタルのDVDで観たソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』にも、そういう目線があざとく組み込まれていて、個人的にはなんだか落ち着かなかった。ごくごく平凡なラブストーリーのくせに、そうした目線を共有させることで、「ちょっといい感じの話」に無理矢理仕立てているというのが、ずるいというかこざかしいというか(笑)。日本の風景が描かれれば描かれるほど、「日本という場所」は希釈になって、主人公たちの疎外感とそれにともなう外部の遮断が、観る側にも共有されるという仕掛け……だよなあ、これ。彼らとともに、観る側が迷い込むのは、トランスレーションの世界なんかじゃなく、異質なものが自分の側に入り込んでこないよう、とことん遮断しようという薄い膜のような西欧人の自己世界でしたとさ。そういう膜を作らせている原因の一端は、確かにわれわれの側にもあるんだが……。

投稿者 Masaki : 23:06

2005年10月30日

コンピュータあれこれ

最近、出たばかりのiMac G5を購入(ほとんど禁断の初期ロット買いだが(笑))。これまでメインマシンはiBook G3だったので、その体感速度の向上はなかなか。セットアップも5分程度で終わるし、なんだか古いWindowsのころとは隔世の感も……。来年はIntel以降だというから、今後B5ノートよりも小さいMacが出ることを期待したいところだ。ハンドヘルド歓迎。それにしてもマシンを取り巻く環境もずいぶん変わった。シンクライアントも、今やUSBメモリにシステムと必要なアプリを入れて持ち運ぶ、みたいな話になっていきそうだし。

そういえばつい先日、Amazon.comを騙るフィッシングメールが来た。ヘッダの全表示を見ると、発信元がebayなのでいかにもという感じ。「身元の再確認をしたい。48時間以内に確認できないと、アカウントをサスペンドするかもしれない」という感じの文面。期限付きというのがいかにも詐欺っぽい。こういうの、気をつけないとなあ、と改めて思う。

話は変わって、8月末ごろに仏語系のメーリングリストで流れた、ロワイヤル仏和中辞典付属のCD-ROMのEBWING変換というのを、今更ながらやってみた。これでMacでも引けるようになる(Jamming経由)。手順をおさらいしておくと、Windowsマシンを用意し、これにActivePerlとEBStudioというのをインストールしておく。次いでRoyalfj0.4という変換ツールをインストールし、実行する(600MHzの古マシンで1時間くらいかかった)。最後にEBStudioで変換(これも結構時間がかかる)。こうして出来たファイル(110MBくらい)をMacにコピーして、Jammingで辞書登録する。さらにDicCompressorで圧縮すると20MBくらいになり、これで愛用のsimarion IIIにコピーすると、EBPocketで引けるようになった。うん、これで持ち運びもOK。時間はそれなりにかかったけれど、なかなか快適。

投稿者 Masaki : 16:12

2005年09月30日

テンマのいる世界は……

先に触れたアニメ『モンスター』は、国外で活躍する天才外科医テンマが主人公なのだが、そこには日本的な均質性がいわば「拡張されて」、ほとんど外国人に対する障壁がないような(外国人という認識が極端に薄いような)、ある種の理想的世界が描かれていたともいえるのかも。テンマのキャラクターが外に向かって開かれているのと同じように、テンマを取り巻く人々も、あたかも異質なものなどなにもないかのように、同じまなざしを返してくる。あるのは個性同士のぶつかり合いだけ。ま、日本的なアニメ(コミック)の均質性といってしまえばそれまでだが、確かにヨーロッパなどの限られた世界、例えば学問的世界なら、そういう部分は現実にあるかもしれない。そこで問われるのは能力主義・成果主義であって、人種や文化的差異などは問題にされない……はず、原則として。

最近は理系に限らず、人文学の分野でも「世界的に通用する」ことをめざす若い人たちが増えているという。それはそれで頼もしい限りだけれど、ただ気になる部分も。たとえば、そういう世界進出組が、国内待機組をなにやら蔑視するようになっていきそうな点。国内待機組には待機組の役割があるのであって(教育・普及活動、さらには別視点での比較論など)、そういう人たちが将来の進出組(次世代とか)の下支えとなっていくのは当然なのだから、そのあたりへのリスペクトがないと、学知全体の底上げには繋がっていかないんじゃないかと。学問的な「市場」という言い方をすれば、国際的ディーラーと国内のディーラーが違うのは当然だし。あるいは音楽の世界を喩えにするなら、誰もが世界的なピアノ・コンクールで優勝できるわけではなく、一方ではレッスン・プロなどが底辺を広げる重要な役割を担っているのだし。また、彼ら進出組の上昇志向が学問の専門主義を助長して、本来パブリックドメイン的であるはずの学問的営為が、自由主義的イデオロギーよろしく競争ばかりになってしまったら(逆説的に国内組でそれが助長されそうな気配も)、それはそれで不毛だよなあと。競争が全般的に支配してしまえば、学問的対象への愛すら、おそらくかるく吹っ飛んでしまうんじゃないかしらん。こういうのが単なる杞憂ならいいんだけど……。ま、どちらもオゴらずクサらず頑張ってほしいもんだ。

投稿者 Masaki : 23:17

2005年09月02日

ベクトル階級?

不謹慎を承知でいえば、ハリケーン「カトリーナ」上陸後のニューオーリンズの洪水映像は、屋根からヘルプを求める人の姿が、さながらパニック映画・ホラー映画のよう。さらに水が引いた後の街の様子も、スマトラ沖地震の津波映像のよう。しかも映像に映し出される被害住民はほとんどが有色人種。この既視感……うーん、映像の刷り込みを改めて感じさせる。同じような構図に同じような人物像。反復され重なり合うディテール。なんだか報道の映像が以前にもまして画一化・一様化してきている感じだ。制度としての方向づけ……ベクトル?

マッケンジー・ワーク『ハッカー宣言』(金田智之訳、河出書房新社)という本をチラチラと眺めてみたのだけれど、それにベクトル階級というのが出てくる。世の中の方向づけを担う制度や機関、組織などをいうらしいのだが、それへの抵抗勢力として、ハッカー階級が想定されている。コンピュータ世界のハッカーではなく、より拡張した意味で、情報の抽象化を自分の手に取り戻そうとする者たちらしい。なんだかこれ、ちょっと古典的なまでに二項対立的・階級闘争的?そんなに抽象的な対立の構図をぶち上げたら、逆に戦えないって。また、断章になっている割には、うたい文句にあるような、ギ・ドボールやダン・スペスペルに連なるポエジーも批評的な鋭さもちとインパクトに欠けるし。ハッカー概念を拡張して用いるというのもどうなんだろう。hackerというと俗語で「不器用な奴」みたいな意味もあるんだけどねえ……。とはいえ、世の中がある方向に無理矢理向けられてしまう事態にどう対応するのかというのは大きな問題ではある。間違っても、最近報道されたようなアンチ資本主義だからってんで万引きを鼓舞するようなやり方はお断りだ。なにしろそれは、非生産的であるばかりか、無差別テロなんかともとの発想が一緒だから。

投稿者 Masaki : 19:38

2005年08月27日

欠如ということ

残念ながら行けなかったのだけれど、「消失」をテーマにした展示会がこの夏あったらしい。こちらの報告記事をどうぞ。見慣れた日常の品が「一部欠けている」というのは、なんだかとても落ち着かない気分になるもの。プロセスとして消失していくという場合にはなおさらだ。そういうプロセスを描いて秀逸だったのが、多少古いけれど筒井康隆『残像に口紅を』など。こちらは少しづつ文字が消えていくというもの。けれども面白いのは、主人公がそうした消失に対して意識的であり、なんとか失われたものを回復しようとジタバタすること。もちろん、文字だけの世界で文字が消えていくというループであるだけに、その回復しよういう努力は悲劇的・悲壮的だ。

この夏は戦後60年ということで、戦争の記憶の風化みたいなことが一部で取り上げられたりもしていたが、考えてみると、世代が移りゆくにつれて戦争の記憶が薄らいでいくのはある程度仕方のないこと。問題なのは、そうした消失を回復しようという動因が次第に乏しくなってきていることだ。欠如を補うはずのイマジネーションの方も貧困化してきている、ということなのかしら?

新プラトン主義なんかの文献を読んでいると、人間をはじめ地上の被造物が十全さを欠いた存在であることが繰り返し出てきて、そうした欠如・欠落が西欧の思想的な根幹をなしていることを今更ながら思わせられる。世界に投げ込まれることがすでにして欠如の状態をなす、なんて実に悲壮ではあるけれど、それだけ欠如の回復を促す力は強くなるのかしら。そうした欠如回復の流れは心理学と結びついた物語論などにまで及んでいるし、思想的な営み全般が、そういう欠如をなんとかして補っていこうという動きなのかもしない、と。日本などに比べて西欧社会が現在でも死者の弔いにはるかにヴィヴィッドな反応を示すのも、あるいはそういう欠如回復の動因が文化的な根底に横たわっているからかも……なんて。うん、そういうアルカイックな系譜も辿り直したらとても面白い道行きになりそうだ。

投稿者 Masaki : 20:26

2005年06月29日

家系図……

フランス2の27日の20時のニュースでやっていたのだけれど、フランスでは最近、家系図を辿るいわゆる「ルーツ探し」がセラピーとして活用されているのだという。映像では、ルーツ探しで出った「親族」が一同に会したりして、和やかな雰囲気を醸し出していたりしたのだけれど、ルーツ探し自体は別に悪くないものの、ちょっと気になったのは、セラピストと称する人が誘導する形で、家系からいろいろな「心理的問題」やいわゆる「業」のようなものを指摘し解消していくのだというその手法だ。これって、一つ間違うとほとんどそこいらの新興宗教と変わらなくなくなってしまう。「親の因果が子に報い……」というか、そういう家系にまつわるインシデントの解釈は、西欧でも結構オカルトティックにもてはやされていたりとかするようだ。そりゃ、確かに遺伝特性としてある種の生物学的な傾向は受け継がれるのだから、祖先の行いなどを辿れば、自分の行いにオーバーラップする部分も当然出てくるだろう。けれどそういう部分を離れて、「霊性」みたいな話になったりしたら、もうこれは怪しい以外のなにものでもない。というか、それは単なる自己理解を逸脱・曲解した「信仰」になってしまう。

21世紀は「霊性の時代」かもしれない、といった話を誰かがしていたと思ったけれど(内田樹あたりだっけ?)、むしろ問題なのは「大きな宗教の大きな物語」が崩れ、小さな、それでいて先鋭化した「小さな物語」が蔓延・跋扈する時代になってきているということかも。だからこそ、信仰というブラックボックスを徹底的に批判する姿勢が、ますます重要になってくるんじゃないかなという気もする。最近、ミシェル・オンフレの新刊『無神学論』("Traité d'athéologie", Grasset, 2005)を読み囓り始めて、そんなことを改めて想っている……。

投稿者 Masaki : 23:47

2005年06月17日

砂と霧の……イラン?

DVDで映画『砂と霧の家』(ヴァディム・パールマン監督、2003)を観る。税金未払いで家を差し押さえられてしまった女性と、転売目的でその家を買ったイラン系の移民一家の確執を描くドラマ……なのだけれど、主な登場人物の誰にも共感できないという作品。その意味ではやや珍しいかもしれない。夫が出ていったという女性(ジェニファー・コネリー)はまったくシャキっとしていないし、それを助けようとする警官は家族を大事にしないし、警官の妻は夫婦の不和を子どもに見せまくるし。一方、転売目的の移民の親父(ベン・キングスレー)は、79年のイラン革命時に亡命したという設定なのだが、金がないというわりには表面的な贅沢を決して捨てようとしないし、その妻は実情に疎く脳天気に振る舞っているし。うーん、どいつもこいつも自己チューで、コミュニケーション不全に陥っている、という基本設定。なるほどアメリカってそうなのかもなあ。唯一興味深かったのは、米国に移り住んだイランの亡命者たちが描かれるという点か。冒頭でその親父は、イラン革命を批判しそうになる。石油資本で潤っていた上流階級の出(軍人)だという設定なのだが、亡命後はブルーカラーに身を落としつつ、そういう不動産の転売などを手がけるしかない。確かにこれっていかにもありそうな話だ。

そのイランはちょうど大統領選だ。最有力候補とされるホメイニの「弟子」ことラフサンジャニは、一週間ほど前の声明で、アメリカとの対話路線を強調したという(ラフサンジャニはイラン革命後に凍結された米国内のイラン人の財産について、その解除を求めている)。イラン革命がアメリカ主導の近代化を排除したものだったことを考えると、時代がずいぶん変わったことが改めて窺える。そういえば女性の社会進出もめざましいと聞いた。中東世界に原理主義の台頭を招く大元を作った国は、果たしてまた別のシフトの中心になることができるのかしら?

投稿者 Masaki : 15:33

2005年04月15日

第四次十字軍

チェックしていなくて行きそびれてしまったのだけれど、恵比寿の日仏会館で昨日、「コンスタンチノープルに向けた第四次十字軍の方向転換:咎めるべきは誰か」と題する講演会があったようだ。講演者は歴史学者のミシェル・バラール。うーん、残念。第四次十字軍(1202〜05)はコンスタンティノープルを制圧してラテン帝国を確立したわけだけれど、本来はエジプト行きを目論んでいたはずなのに、ヴェネチアの商人らとの駆け引きの末、ヴェネチアのライバル的商業都市だったコンスタンティノープルを攻略し、略奪を行ってしまうという逸脱ぶりが有名だ。なにしろキリスト教徒同士の戦いになってしまったわけで。このヴェネチア商人らの暗躍という部分に、おそらく新しい史料によって新しい光が差す可能性がありそうな気はする。バラールの話もおそらくそういう方向で進んだのではないかと思うのだけれど、なんだかこれ、利権的な側面から見たアメリカのイラク介入など動きと見事にパラレルになっている気もする。コンスタンティノープルのその後は、皇帝となったフランドル伯ボードワン1世のもと、十字軍の従軍騎士たちとヴェネチアの分割統治が行われ、ラテン帝国は1261年にボードワン2世がニカエア帝国に破れるまで続き、ヴェネチアはその後も長く(ギリシャ人らの反発を抱えながらも)ビザンチン帝国再興後も領土の支配権を保っていく。うーん、イラクなどはどうなのだろう。歴史は繰り返すのか、それとも……。

投稿者 Masaki : 19:57

2005年04月14日

探求の姿勢

岩波書店の『世界』5月号。特集は教育問題で「競争させれば学力は上がるのか」という表題が付いている。この中で気になるのは、「学力つけても職はなし」と題された一文。ま、これに限らず、高校までの学習とか大学以上での学問とか、いずれも雇用に絡めて論じられることが多いようなのだけれど、学問的探求のモチベーションを雇用からだけ見るというのは、ちょっと狭い見方だという気もする。学ぶことそれ自体が自己目的になるという側面も当然あるわけで、もし学力低下なんて話が本当なのだとすれば、雇用に即結びつかないといった話よりも、そういう学ぶこと自体の自己目的化を促さないような環境が問題なような気もするのだけれど……。例えば能力別編成とか習熟別学習とか、「自分にとって異質な才能や個性」がまわりにいる可能性を低めれば効率的だというのはおそらく間違っている。学ぶことを自己目的化する一つの側面は、そういう異質なものから受ける刺激なのではないかと思われるからだ。

でもって、そういう学びの自己目的化は初等教育から高等教育まで、本来は基本線をなしていなければならないように思う。その同じ号の別の連載「日本の生命科学はどこに行くのか」でははからずも、海外で活躍する研究者がインタビューに答え、西欧文化においては、科学者が審理の探求という使命感を大いに意識しているということを答えている。探求意識そのものを軸として、研究体制が組織され制度的にも確立されることが大事で、目先の経済的な利益ばかりに惑溺するのは危険だと、警鐘を鳴らしてもいるのが印象的だ。

投稿者 Masaki : 17:05

2005年03月17日

ケア……

先週の父親に続き、今度はカミさんが調子を崩し(発疹ができて熱もあった)通院。最初にかかりつけの、いわば一般医に看てもらったものの、そこで診断がペンディングされて専門医が紹介された。で、そちらもまた診断はペンディング。対処療法的に熱を下げたり痛みを緩和したり。診断というのは言うまでもなく既存のカテゴリーへの区分なわけだけれど、一般医も専門医も膨大な数のカテゴリーを把握しなくてはならないはずで、そういうカテゴリーそのもののアップデートも大変なのだろうなあ、と思う。医師免許を更新制にするなんて話も最近出てきているみたいだけれど、どういう話になっていくんだろうか。本来はそうした学知の更新こそが一番重要なのだろうに……。

治療という話の関連でいきなり飛ぶが、ローマ法王の入院も先にずいぶん騒がれていた。France 2なんかのニュースでは、法王の出身地ポーランドはチェンストホーヴァのヤスナ・グラ修道院にある「黒い聖母」も取り上げたりと、かなり包括的な取り上げ方だった。それに関連して、最近ちょっと目を通しているのが、歴史学者バリアーニによる『13世紀の教皇の宮廷における日常生活』("La vita quotidiana alla corte dei papi nel Duecento", Editori Laterza, 1996)。余談ながら、購入してから気づいたのだけれど、イタリア語版は実はオリジナルではなく、Hachetteから出た仏版がオリジナル("La cour des papes au XIIIe siecle")。教皇庁の生活の諸相を総覧的にまとめた好著。身体のケアに関する一章もあり、特に若返りへの関心について、ロジャー・ベーコンの論が簡単に紹介されていたりして興味深い。ベーコンは、人間の寿命は楽園からの追放以来自然に反して縮められており、それを回復する方法は、錬金術や未来予測、天文学などからもたらされると主張する、という。これが13世紀の教皇周辺でも取り上げられていたというから興味深い。うーん、なかなか面白そうだけれど、錬金術方面は広大すぎてうかつに手を出せない領域。けれど、アヴェロエスやアヴィセンナもぼちぼちと読み囓り始めていることだし、そのあたりのヨーロッパへの影響関係などを中心に、さしあたり中世の医学についても概論程度は押さえ直しておくべきかな、と思う。

投稿者 Masaki : 23:44

2005年03月13日

ミッション

今回の帰省、行き帰りの新幹線で「トランヴェール」という車内誌を読んだのだけれど、それの特集が「早春の鎌倉、古寺と歴史を巡る」だった。13世紀の武家政権は、同時に禅宗の普及の時代でもあったわけだけれど、その禅宗の広まり方、最初は宋からもたらされた文物が武士の気を引いたのだという。建築様式では唐様、仏具の細工、墨跡、立ち振る舞いなど、なるほどそういう珍しいものが最先端文化として紹介され、禅宗普及の素地を作ったというわけだ。

文化的なものは宗教の普及に先行する。すると思い出されるのは、少し前にDVDで見直した『ミッション』(ローランド・ジョフィ監督、1986)。ジャングルの奥地に入った宣教師は、最初笛の音で原住民の関心を惹きつけるのだったっけ。日本への宣教も同じように奇異な文化的なものの紹介から始まったことを考えると、このイエズス会のメソッドはとても興味深い戦略に思われる。そういえば最近、ウィリアム・バンガート『イエズス会の歴史』(上智大学中世思想研究所監修、原書房)が刊行されていた。まだ読んでいないのだけれど、そういうメソッドの成立をめぐる話は出てくるのかしら?

映画自体は、政争の道具になってしまった宣教団が、それでも原住民のために戦う悲壮感溢れる姿を描くわけだけれど、劇場公開当時も言われたように、大作の割には薄っぺらく、リアリティを感じられないのは、一つには宣教のプロセスがさっぱり描かれず、また、徹底して現地人の視点を介入させていないからだろうなあ。奴隷売買をしていたデニーロ(役名は忘れた)を、原住民はそうやすやすと許せないだろうし、白人が原住民を支配している構造においては、実はデニーロも神父たちも、さらにはその他の総督達も、基本的スタンスにそれほどの違いはない……。

投稿者 Masaki : 21:44

2005年03月12日

フレキシブル

今週はもともと帰省する予定だったのだけれど、父親が温泉で具合を悪くし緊急入院した。何のことはないインフルエンザだったのだけれど、そういう体調が悪い時に湯に浸かってはならん、と病院から注意された。当たり前だよなあ。一度予定を組んだら変えようとしない融通のなさ。これはまさしく、昭和一桁世代(1925年〜35年)の戦前教育のなせるわざ、というか、植え付けられた家父長的価値観(イデオロギーっすね)、という感じがしなくもない。ころころと立場を変えるのは家父長らしくない、というのが親の考え方。今回はさらに宿泊場所のキャンセル料が勿体ないというケチな発想も絡んでいる。うちの父親はそれでも若い頃は組合運動とかにもそれなりに精を出していたし(公務員だったのだけれど)、家事なんかもそれほど厭わないのだけれど、歳を取るにつれ、なにかそういう根っ子のイデオロギー的なものへのこだわりが増してきているような気がする。げに恐ろしきは教育か。しかもその後の社会経験などが複雑に絡まって、一種奇妙なキマイラが出来上がっているようで始末が悪い。社会派を気取るわりにすべて受け売りで、自分のことになるとやたらセコく、権威にも弱いから自分もどこか権威的に振る舞いたがる。今回の入院騒ぎ、3日で退院となったものの、まだ完治ではないのに、家に戻るなり、かかった費用の計算をしたり、掃除しようとしたり、外出しようとしたり……自分の意のままにならないと癇癪さえ起こす。

そういえば、世間ではなんだかまたゆとり教育を見直す、とか言っているようだけれど、小学校の学力低下って、先進国で広く見られる現象のようにも思えるし、とするなら、日本のゆとり教育だけが原因というわけでもないだろうし。子どもの生活環境全体が問題なのに、カリキュラムだけをいじろうとしているのは、何か裏がありそうで、なんだかなあ、という感じだ……戦前のような、偏屈な価値観を吹き込むようなことにだけはどうかなりませんように、と。

投稿者 Masaki : 18:25

2005年02月26日

マロン派

ハリリ前首相の暗殺で、くすぶっていたシリアへの反発がいよいよ表面化し緊張感が高まっているレバノン。同国の宗教的多彩さは半端ではないようで、なかなかに複雑だ。報道でちらっと名称が出てきたキリスト教のマロン派などは、中東のカトリックのグループとしては最古・最大のグループで、レバノンでは最大のキリスト教社会を作っているのだという(中東教会協議会編『中東キリスト教の歴史』(日本基督教団出版局、1993))。7世紀にシリアのキリスト教徒マルウンがアンティオキアからレバノン山北部に移動したのが起源なのだそうで、西欧の十字軍がやってくるとそれを歓迎したという。確かに13世紀ごろの巡礼記などを見ると、西欧から中東に向かった一行を地元のキリスト教徒が歓待し、一行は返礼として説教をしたりする、なんて記述が見られたりもする。フランク族、ひいてはフランスとのつき合い(それは第一次大戦後のレバノンの独立国家としての歩みとフランスによる支援にまで及ぶ)は、そんな昔にまで遡るというわけだ。うーん、やはり中東と西欧の関係の古層はかなり興味深いものがある……。

投稿者 Masaki : 20:17

2005年02月15日

理解をめぐる雑感

中世・近世科学史のサイト「ビブリオテカ・ヘルメティカ」は、その筋では結構有名なサイトなのだそうで、確かに有益な情報が少なくない。カルキディウスの『ティマイオス注解』のイタリア語訳が出ているとか(序文だけの羅独対訳本が入手不可になっていたっけ)、アヴィケンナの医学全書のスペイン語訳が出ているとか、そういう書誌情報はなかなか伝わってこないので、ある意味大変ありがたい。若い研究者がやっているサイトのようなので、多少のアクはあるけれど、ま、それだってご愛敬か。例えば同サイトは、ある日本の学会誌について、アルベルトゥス・マグナスを取り上げたものがないことや、そこで取り上げる書評にイタリア語圏のものがないことを指摘し、それが限界かと切り捨てているけれど、これはまあ質的な問題というより構造的な問題でしょうね。日本の大学でアルベルトゥス・マグナスまで手を伸ばすドイツ語系の人はどう見積もっても多くはないだろうし、中世専門というようなイタリア語系の人はもっと少ないだろうし……。旧文部省が大学院をいくら重点化してきたとはいっても、そういう裾野が広がっていったようにはあまり思えないし。逆に、例えばマグレブ社会の研究やりたいって割にアラビア語とかには関心がないとか、レヴィナス研究したいって割にタルムードそのものには興味がないとか、そういうどこか偏った専門性を標榜する人たちが増えているようにも思えたり(……おっと、この傾向は別に最近のことじゃなく、昔から見られたよなあ。自戒と反省もこめて言うのだれど)。けれども、なんらかの理解を深めたいと思えば、たとえ理解しようとする対象が極小的なことであっても、どこかで広い視野を取る必要が出てくるはず。その両者の行き来こそが、理解しようとすることの面白さなんであって、例えば論文を書くことの自己目的化なんかとは比べものにならない高揚感や苦闘があるわけで。思うに自己目的化には二種類あるんでしょう。一つは身体に根ざしたもの(この場合なら理解することへの、理あるいは解する対象へのこだわり)、もう一つはあくまで頭だけで考えたもの(就職に必要な論文点数が足りないから書くのだとかいう不純な動機)。後者の浅いモチベーションを粉砕するのは、やはり前者の身体感覚なんだろうなあ、と今さらながら改めて思ったり。

投稿者 Masaki : 00:39

2004年12月25日

モミの木

もうクリスマス。フランスでは、ライシテ(非宗教)法の関連で、クリスマス休暇前にモミの木を飾った学校で議論が起こったそうだ。モミの木は公的な場での宗教的シンボルを禁じる法律に抵触するんじゃないの、という話。今や世俗的なホリデーのシンボルだといくら弁明したところで、モミの木がクリスマスに関連するのは否定しがたいと思うのだけれど……法の規制強化がどんな副次的影響をもたらすかを示す面白い事例だよね。

ジャン・ポワリエほか編纂の『風習の歴史』第1巻("Histore des moeurs I vol.1", folio-histoire, Gallimard, 1990)によると、クリスマスにまつわる伝統は大きく二つあって、一つは地中海ラテン系の「crèche(キリスト生誕模型)」を飾る風習。それに対して、赤のリボンを付けた常緑樹を戸口や窓につるしたり、モミなどの木を立てるのはゲルマン系の風習。常緑樹は生命力のシンボルで、『シンボル事典』("Dictionnaire des symboles", Robert Laffont / Jupiter, 1982)なんかに詳しく出ている。けれども風習として木を立てるというのは意外に新しく、16世紀のアルザスの旅行記で言及されるのが最古なのだとか。16世紀のブレーメンの職人組合の祭りが起源だという説もあって、ドイツ全体に広がったのは19世紀のことなのだそうで。図像的には、16世紀のドイツの画家、ルーカス・クラーナハ(父)による銅版画が最も古いとされている。銅版画『聖ヨハネス・クリソストムスの悔悛』あたりがそれらしい。こういう話はなかなか面白いよね。

(久々にLiveCamシリーズ:2004年10月29日のパリ)
paris1029.jpg

投稿者 Masaki : 17:36

2004年11月28日

正書法とか

最近4年ぶりに携帯の機種を変えた。緑のバックライトが点灯する白黒液晶だったのだけれど、このたび晴れてカラーに(笑)。メニューの操作性などもだいぶ改善されている気がする。とはいえ文字入力の面倒さは相変わらずで、一向に慣れない。

日本の携帯事情が西欧の数歩先を行っているのは周知の事実。アメリカでも欧州でも、流行はショートメッセージサービス(SMS)。これって、5年以上前のPHSでも実装されていたよなあ。顔文字の複雑さほどではないにしろ、外国でもいろいろな表現方法を駆使しているらしい。Qu'est-ce que c'est ? は Kesk C ? なのだとか。オンライン版Le Mondeのニューズレターにも取り上げられていたかれど、最近フランスで、このSMS表記による対訳(笑)本が出版されて話題なのだとか。1789年の人権宣言(D'klara'6 dê droa 2 l'omm É du 6'toay'1 26 out 1789)やマルセイエーズなどのSMS表記を掲載している「Prof SMS」というページは、一種のパロディサイトとして可笑しい。中世の写字生が各種の省略記号を考案していたように、これもまあ一種の省略記号。本来の正書法をかいくぐる簡略表記だけれど、こういう部分からも言葉は当然変わっていくだろうなあ。

これに関連して、というわけでもないけれど、日本語での音声表記にも変化の兆しが?映画『ミシェル・ヴァイヨン』って、Vaillantの綴りでヴァイヨンと読ませている。従来の書きかたならヴァイアンとかヴァイヤンとかだったろうけれど、なるほど鼻母音のanは「オン」みたく聞こえる(南仏だと違うが)。けれどそれではジャンはジョンになって英語っぽいし、パスカルの『パンセ』は『ポンセ』なんて表記になるのかしら。誤表記なのか意図的なのか、たまに某公式仏語教育機関の文化イベント紹介ページなんかにも、ジョンなんたらという人名表記があったりするが、うーん、ま、定着するしないはともかく、原音表記への指向性だけは感じ取れるかな。ついでにいうと、古典ギリシア語なんかも、表記のせいでアクセントが正しく反映されなかったりする。アイステーシス(感覚)なんて書くと、テーの部分が長母音なもんだから、ここにアクセントを置いて読んだりする人がいるようだけれど、それは間違い。この語は本当はイの上にアクセントが来るわけで。確かにそんなことまで表記しようとしたら大変だけれど、間違って平然と読まれても困るよなあ、と……。

投稿者 Masaki : 23:38

2004年11月24日

モルゴン

ワイン関係の通訳仕事の話が来たかと思ったら、その後すぐにキャンセル。まったく失礼しちゃうぜよ。そんな半端な仕事の回し方してんじゃねえぞ>某エージェント。ま、それはともかく。折しも先週はボジョレーヌーヴォーの解禁。「ボジョレーヌーヴォーはやはり欠かせない」なんてほざいているのはバブル期の自己決着をいまだにつけ損ねている輩に多い気がするが、本来は今年の出来を計る指標でしかなく、いずれにしても個人的にはあまり興味はなかったものの、今年は某経済新聞の購読申し込みがキャンペーン時期と重なり、タダで一本もらってしまった。で、これがモルゴン村(ヴィリエ・モルゴン)のもので、個人的にはちょっと嬉しい。モルゴンのワインは近所のひいきの飲み屋(最近行っていないのだけれど)で出していて、全体的に重くてコクがあって、味も複雑……うん、なかなか悪くないと思う。畑(climat)により多少当たりはずれはあるみたいだけれど、ものによっては一般の酒屋で結構安く買えるのも嬉しい。ヴィリエ・モルゴンの紹介ページを見ると、ブドウ栽培は中世から行われていたのだというが、残念ながらその文献史料については詳しく触れられていない。うん、ちょっとこの辺りの話も調べてみたい。

投稿者 Masaki : 22:11