2006年12月26日

「ビザンツ歴史紀行」

西欧ではなく日本の中世史の著名な研究者が記した、ビザンツ文明圏の旅行記というのを興味深く読んだ。今谷明『ビザンツ歴史紀行』(書籍工房早山、2006)。イタリア、ギリシア、トルコと、かつてのビザンツ帝国に関係する地をめぐった旅行記。遺跡探訪の詳細と、過去の文献や歴史的な背景のコメントが絶妙に重なり合って、はるかな歴史への思いをかき立ててくれる。著者の専門である日本史との比較論的な視点も各所にちりばめられている。中でもとりわけ貴重なのが、ギリシア編でのアトス山巡礼記。そう簡単には入山できないと言われている修道僧らの文字通り「聖地」だが、著者はそれを軽やかな足取りで、飄々と渡っていく……。うーん、お見事。末尾で著者が構想を語っているビザンツの封建制と中世日本の封建制の比較論、ぜひ読んでみたいものだ。

カバーを飾っているのは、ラヴェンナのサン・ヴィターレ寺院のモザイク画。ユスティニアヌス帝を描いたもの。
justinian.jpg

投稿者 Masaki : 00:51

2006年12月23日

剣をめぐる論考集

『続・剣と愛と--中世ロマニアの文学』(中央大学人文科学研究所編、中央大学出版部、2006)に目を通す。今回の論集は「剣」の文学的(文献的)表現をめぐる論考が多く、扱う題材は多岐にわたっていて大変興味深い。まさに競演という感じ。個人的にとくに面白かった論考をピックアップしておくと、まず小路邦子「エクスカリバーの変遷」。ジェフリー・オブ・マンモスの「ブリタニア列王記」から始まるアーサー王の剣(カリブルヌス)は、クレチアン・ド・トロワの「ペルスヴァル」ではガウェイン(ゴーヴァン)が持っていたりするが、ロベール・ド・ボロン「メルラン」で原型ができあがり、そこから先、多くの流布本に担われ少しずつ変貌していく……。意外にこういった変遷史はこれまでちゃんと扱われてこなかったような気もする。小川直之「サラディンを倒したイスラムの名刀マルグレ」は、本当は病に倒れたイスラムの英雄サラディンが、ヨーロッパ側の伝説(というか文学作品)では、同じく十字軍を苦しめたコルニュマランのもっていた剣マルグレによって(その剣はその後、紆余曲折を経てジェラールなる兵士の手に渡る)命を落とす、とされるのだという。この話から、サラディンへのキリスト教徒側の複雑な思いが浮かび上がる、という寸法だ。

鈴木圭子「時代としての剣」は、なんとビンゲンのヒルデガルトの幻視における剣のイメージを分析したもの。そこでの剣は時代区分(時間の表象)と関係するのだという。その独特な諸特徴をまとめた後、ヒルデガルトの歴史認識にまで踏み込もうとする。なるほどこういう切り込み方はなかなかに刺激的だ。仮谷浩子「聖ペトロの剣の行方」は、有名なエルチェの聖母被昇天劇の時代的変遷を追ったもの。その台本に中にとりこまれた、聖ペトロが剣を振り回す場面の由来や変遷を、実に手堅くまとめている。ほかにも、人類学的な知見からのアプローチなど、深みのある論考の数々がある。巻末に、この研究チームは2007年3月でいったん解散するとある。ちょっと残念ではあるけれど、それでももう1冊くらいは出そうな感じもするので、期待したいところ。

投稿者 Masaki : 00:21

2006年12月14日

「陸と海と」

数ヶ月前に読んだフランコ・カッサーノの『南の思想』で言及されていたカール・シュミットの『陸と海と』("Land und Meer", Klett-Cotta, 1954-2001)を読んでみる。これ、独語版を注文した後で、最近邦訳が復刊になったことを知った。いずれにしても、これは海の勢力圏と陸の勢力圏との争いという構図でもって西欧の歴史を振り返り括り上げるという、空間表象をめぐる政治学。バシュラール的な詩学ではないけれど、これもまた一種の詩的想像力による叙事詩といった感が強い……。カッサーノが指摘していたように、ここにはどこか、大陸の側からの海の勢力圏に対するルサンチマンというか、おぞましいものの抑圧のような視線が感じられる。海(あるいは沿岸部)というのは、やはり奥まった大陸の覇権を脅かす「他者」なのだなあ、と妙に納得する。シュミットは、現代においてはエレメントとしての海と陸との制圧戦は終わり、今度は火(技術)や空気(宇宙)のエレメントが浮上するという「予告」を述べているけれど、事態はそれほど割り切れる形では展開せず、いよいよ複合化したエレメント(四大元素?)が不気味に忍び寄っているかのようだ。カッサーノのいうような、陸と海の中間を行く中庸の姿勢は、いよいよ難しくなっている気がするのだが……。

投稿者 Masaki : 19:55

2006年11月23日

「ギリシア語文法」

高津春繁『ギリシア語文法』(岩波書店、1960-2006)を購入。94年に復刊されて以来、品切れ状態で(アマゾンのマーケットプレイスなどでは3万円の値が付いていた)、まさに待ちに待った復刊。古典ギリシア語の文法書としては、国内で右に出るものはないとされてきた貴重な一冊。45年も前の著書だけれど、当時の(また戦前戦後の)古典学・古典語学のレベルの高さを目の当たりにする思い。とても刺激的だ。岩波の英断に感謝。同じ著者の『基礎ギリシア語文法』(北星堂書店、1951-92)も、入門編ながらとても懇切丁寧な解説がすばらしい。この92年版は読本と合本になっていて、すぐに読解演習に進めるのも良い感じ。古典語復興にぜひ。

投稿者 Masaki : 23:22

2006年10月27日

サイードの人文学擁護

サイード『人文学と批評の使命』(村山敏勝・三宅敦子訳、岩波書店)を読む。遺稿などを除き、完成した本として出たものとしては「遺著」にあたるものだという。晩年の仕事、というのがサイードの晩年の関心だったとかいう話だったと思うけれど、なるほどここでは、すさまじいまでの危機意識をもって、人文学と批評のいわば再建を謳っている。ベースとしているのがヴィーコだったりする点に、ちょっと思いがけなく感動したり(「人がほんとうに知ることができるのは人が作ったものだけである」(p.14)というか、人は、人が作ったものを通してしか、人と真には関われない、ということを、以前から思っているわけなんだけれど)。古典といわれるものの再読に、歴史を開く場、闘技の場(p.30)を見ようという熱いメッセージだ。4章では、アウエルバッハの『ミメーシス』にその実践の具体例を見いだしている。「探求と発見の感覚」(p.125)を湛えたアウエルバッハのテキストを読むサイードもまた、「喜びと不確かさを気取らずに読者と分け合」っているという、この二重の批評的実践。さすがサイード。訳者のあとがきにある遺稿の音楽論もぜひ読みたいところ。

投稿者 Masaki : 20:30

2006年10月09日

カントーロヴィチ

「書物復刊」は今年で10周年だそうな。今年は充実のレパートリーで、カントーロヴィチ(そちらの表記ではカントロヴィッチ)の『祖国のために死ぬこと』(甚野尚志訳、みすず書房)もその一冊。これは論集で、表題作は、古代世界において情緒的価値をもっていた「祖国」の概念が、いちど宗教にからめ取られ、再び12世紀以降に「王権」と結びついてその情緒的価値が復権するプロセスを論述したもの。神秘体としての国家の成立というテーマは、後の『王の二つの身体』に結びついていく重要なものだけれど、個人的にとりわけ興味深かったのは、それに関連する国庫の成立の話。キリスト教の財産論の起源をめぐる考察の一端としても、これはとても参考になるもの。それから、中世からルネサンスにかけての芸術理論と法という、一見関係のなさそうに見える事象の連関を説いた末尾の論考も刺激的。やはり当時の法学の問題は避けては通れない、ということかしら。

投稿者 Masaki : 10:27

2006年09月21日

海のプレゼンス

それほど期待せずに読んだら、個人的には案外当たりだったのが、フランコ・カッサーノ『南の思想−−地中海的思考への誘い』(ファビオ・ランベッリ訳、講談社選書メチエ)。スローライフに象徴される反自由主義の理論的考察なのだけれど、ちょっと面白いのはその着想が、バシュラールじゃないけれど、海、それも地中海が醸す地勢的な詩的想像力にあること。で、そうした想像力でもって西欧思想の根源を本質に迫ろうというのが、なかなか好印象を与えてくれる。特に第二章は、陸と海の境界としての沿岸を、専制と自由の狭間、中庸の思想に重ね合わせているのが興味深い。なるほどハイデガーの陸へのこだわりは海へのアレルギー反応、ニーチェの持つ海の浸透力への抵抗だったが、反動で権力への意思を突き進んでしまう。一方のニーチェ系のポストモダン思想は、ノマディズムを短絡的・消費的にブルジョワ化してしまう。一方が再中心化ばかりなら、もう一方は脱中心化ばかり。むしろ真に豊かな思想はギリシアのもので、そこではノストス(帰郷)、境界の行き来が中庸への道を開いてくれるかもしれない……というわけで、まさにこれはオデュッセウス的叡智だ。この海の想像力は、まさに「内海」ならではのものかもしれないと思う。外洋に直面するような地勢ではこうはいかない。外洋の場合には、どこか外洋への恐怖と内海へのあこがれといったものが、おのれの想像力の深いところに住まわったりしないのかしら。

Webカムから、9月のパレルモ。うーん、ギリシアあたりのWebカムって見あたらないなあ。
palermo0609.jpg

投稿者 Masaki : 23:47

2006年08月31日

政治制度のバックボーン

先頃出た『思想としての<共和国>』(レジス・ドゥブレほか著、みすず書房)はちょっと不思議な体裁(というか内容構成)。単行本表記としては初めて、ドブレではなくドゥブレにしている。89年のドブレの論考「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」(水林章訳)を中心に、来日時の日仏学院での三浦信孝氏との対談、水林氏による講演、さらに樋口陽一氏とその二人による鼎談が収録されている。なぜ民主主義者ではなくデモクラットと訳しているのかは、水林氏の講演に答えが出ているけれど、89年の論考はメディオロジー以後のドブレの宗教論にもつながっていく重要なもの。そこで繰り返されるのは、政治体制の背景に宗教が生きているという現実だ。アメリカ型の民主主義はそれをいたるところで標榜するし、フランス型の共和制もまた、宗教からの分離を謳いつつ、宗教の諸制度を受け継ぐ形になっているという意味で、宗教をいわば「抑圧」する形で成り立っている、ということがはっきりとわかる。政治制度をめぐる議論では、それを支える宗教の問題はなかなか前面に出てこないけれど(とりわけ日本ではそう)、西欧的な制度を見るためにはそれがぜひとも必要だということを改めて指摘している。なかなか貴重で興味深い一冊。

投稿者 Masaki : 20:49

2006年08月04日

古書……

ガザーリの『形而上学』の中世ラテン語版(J.T. Muckle校注、St. Michael's College, 1933)がAmazonのマーケットプレースで安く出ていたので購入。えらく安いので、ボロボロの本でも来るかなと思ったら、某神学校のライブラリーの印が押してある。「まさか盗品?」とも思ったのだけれど、一応印の上にDiscardと記されているし、出所がニューオーリンズなので、もしかすると洪水被害などの関係で(?)手放したものかしらん、なんて思ったりも……。うーん、ネット上の売買って、そういう部分が恐いといえば恐いわなあ。それにしても、貸し出し印が76年に1度貸し出しただけというのが痛々しい。誰も読まないかねえ、ガザーリ本……。

災害報道などではあまり取り上げられないけれど、そういう場合に大量に出る廃棄本や、復興費用のためなどで手放されるであろう書籍などは結構膨大な数になりそうな気がする。そういう場所での買い取り・転売業者なんてどれくらいいるんだろうか、とふと思ったり。ちょうどニコラス・ケイジが武器商人を演じる映画「ロード・オブ・ウォー」(監督・脚本:アンドリュー・ニコル)をレンタルDVDで観たのだけれど、コンテナでアフリカなどに運ばれる物資が、武器・弾薬でなく書籍だったらどんなに平和だろうと想像してしまった。うーん……。

Webカムより、ルクセンブルクの6月末の写真
Luxemburg0606.png

投稿者 Masaki : 22:52

2006年07月15日

エイサゴーゲー

ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(ラテン語題名ではイサゴゲー)は、短いのであっという間に読了。使ったのは仏語対訳本("Isagoge", Vrin, 1998)で、翻訳のほか解説はアラン・ド・リベラが担当している。さらについでに、アヴェロエスの『イサゴゲー中注解』(ハーバート・デーヴィッドソンによる英訳版)も参照してみた。アヴェロエスの時代、アリストテレスのいわゆる「オルガノン」には、必ず序文的にこのイサゴゲーが入っていたという。それでアヴェロエスもまた注解をすることになったらしい。中注解はほとんど逐語的に写しては随所に批判的文言を交えていくという形だが、結局、同書は論理学の入門としては失敗している、みたいなのがアヴェロエスの結論だったりする。余談ながら、現時点でamazonで購入できる唯一のアルベルトゥス・マグヌス全集の一冊(Tomus 1, pars 1a)は、「ポルピュリオスの『5つの普遍概念論』について」で、イサゴゲーの注解というか、いわば「創造的書き換え」を行っている。まだ途中まで見ただけだけれど、うーん、圧巻。

さてさて、今度はシンプリキオス『エピクテートス「提題」注解』に進もうっと。

またまたWebカム画像から。6月下旬のブダペスト。
budapest0606.jpg

投稿者 Masaki : 12:28

2006年07月05日

「エジプトの謎」

イアンブリコス『エジプトの謎』の原典(とはいえ、Les Belles Lettresの希仏対訳版だが)をようやく読了する。エジプトのコスモロジーについて、新プラトン主義の立場から詳述したもの。総論(1書)から神的存在の位階論(天上世界は7層構造だという)(2書)、天啓の探り方(占い方法)(3書)、悪の起源(4書)、供犠の概論(5書)、禁忌(6書)、象徴(7書)、第一原因(8書)、ダイモン(9書)、究極の善への接近(10書)といった内容で、なるほど、プロクロスが高く評価する理由がうっすらとながらわかったような気もする。新プラトン主義のテーマの総覧的な構成にもなっている。とりわけその階層構造の論が興味深いところ。また、8章では「二つの魂」という考え方が示されている。デミウルゴスの力に与るプシュケーと、天空に由来し星辰などの影響を受けるプシュケーだという話で、ここから人間の被支配と解放とのダイナミズムが生じるというわけだ。ちょっとこのあたり、自由にまつわる議論の系譜とか、あるいはユダヤ以来の伝統となっていた二重創造説などとの関連(があるのかないのか)などからしても興味の尽きないところだったり。

さあて、今度はイアンブリコスの師匠にあたるポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(範疇論入門)に取りかかることにしよう。

投稿者 Masaki : 00:49

2006年07月02日

ピーター・ブラウン

『古代末期の世界』が見事だったピーター・ブラウン。その最新の邦訳は98年の来日講演の再録。『古代から中世へ』(後藤篤子編、山川出版社)がそれ。古代末期を単にローマ帝国の没落からのみ見るのではなく、中世との連続性の中に置き直すというのがブラウンの中心的テーゼだけれど、同書ではさらにその歴史観がいくぶんかの修正を経て発展していることがわかる。うーん、思想の進化という感じだ。収録された講演は3つ。まずは後期ローマ帝国が貧富の差に蝕まれたというような歴史観を打破しようとする、ある意味瞠目させられる説。「貧者へのケア」の拡大が、今風の貧困の拡大を表しているのではなく、単に当局(帝国の)への司教のとりなしの戦略を表しているにすぎないという話。続く2つめは中心と周辺といった隔たりで地中海世界を見てはいけないという、これまた刺激的な説。中心からの拡散的モデルではなく、星団的モデルで見ろ、というわけ。3つめは死生観における関心の焦点が「この世」から「彼岸」へと移行するのが、西欧中世の早い段階、大グレゴリウス(6世紀)の時代だったという話。煉獄の誕生も、そのころだとしており、ル・ゴフへの批判という感じでもある。うーん、中世初期がどれほど豊かだったのか(あるいは通説どおりそうでなかったのか)、疑問はいや増すばかりだ。

久々にWebカム画像。6月末のザルツブルク。
saltzburg0606.jpg

投稿者 Masaki : 22:50

2006年06月27日

生きたプロティノス像

今更ながらだけれど、ピエール・アドによる『プロティノス、またはまなざしの純真さ』(Pierre Hadot, "Plotin ou la simplicité du regard", folio essais, 1997)を読む。これはフォリオの一冊(いわば文庫版)だが、実際には第4版にあたるもの。初版は1963年で、その後、アド自身がプロティノスの『エンネアデス』の翻訳・注釈に関わり、本書にも部分的改訂が施されたという。古代思想を生き生きと蘇らせるピエール・アドだけあって、本書のプロティノス像はとてもヴィヴィッドで、難解とされる『エンネアデス』と、ポルピュロスの『プロティノス伝』からこれほどの明快な思想の根っこと人物像を描くというところがまずもって素晴らしい。プラトン思想そのものとの差異や、ゲーテやベルグソンなどの近代思想との相同関係など、いろいろと興味深い点があるけれど、文章は決して難解ではなく、とてもわかりやすい。古代世界において(古代末期でも)、哲学が宗教にも比される集団への加入としてあり、そこに加わることが生活全般をすっかり変えてしまうことだったというテーゼは、本書にも生きている。プロティノスの文書からそうした生きるための思想へと接近する様はまさに感嘆もの。未邦訳なのが残念だ。なんかこう、「難解でなければフランス系の思想書ではない」みたいな風潮ゆえに置き忘れられた一冊、という感じもしなくない。あるいは、専門的でなくあまりに「一般書」すぎて、専門家はつまらんと思うのか?いずれにしても、どっかで出しませんかね?

投稿者 Masaki : 23:23

2006年06月25日

ローマの幻影……

歴史学研究会編『幻影のローマ』(青木書店、2006)に眼を通す。「ローマ」のイメージが中世以降、西欧を中心にどのように受け継がれていったかを様々な角度から論じた論集。帝国的な政体の話に限定されない、文化その他の影響関係などを期待していたのだけれど、そういう期待からはややずれるものの、イスラムやビザンツなどの話などもあって、全体としてはとても興味深いものになっている。総論的なものよりも、やはり魅力的なのは各論。オーサー・リングボム氏の論文は、モルタルの年代測定という考古学的アプローチを中心に、サンタ・コンタンツァ聖堂にアプローチするというもので、個人的には馴染みがないだけにかえって新鮮。なかでも最後のイルカの図案をめぐる一節は印象的。個人的にもイルカの表象にはちょっと興味があったのだけれど、なるほど、イルカはアポロンとディオニュソス両方の象徴、加えて光と闇の象徴なのか。そのほか、中世のアルファベット書体における模倣の実態に迫ろうとし、カロリング朝に碑文書体の模倣が盛んになされていたことを跡づける北村直昭氏の論考、イスラムにとってのローマとはビザンツ帝国のことだったという太田敬子氏の論考、まだあまり研究がなされていないのだという教皇の即位儀礼に関する甚野尚志氏の論考などなど、読み応えのあるものがいろいろ。

投稿者 Masaki : 00:15

2006年06月09日

バタイユ

衝動買い的に、最近文庫で出たアセファル資料の邦訳『聖なる陰謀』(吉田裕ほか訳、ちくま学芸文庫)を購入。ぺらぺらとめくってみているところ。久しぶりのバタイユ本だが、これはまとまった著作ではなく、1930年代にバタイユらが興そうとした宗教結社「アセファル(無頭人)」の結成にまつわる文書をまとめたもの。編者はイタリア人研究者マリナ・ガレッティ。バタイユの研究をするわけでもない一般読者にとって、こういう資料集は、まずもって宗教論として読むということになるのだろうか……というか、失敗した組織形成から見る、一種の組織論として読むことはできないかしら、というのが購入動機だったりするが、さてさて。

ちょうどサッカー・ワールドカップの開会式がTVで流れている。「サッカーは新たな民衆の阿片だ」という話も言われたりするけれど、その動員力・ファンの熱狂ぶりも、こうして見ると著しく組織的・構成的な感じがするなあ、と。

投稿者 Masaki : 23:23

2006年06月03日

アガンベン特集号

最近は買わなくなっていた『現代思想』誌だけれど、6月号はアガンベン特集ということで久々に購入。でもなんだか、やはり雑誌としての高揚感みたいなものはずいぶんなくなっている感じだ。ま、それはともかく。とりあえずアガンベンのテキストの翻訳と、上村忠夫氏+田崎秀明氏の対談を中心に眼を通す。『生政治』ばかり取り上げても困る、みたいな上村氏の発言がいい(笑)。アガンベンの思想も、そのメシア思想や言語論といった背景から見ないといけない、というような話。確かに。また収録されているアガンベンのテキストも興味深い。扱うテキストの発展可能性を探り出しては解釈学的規則に則り進み、決定不可能な時点到達した段階でそのテキストから離れる、といったアガンベンの基本的メソッドも改めて確認できる(「装置とは何か」)。思うに、アガンベンのテキストって、そのテキストに言及されている当のテキストを読みたくさせる何かがある。「もの自体」で言及されるプラトンの『第七書簡』とか、「記憶の及ばない像」で言及されるオリゲネスの復活論とか。それって「開かれ」?(笑)。

余談ながら、「開かれ」もそうだけれど、「動かされ」とか、「〜られ」という受け身の助詞を伴った動詞を名詞的に使う形が、少しずつインフレ的に使われ始めているような印象があって、ちょっと気になる……。たとえば「記憶の及ばない像」では、文中に引用されたアリストテレスの『魂について』の訳の一節で、「動かされを被る」という訳語が当てられているのだけれど、その該当箇所は、"πῶς νοήσει, εἰ τὸ νοεῖν πάσχειν τί ἐστιν"(429 b 25)で、「もし思考が何かを被ることであるなら、(知性は)どのように思考するのだろう」という感じ……「動かされを被る」なんてしなくてもいいんだけど(笑)。

投稿者 Masaki : 23:28

2006年04月28日

ノリ・メ・タンゲレ

先日来日したジャン=リュック・ナンシー。その『私に触れるな−−ノリ・メ・タンゲレ』(荻野厚志訳、未來社)に目を通す。個人的には「復活」後の身体をめぐる議論を期待していたのだけれど、そういうふうには進んでいかなかった。聖書に出てくる表題のシーンについて、それをめぐる絵画や文言を様々な角度からながめ、「死んでいながら死んでいない」「消えながら消えていない」「触れつつ触れていない」という一種例外的状況が幾十にも(重層的に)読み込めるという話が展開するのだけれど……そういう宙づりの状態が文化的営為の根底にあるという話は今や耳新しくなくなり(不在とか禁忌とかにはそうした構造があるというわけだけれど)、そのあたりの構図を反復的に描き出して見せられても、たとえば同書の場合には当の宗教的な思惟そのものに切り込んでいくわけでもなく、どこか肩すかしを食らった気分が残る……ってそれが同書のそもそもの脱構築的意図だったりするのかしら、なんて(笑)。けれども、やはり神なき時代の宗教的なもの、同書のいう「信」をえぐりだして浮かび上がらせるような作業のほうが改めて重要に思えたり……。

話は違うが、26日はチェルノブイリ原発事故から20年ということで、欧州のメディアはどこも大きく取り上げていた。そんな中、F2では、原発一帯の立ち入り禁止地域では今や動植物の野生化が進み、ユーシェンコ大統領はそれを観光資源として活用する道すら探ろうとしている話を紹介している(27日)。商魂逞しい?ま、それはそうだけれど、見方によっては、まさに「復活」の譬えの産出、ってことになるのでは?触れつつも触れられないものは、その周りに文化的営為を産み出すという構図の、はるか下流の世俗版(笑)?

図は同書にも再録されているティツィアーノの『ノリ・メ・タンゲレ』。ロンドンのナショナルギャラリー所蔵とのこと。
tiziano1.jpg

投稿者 Masaki : 23:07

2006年04月26日

ラッセル

『知の欺瞞』で現代思想の数々を切って捨てたブリクモンは、切られた側の代表格レジス・ドブレと対談した『啓蒙主義の陰で』("A l'ombre des Lumières", Odile Jacob, 2003)の中で、何度か「大陸系の哲学よりもラッセルの哲学を好む」みたいなことを述べている。やっぱりなあ、という感じ。で、そんなわけでラッセルの論理哲学の概要を見ておこうと思い、概説書として三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』(岩波新書)を読む。ラッセルの理論のエッセンスを丁寧に解説した好書。新書にしておくのがもったいぐらいの中身だ。チョムスキーの生成文法なんかもそうだったけれど、論理学的なアプローチで言語を突き詰めていくと、次々に別の整合性が現れてきて、また理論の組み替えが必要になっていく。けれどもそれをさらに極限にまで突き詰めていくと、その先で途方もない思惟に行き着いてしまうというあたりの論理構築物(現実的な言語も感覚も、本質的にはバギーなものなので、それをあえて無矛盾な原理でもって読み替えていこうとすれば、やはりどこかで虚構的・構築的なものを引き入れてしまうのは必定なわけだけれど)のものすごさは、なんだかため息が出そうなほど……。ラッセルがめぐりめぐって到達したという中性一元論は、中世でいう能動知性みたいなところにも重なっていくらしいのが面白い。

上のブリクモンに戻ると、同書でもドブレの「説明」は説明になっていないぞなどと手厳しい。思うにドブレのメディオロジーはそもそもグランドセオリーではなく、むしろ「シンプルデザイン」(中央制御で末端をすべて統括するのではなく、ある程度末端の素材的特性を利用して、制御の負荷を軽減するという手法)に近いものだという気がする。メディオロジーを批判する向きは、どうもそのあたりを取り違えていたりするような……。問題になるのは、いわば質料因の復権。上のラッセルの概説書でとりわけ興味深いのは、末尾で紹介されるラッセル的な中性一元論も、どこからか質料因の議論(レベルは相当違うけれど)に入っていくらしいこと。そういえば13世紀のアリストテレス主義も、やはり質料因の評価という側面を強くもっていたわけで、そのあたりをも重ねて、質料因をめぐる問いを立体的に眺められないもんかなあ、などと空(妄?)想は膨らむ一方……か。

下の図は、オランダの17世紀の画家、サロモン・コニンクによる有名な『老学者』。これってある種の理想像だよな〜。
koninck1.jpg

投稿者 Masaki : 17:09

2006年04月21日

イスラム社会の異人論

このところ少しずつ囓り読みしていた西尾哲夫『アラブ・イスラム社会の異人論』(世界思想社)。ある部族に伝わるわずか一編の民話から、アラブ世界を特徴づける巨大な民族誌を浮かび上げるという労作。これが見事なのは、やはり題材となっているその民話。思うに民話研究では、どの話を取り上げるかによって、その考察の広がりや深み、さらには価値までがほぼ決まってしまう感がある。その意味では、ここで取り上げている「りっぱな血をひくおこないのすぐれた人々」は、異人に対する社会関係を中心に、民族誌的に様々な要素にスポットをあてられる見事な一編だ。

分析は基本的に民話を社会学的・言語学的な鏡のように見立てて、そこに社会的要素を社会構造や言語構造として読み込むというもの。途中で言及されるアラブの「聖人」についての分析も、一貫して社会集団にとっての役割という観点から考察していて参考になる。翻って、西欧社会の聖人伝なども、こういう集団的機能から読み込んでいったら面白いだろうなという気がする。そういう研究もないわけがないと思うし、ちょっと探してみようかしら……。ま、それはさておき、同著者の今後も期待大だ。一つの方向性として、上の民話にも出てくるし『ヴェニスの商人』にも登場する「人肉1ポンド」モチーフ(身体の一部が借金のカタに取られそうになるが、第三者の介在で救われる、という筋の説話パターン)を、普遍的な意味という観点から考察していくのだという。いや〜壮大な研究計画だ。

投稿者 Masaki : 14:45

2006年03月16日

美しき本、活字

文庫で出たウィリアム・モリス『理想の書物』(川端康雄訳、ちくま学芸文庫)をざっと。中世の彩色写本やそれを模した初期印刷本の美しさは至宝と呼ぶに相応しいけれど、19世紀のこの装飾デザイナーの熱の入れようも、蒐集熱の果てに私設印刷所を作って理想の書物を作ってしまおうというのだから並ではない。印刷活字へのこだわりももの凄い。16〜18世紀ごろの本の復刻版なんかを見ても、今とはだいぶ活字が違う。例えば手元に、キャンピオン(17世紀のリュート奏者)の『伴奏・作曲論』の復刻版なんかがあるけれど(1716年の版を復刻したもの、Minkoff, 1976)、これなどを見ても例えばsの文字などはまだ真ん中の横棒のないfみたいだ。現行の活字体になるのはもうちょっと後なわけか……ちょっと活字の歴史もちゃんと押さえておきたいところだなあ。そういえば余談だけれど、最近はあまり見かけないけれど、日本でも昔の活字には、「ね」とか「れ」とかの左下の折れ部分がやたら黒々としている字体があったような。小学校のころ、それを真似て書いてみたこともあったっけ(笑)。

投稿者 Masaki : 23:43

2006年03月08日

パウロの政治神学

ヤコブ・タウベス『パウロの政治神学』("Die Politische Theologie des Paulus", Wilhelm Fink Verlag, 1993)にざっと眼を通す。いわゆる「ロマ書」に見られるパウロの政治的スタンスを解き明かす87年の講義録。パウロの立ち位置がモーセに重なるものであることを示すのが最初の講義。旧約と新約の接合点にパウロがいるという次第。その意味でもキリスト教の源泉はやはりパウロにある、というテーゼが示される。パウロがもたらした帰結に、その後の教会だけでなく、異端とされたマルキオン派もあったという話が次の話題。その流れの先に宗教改革があり、さらにそのプロテスタント的空気(ワイマール期ドイツの)を経て、それを反映したカール・バルトの神学論があり、さらにそうした空気へのカトリック的反動としてカール・シュミットの政治神学があるという構図が語られる。シュミットが宗教と世俗権力を貫く構造(例外的状況が織りなすもの)を指摘するのに対し、タウベスは両者はむしろ結託の関係にあり、そこからシュミットの「全体論」を批判している。うーん、デリダやアガンベンが取り上げて注目されたシュミットの論だけれど、それもまた時代状況という中で相対化されるべきものなのかどうか、考えどころではある……か。

投稿者 Masaki : 20:55

2006年03月06日

アラビアン・ナイトの世界

前島信次『アラビアン・ナイトの世界』(平凡社ライブラリー)を読む。東洋文庫の原典訳『アラビアン・ナイト』の訳者による概説書で、もとは1970年刊行のもの。全体を貫く、アラビアン・ナイトに関する当時までの研究状況の紹介・検討がとくに興味深い。アラビアン・ナイトは900年ごろから1500年ごろまでの間に、アラビア語圏の各地にわたって発展してきたもので、そこにはユダヤ、仏教、ギリシアなどの説話を多数取り入れているというグルーネバウム説が一応の決着ということだろうけれど、そこにいたる様々な人々の様々な説が、かりに誤りだったとしても、学問的な試みのダイナミックさを表している感じだ。その後の流れはどうなっているのかと、そちらも知りたくなってくる。こういう民衆的な説話集が、そもそもイスラム世界では久しく評価されていなかったという事実も見逃せない。結局、19世紀にフランスの東洋学者が翻訳し紹介したことによって世界的に広まる契機となり、逆にアラブ世界でも小説の類への注目が高まるというのが一連の流れだったようで、なるほどこれはオリエンタリズムの問題の一端を示す現象でもある。

さらに余談ながら、コーヒーの話も紹介されている。「昔アラブの偉いお坊さんが……」というのがコーヒー・ルンバの歌詞だけれど(笑)、本書によるとコーヒーがアラブに紹介されたのは意外におそい15世紀末ごろなのだそうだ(諸説あるらしいけれど)。それ以前に成立していたらしい千夜一夜物語には、結局コーヒーのことは一部をのぞきほとんど出てこないのだという。うーん、なるほど、コーヒーはそもそもエチオピア(アビシニア)起源らしいということなのね。

投稿者 Masaki : 23:12

2006年02月25日

アンセルムス的転回

まだ途中だけれど、瀬戸一夫『神学と科学−−アンセルムスの時間論』(勁草書房、2006)を読んでいるところ。これまで、ペトルス・ダミアニやランフランクスの時間の考え方をそれらの神学論争から浮かび上がらせてきた同著者は、今回ランフランクスの後継者にあたるアンセルムスを取り上げ、再び論理命題の図式化などを駆使して、時制の用い方から時間概念をすくい上げる精緻な作業に取り組んでいる。今回は、論理命題についての判断を宙づりにするという、一種記号論的な操作が問題になっていて、それはとりもなおさず、科学的な命題の萌芽だということになる。著者はアンセルムスの中にその操作の痕跡を見、「アンセルムス的転回」の可能性を示唆している。うーん、なるほど、記号の事物からの遊離を跡づけるというのは、とても重要な作業なのだなと改めて。ただ、そういう微細な部分に分け入っていくだけに、今回の著書ではこれまでよりも、挿入されるコペルニクスなどのたとえ話がむしろ前面に出てきすぎているような印象もところどころ感じられたり(笑)。とはいえ、近世以降に展開していく科学の芽、あるいはそれを下支えする発想の一端が、11世紀ごろに神学の中で培われていくというのは、検証しがいのあるテーマだなあ、と。

投稿者 Masaki : 06:50

2006年02月11日

さまよえるユダヤ人−−その2

「さまよえるユダヤ人」の伝説について基本文献を調べようと、とりあえずマリー=フランス・ルアール『さまよえるユダヤ人の神話』(Marie-France Rouart, "Le Mythe du Juif Errant", José Corti, 1988)を入手してみた。ざっと眺めただけだけれど、これは19世紀のその伝説の受容、とりわけ文学界隈でのその受容史を追ったもののようだ。中世あたりから通して追っていくのかと期待していたので、ちょっと肩すかしといえなくもないが……それでも起源についての言及もあり、1228年に英国の聖職者マチュー・パリスが記したのが最初のテキストだというし、さらに一番古い言及はグイド・ボナッティというイタリアの天文学者(13世紀?)のものとかあるという。うーん、そのあたり読んでみたいものだが……。

面白いのは、烙印を押されてさまよう運命にあるというそのユダヤ人(アースヴェリュス)が、18世紀末ぐらいになると、人間の自由を体現しようとしたとして一種英雄視されていくこと。そのあたりの動きは、カント思想などの影響を反映しているという次第。プロメテウス神話との関わりはどうやらそのあたりにあるらしい。社会から排除されるものが高みに返り咲くという、まさに人類学的な興味深い現象だ。この「さまよえるユダヤ人」はまさに「外部」を体現する形象なのだなとあらためて納得。

投稿者 Masaki : 21:36

2006年02月01日

イソクラテス

昨年夏ごろに文庫で出た廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』(講談社学芸文庫)を読む。プラトンの向こうを張って弁論や修辞を教える学校を作ったイソクラテス。けれどもそこで実践されていたのは、一般にソフィスト的とされるような技巧・技法にのみ重点を置いた教育では必ずしもなかった、というのがメインストリーム。逆にプラトンの側の政治性などがあぶり出されていくという点がとても興味深い。歴史の重視、言論重視の教養理念としてのピロソピアー、書き言葉を尊重する立場など、イソクラテスの思想はどれも近代へとつながる底流になっていることがわかるというもの(最後の章では、イタリアのユマニストとイエズス会の教育理念への継承についても触れられている)。これ、プラトンからの逆照射によって輪郭がはっきりとしてくる、というのが同書の見事な技だ。なるほど、ギリシアから受け継がれる伝統もとうてい一枚岩ではない、と。確かに、ソフィスト的なものの再評価(実践教育として)というのは結構面白そうなテーマかも、という気はする。教師論なども合わせて、西欧の一つの流れとして掘り起こせないもんかなあ。

写真は都内某所の元旦のもの
shogatu05.jpg

投稿者 Masaki : 19:15

2006年01月14日

断章的感性の著者たち?

少し前に出ていた『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』(イルゼ・ゾマヴィラ編、鬼界彰夫訳、講談社)は、ちょっと驚き。前半部分ではたびたび音楽に言及され、時代の音楽がその時代を代表する規範に対応する、といった考えが記される。後半になると、まるで自分の根っこを掘り起こすように、おのれの宗教意識と格闘していく。どこかあえぎのような思考の断片が断章形式(きわめて日記的なものだ)と相まって、緊張感をともなって迫ってくる。断章を読む醍醐味というのは、そういう緊張感にあったんだけっと改めて思う。

そういえば、こういう緊張感を感じさせるもう一人の著者がレヴィナスだったりする。今年はレヴィナス生誕100年なので、おそらくフランスの雑誌とかで特集があるんじゃないかと期待しているけれど、いずれにしても、全然断章ではない文章が、その抽象的な議論のせいかすこぶる断章的に読めてしまうところがレヴィナスのおもしろさなような気がしたり。文庫で上巻が出ている『全体性と無限』(熊野純彦訳、岩波文庫)なんかも、なんだかそういう緊張感を改めて感じさせてくれる。ロラン・バルトの断章がどこかとっても偽善的(というか、人為的すぎるということね)なのに対して、レヴィナスの様々な文章はどこか本質的な断章的思考なような気がする(一種の妄言だけど)。今年あたりはたくさんある未読のものを中心にいろいろ読んでいきたいものだ。もちろんユダヤ思想の関連を中心に。

投稿者 Masaki : 18:43

2006年01月11日

さまよえるユダヤ人

技術の発祥の神話とされるのはプロメテウスが神の火を盗んだ話。その結果、プロメテウスは永劫の苦しみを味わうことになる。で、これについてレジス・ドブレは、西欧においてこの神話は「さまよえるユダヤ人」に二重写しになっている、みたいなことをチラっと語っている。ちょうど年末くらいにエドガール・キネ『さまよえるユダヤ人』(戸田吉信訳、法政大学出版局)が出ている。十字架を背負わされたキリストが休息を請うた際に、それを断ったために、世界が終わるまで歩き続けることを宣告されてしまうユダヤ人の話。中世に起源があるらしいとのことで、おそらくはユダヤ人迫害などの文脈から出てきたものなのだろうけれど、詳しいことは不明。この話は、なんと南方熊楠も取り上げている。これまた出たばかりの『南方熊楠英文論考−−[ネイチャー誌]編』(飯倉照平監修、集英社)は、タイトル通り『ネイチャー誌』掲載の熊楠の論文を邦訳したものだけれど、これに「さまよえるユダヤ人」伝説を扱った短い文章が4編収録されている。解説にあるように、文化伝播説の考え方が主流だった当時、熊楠は仏典や、さらにはそれ以前の中国の文献に見られる同じような話を紹介し、東方起源であることを論証しようとしている。ま、こうした伝播説は今なら必ずしも採択されないわけで、むしろその伝説のパターンが普遍的であることを立証すると見ることができそうだ。

キリストの十字架の道で起きたとされる出来事だけに、「さまえるユダヤ人」はキリストの顔が写されたというヴェロニカの伝説と対をなすようにも思われる。ちょうど読みかけのピエール・ルジャンドル『鏡に映った神』("Dieu au miroir", Fayard, 1994)が、冒頭でナルシス神話の次にヴェロニカの伝説を取り上げ、主体を構成する隔たりの現前化としてのイメージ、という文脈で扱っている。そこから考えると、「さまよえるユダヤ人」はさしあたり、隔たりの絶対化、世俗世界の永劫化といった表象に結びついている感じ?いや〜いずれにしても結構面白そうなので、どういう文献が出ているのかまずは調べてみたいと思う。

投稿者 Masaki : 20:17

2006年01月06日

「読解可能」な世界

昨年末くらいに出たハンス・ブルーメンベルク『世界の読解可能性』(山本尤、伊藤秀一訳、法政大学出版局)。世界というものが書物のメタファーによって「読む対象」と捉えられたのはいつごろなのか、またそのメタファーにはどうほどの射程があるのか、というのが基本問題。西欧の歴史をこれでラフ・スケッチしていくという面白いアプローチ。古代ギリシア世界においては、プラトンに示されるように自然は考察の直接の対象にはなっていない。ストア派において世界の完全性という話が出てきても、書のメタファーとは結びつかない。プロティノスにいたってようやく天体などが字母との類推で言及されるものの、聖書が参照される書物として成立すると、自然をもう一つの書物とする考えは生じるものの、それは聖書の枠組みでしか捕らえられず、精査される対象とはほど遠いものになってしまう。そしてそうした隔たりは中世全体を通じて維持され、深化していくことになる。自然の解釈が聖書の呪縛から放たれるには近世を待たなくてはならない……と、ここまでで全体の3分の1程度。話はこの後、近世、近代、現代へと続いていく。

個々の議論はもっと詳細に検討できるかもしれないけれど、ラフ・スケッチとしてはなかなか鮮やかではある。書物のメタファーとしての世界、という世界観は、表現はともかく、内実としてはごく最近になって成立したものであることが改めてわかる。世界が正真正銘の書物のメタファーになるには、逆説的に大文字の書物(聖書)から解放されなくてはならない、という次第だ。けれどもまた、自然が完全に読み切られるものとなる(幻想の上で)時、今度は何か新たな書物、新たな参照基準がなければ、それは自然を操作するという話に向かっていかざるをえない、という別の逆説もありうるわけで……。

ブルーメンベルクはクルティウスのスタンス(書物の象徴学)を、古典古代の源流を軽視しキリスト教を重視しているとして批判している。実際は逆ではないか、というわけだ。余談だけれど、最近思うところあって、いまさらながらだけれどクルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』("Europäische Literatur und lateinisches Mitelalter", Francke, 1948-93)に眼を通し直しているところ。ヨーロッパという概念形成を空間的というより歴史的に捉えようというその姿勢も、現在のヨーロッパ概念の広がりという文脈からも批判・拡張されていくのかな、と。

投稿者 Masaki : 20:14

2005年12月17日

イアンブリコス

メルマガの方でプロクロスの『神学提要』を拾い読みしたほかに、ちょっとそちらのアーティクルでは取り上げなかったものの『プラトン神学』にも目を通して(4巻目まで)きたのだけれど、何度か出てくるのがイアンブリコスの名前。プロティノスの一者・知性・魂の三層構造をより細かな位階に区切る嚆矢はイアンブリコスだというような話なのだ。そんなわけで、手始めに『魂について』(J.F. Finamore & J,M.Dillon, "Iambricus, De anima", Brill, 2002)というテキストを読んでみたのだけれど、これ、どちらかというと魂をめぐる諸説(ストア派、逍遙学派、そしてプラトンの立場)を批判的にまとめたもの、という感じ。力点は当然プラトンに置かれているのだけれど、なんだか総覧のような感じがしなくもない(それはそれで資料としては面白いけれど)。うーん、プロクロスが高く評価しているようなイアンブリコス像というのはどのあたりにあるのだろう?やはり主著『エジプト人の秘儀について』あたり?こちらも見てみないとなあ……。

イアンブリコスは3世紀後半から4世紀初めにかけて生きた人物で、もとはシリアのカルキス生まれなのだとか。シリアといえば、後のアラブ世界にギリシア思想を伝える橋渡し役になった場所でもあったっけ(多くの作品がいったんシリア語に翻訳されて、それからアラビア語に翻訳された)。それもそのはずで、ヘレニズム・ローマ時代以来、シリアはギリシアと密接な関係にあり、さらに4世紀にはビザンチン帝国に支配され、そののちにウマイヤ朝の支配によって繁栄する。なるほど、まさに民族や文化が交錯する地だったわけね。

Webcamめぐり:今日は12月上旬のチューリヒ。パノラマだねえ。
zurich0512.jpg

投稿者 Masaki : 18:23

2005年12月13日

スピノザと脳科学

このところ風邪気味のぼーっとした状態でつらつら読んでいたのが、アントニオ・R・ダマシオ『感じる脳』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)。副題の「よみがえるスピノザ」という部分に惹かれて購入したもの。中身は基本的に脳科学の普及書のようで、メインストリームは情動やそれに導かれる感情といった部分が、代謝など生命の基本的な調整作用の延長線上に出来ているという話。そこに、話の節々でスピノザが絡んでくる。その絡み方は、脳科学から振り返ってみた場合の先駆的思想の参照という感じで、いくぶんアナクロな感じもないではないのだけれど、6章などはまるごとスピノザの評伝に当てられていたりして、なかなか面白い構成になっている。脳科学の最前線で改めて確認される、心と身体が同根で分離不可能であることを、スピノザは独自の仕方で表現しているのだという。様相の二元論は維持しつつも、実体としての二元論を否定し、「両者を単一の実体に結びつけ」るという形で、心身問題を超克してしまうのだ。スピノザの透徹した合一的なスタンス、その孤高の知性はある種の理想だ。同書によるとアインシュタインは、最高の宗教的感情で満たされた時代の異端者として、デモクリトス、アッシジの聖フランチェスコ、スピノザを挙げているそうだけれど、妙に納得。常人には真似できないし、著者自身、スピノザ的な禁欲主義の極北よりはアリストテレスが説く「満たされた人生」の方がよいみたいなことを言っているけれど、スピノザのもとにはまさに究極の個人、「人間がどうのこうの」といった世間的なクリシェが遠く及ばない「人間」がいるのかもしれない……。

投稿者 Masaki : 23:10

2005年11月26日

アレクサンドリアのフィロン

最近レヴィナスの邦訳本がいくつか文庫などで出ているし、なにかこの、ユダヤ思想史みたいな方向への機運が高まったりしないもんだろうかなあ、なんて思ったりもするのだけれど(ちょっとなさそうなのが残念だけれど)、ま、それはともかく。直接的な関連とは別に、遡及という意味で興味深いのはやはり中世のマイモニデスなのだけれど、当然ながらさらにそのはるか以前にまでさかのぼることもできるわけで。『世界の永遠について』(希仏対訳本:cerf, 976)を読んでなかなか興味深かったアレクサンドリアのフィロンあたりはコーパスとしても面白い。そんなわけで改めて入門書を眺めている。邦訳で読める貴重な入門書が、グッドイナフ『アレクサンドリアのフィロン』(野町啓ほか訳、教文館、1994)。大まかな研究の現状、フィロンの著作ガイド、思想内容の紹介などから構成されている。うん、あらためて紀元前後のユダヤ教を取り巻く状況というのは刺激的だ。さらに思想的にもいろいろ見るべきところがある感じ。少し長期的に読んでみたいところだ。

Web Camの「絵はがき」シリーズを復活させようかなあ、というわけで、11月15日朝のコペンハーゲンを。

copenhagen051115.jpg

投稿者 Masaki : 23:47

2005年11月13日

否定神学……

相変わらずいろいろ出ているデリダ本。その中から、『名を救う−−否定神学をめぐる複数の声』(小林康夫、西山雄二訳、未來社)に目を通す。巻末の訳者の解説(実に端的にまとまっている)にもあるように、否定神学は西欧の一大潮流なわけだけれども、デリダの手にかかることによって、当然ながらその根源を問い直すという作業になっていく。思想史的な背景を背に、極北を目指す旅が始まる感じだ。名指す当のものを、他のものの否定でしか指示できないという事態において、それでも名指される当のものとは一体なんだということになるのか?デリダはそこに「形式化」、言語表現の本質的経験を見ていく……当然それは一種のトポロジーにならざるをえないわけで(トポスが場所、つまりコーラだという意味において)。本文は実に晦渋だけれど、極限の場への漸近という運動は、やはり多くの刺激に満ちている。そのことを確認するだけもよしとしよう(笑)。それにしてもこの書で美しいのは、盛んに引用される(というかそれが分析の大元のテキストだからだけれど)アンゲルス・シレジウスの詩だ。ドイツ・バロック期の神秘主義の宗教詩人だということで、これ、全部読んでみたい……と思ったら、岩波文庫の『瞑想詩集』に重版がかかって今月出るみたいじゃないの。こりゃ楽しみだ。

投稿者 Masaki : 23:15

2005年10月26日

スピノザ

先に言及した『中世思想研究XLVII』に掲載されたシンポジウムの記録では、「中世から近世へ−−存在論の変容」と題して、デカルトやスピノザをめぐる問題が取り上げられている。鈴木泉「スピノザと中世スコラ哲学」という一文では、中世において原因をもたないとされていた神に対してまで、17世紀には自己原因が導入されるようになり(デカルト)、それをアプローチを変えることで先鋭化したのがスピノザだ、というような話が指摘されている。それにちょっと刺激を受けたこともあって、さしあたり上野修『スピノザの世界』(講談社現代新書)を読んでみる。わかりやすい解説で『知性改善論』や『エチカ』を読んでいこうという入門書。これを見ると、改めて中世と思想的に陸続きであることがよくわかる。知性・神・観念などなどの中世的なテーマ・概念をラディカルに掘り下げれていくと、もはや思考する主体といったものは消えてなくなり、全体が必然性の秩序の体系として浮かび上がってくる……。これは圧巻。そしてそこから、許しを伴う倫理が構築されるという。中世と陸続きでありながら、宗教的な限界を知性的に乗り越えていく思考のダイナミックさ。ずっと「欠如の補填」という発想を根底に抱えてきた西欧の思想は、ここへきて「十全性の肯定」へと完全に反転しているわけか。なるほど、スピノザのわかりにくさは、逆にその面白さでもあるんだろうなあ。そのうちちゃんとラテン語で読みたいところだ。

投稿者 Masaki : 15:14

2005年10月13日

論集

先に立て続けに注文してあった二つの論集にざっと目を通す。一つは『Vocabulaire de l'ancien français』(原野昇編、渓水社、2005)。2004年春に広島大学で開催された古仏語シンポジウムの記録。全編仏語のこうしたアクトが国内で出版されるというのがまずもって素晴らしい。ゲストに大御所のミシェル・ザンクを招いたところも。再録されているザンクの講演は「nature」の語彙をめぐる考察。もともとnatureは、生物の産出原理をなしていて、事物に内在する変化の原理を指すのだという。トマス・アクィナスを引いてnatureとessenceの差異が、そうした動きの意味の有無に帰着することを指摘している。そこから、denaturer(変性させる)の用例の話に入っていく……。

もう一つは『中世思想研究 XLVII』(中世哲学会編、知泉書館)。トマス・アクィナスの研究が大きな比重を占めている。もちろん、トマスが重要であることはわかるのだけれど、ここまで集中してしまうと、なんだか偏りという感じもしなくもないのだけれど……。内容も、テキストを読み込んで、特定のテーマなり概念なりをその体系上に位置づけるというものがほとんど。確かにそれは王道ではあるのだけれど……なんだか別のアプローチも見たくなってくる。上でザンクがさらっと述べた、natureとessenceの意味論などは、トマスだけでなく、その周辺をも抱き込む大きな問題な気もするのだけれどね。

投稿者 Masaki : 22:33

2005年10月05日

アガンベンの邦訳新刊

アガンベンの邦訳が立て続けに二冊出ている。一つは例のパウロ書簡の分析『残りの時』(上村忠男訳、岩波書店)。すでに到来したメシアがいかに未来に投企されるかといった問題を扱っていたっけ。もう一つは論集『涜神』(堤康徳、上村忠男訳、月曜社)(涜の字は旧字体)。こちらは原書も今年出たばかりのもの。その『Profanazioni』(nottetempo, 2005)は、個人的につい最近入手したばかりだった。うーん、邦訳がこんなに早いとはねえ。あとは「ホモ・サケルII」の副題がついた『例外的立場』("Stato di eccezione", Bollati Boringhieri, 2003)あたりもそのうち邦訳が出るのかしらん?

とりあえず、『Profanazioni』から表題のもとになったと思われる「涜神礼賛」を読んでみる。ここでの涜神とは、宗教が確立した聖俗の分離をいったん停止させ、聖なるものを奪回する「遊戯的」行為とされ、アガンベンはこれを、新手の宗教とされる資本主義(ベンヤミンが看破した)において主体の回復(使用価値の復権)を図る手だてへと敷衍する。もちろんそれは分離を破棄したりするものではなく、別の価値へとずらしていくという戦略(profanareというラテン語の動詞の両義性に言及している)。そういう戦略そのものは新しくはないけれど、重要であることに変わりはない。13世紀にフランシスコ会の議論(所有をともなわない使用権)受けたローマ聖庁が所有と使用権との一体性を定めたところに、現代的な消費という行為の正当性の根っこを見ているあたり、いかにもアガンベンならではの持ち味といったところ。

投稿者 Masaki : 22:47

2005年09月16日

還元

イラクでは連続テロで150人近くが死亡……。ザルカウイの武装グループはシーア派に対する全面戦争だと息巻いている……(15日)。先に挙げたパスカル・ボワイエの『そして人は神を創った』では、原理主義の暴力は組織の外部にではなく、むしろ内部に対して多く働くと指摘されている。それは信仰や政治の過剰なのではなく、ある種のヒエラルキーを守ろうという動きであり、組織が簡単に解体してしまうのではなという危機的心理に根ざしているのだ、というのがそのスタンスだ。同書は基本的に、宗教的な信仰を作り上げているものを、人間の他の諸相(行動や性向)に見られる同じ動機、同じ心的システムの作用(情報の取り込み、屈折、淘汰)に還元しようとする。原理主義的な暴力を働く人々に見られる、みずからの危険を顧みずに集団のために働くという姿勢は、そうした集団への信頼・帰依の強さを示しているものの、心理的な動きとしては、戦時のパトロール隊などの組織化と変わらないのだという。「大もとの動因が同じかもしれない」という指摘は、それはそれで説得力があるのだけれど、そう言いきってしまうと、逆に「信仰」という現象をとりまく現実の個々の問題にどう対処するか、といった視点は出てこなくなってしまうようにも思える……。人類学本としては結構面白いけれど、その先に進むには何かが足りないんじゃないかと……。

投稿者 Masaki : 23:18

2005年09月09日

軽信と残響

少しばかり軽信ということについて考えてみようと思い、種村季弘『山師カリオストロの大冒険』(岩波現代文庫)をちょっと読んでみる。カリオストロの評伝なのだけれど、カリオストロが転々とした18世紀後半のヨーロッパの宮廷に、「彼を口実にして熱狂的な夢遊状態に陥りたがっていた時代の一般的動向」(p.59)があったというのがスタンスになっていて、だまされる側のだまされやすさがどう醸成されていくのかという視点から見ても面白い読み物になっている。というか、カリオストロ以上に、周辺の情勢や時代の分的趨勢といったものへの言及が実に興味深い。例えばサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼。14世紀の錬金術師ニコラ・フラメル以来、その巡礼地への旅には、秘教探求の旅という意味が付与されていたといい、カリオストロのイベリア旅行もそれを踏襲していたのだという。これは実際の旅行だけれど、さらに東方へと旅行したという伝説も作られ、それはアルベルトゥス・マグヌスやライムンドゥス・ルルスの東方行きとか、さらにはパルケルススの地中海周航などの残響の上に成立しているという。そういったディテールの残響が、カリオストロという人物に織り込まれている、という次第だ。そうでなければ、単なる子供だまし的な奇術が、それほど人々を捉えるとういことはなかっただろう。「現れた形がたとえ児戯に類する通俗奇術のようなものであっても、これを支えている原理の闇は深いのである」(p.191)。

このあたり、見物小屋を中心に囲われていく日本の奇術師たちとは大きな差だ。泡坂妻夫『大江戸奇術考』(平凡社新書)に何気なく眼を通したりして、そんなことも併せて思ったり。

投稿者 Masaki : 23:53

2005年08月16日

若き日のマルクス

筑摩書房の「マルクス・コレクション」シリーズ1から、「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(中山元訳)を読む。学位論文だというこれ、マルクスが思想史研究から出発したということがまずもってすばらしい。内容的にも、古代ギリシアの「アトミズム」の代表格たちの思想内容がどう異なるのかという問題を鮮やかに描き出していて、とても面白い。実証的な学知にこだわるデモクリトスに対して、エピクロスはそうした学知に疑いの眼差しを向け、哲学の名のもとに自己の解放を探求する……マルクスはとりわけ後者に共感を寄せている感じだ。この基本的な対立の構図は、原子をめぐる解釈から偶然・必然の理解、さらには時間概念、星辰神学の立場の違いにまで拡大されていく。うーん、面白い。エピクロスはなかなか刺激的だ。というか、そう思わせる若き日のマルクスの議論が刺激的なのか。今現在のこうした研究がどんなところに進んでいるのか知りたくなってくる。(概説書、例えば去年復刊されたアンドリュー・ファン・メルゼンの著書の英訳『アトモスからアトムへ』("From Atomos to Atom", Dover phoenix Editions)なんかの両者の扱いの貧弱さといったら……(笑)。中世の部分もそう。まあこれ、1952年初版だというから、仕方ない部分もあるだろうし、主眼は17世紀以降の近世の科学史だからなあ。でもそうならそうで、はっきり表題に示して欲しいところ)

投稿者 Masaki : 22:58

2005年08月10日

アリストテレス思想の再考へ

「哲学も生物学などの知見について語るべきだ」という思いがますます強まる今日このごろ。そんな中、河野哲也『環境に拡がる心』(勁草書房)を読む。これが面白いのは、なんといってもギブソンの「アフォーダンス」(環境が主体にもたらす知覚のパターン化)をベースに、デカルト以来の個体主義的心理学(一種の中央制御モデル)を、例えば、材質の物質的特性が行動を制御するというチープデザインの考え方などを駆使して、より分散化したモデルに置き換えようとしているところ。さらにその過程で、何度かアリストテレスの際解釈・再評価も言及される。アリストテレスは、知覚が成立するには、知覚する能力と知覚される能力が必要だと考えていた、といった下りだ。さらにダイナミック・システム・アプローチ(行動の自己組織化論らしい)とアリストテレスの原因論と結びつける話も紹介されている。デカルト以後、アリストテレスの4つの因のうち動力因だけが採択されているけれども、「意図」なんてものは形相因なのではないか、といった話。自己組織化って、確かに形相因の話と解することができる。うん、アリストテレス思想の再評価というか復活というか、これもまた興味深い動きだ。

投稿者 Masaki : 23:32

2005年07月30日

イブン・ルシュド

3月くらいから囓り読んできた(仏語対訳を参照しながら、アラビア語テキストを辞書を引き引き読む)アヴェロエス(イブン・ルシュド)の『断言の書』がようやく読了。この書は西欧中世への影響関係の点はともかく、哲学と宗教の関わりをめぐるアヴェロエスの基本スタンスを知る上では重要な一冊。でもやはり本命は注解書。次はその『アリストテレス「魂について」中注解(تلخيص)』に進む予定なのだけれど、いよいよ今度はシャクル(アラビア語の母音補助記号で、いわばふりがなみたいなもの)なしのテキストだ。ま、大変そうだけれどボチボチとやっていこう。中世への影響関係を重点的に見るなら、当時のラテン語訳とかを読むのが重要だけれど、むしろアヴェロエスの全体像から掴みたい気がするので、やはり原典を優先したいと思っている。ちなみに、アヴェロエスの注解は小・中・大とあって、それぞれ想定されている読者が違うのだという。年代的に、比較的早くに書かれた小・中注解と、晩年の大注解ではいろいろ思想的なスタンスが異なっていたりするというし、なかなか面白そうだ。

投稿者 Masaki : 16:29

2005年07月28日

音楽記号学……

ジャック・ナティエ『音楽・研究・人生』(添田里子訳、春秋社)を読む。仮想インタビューでみずからの研究人生を振り返るという一冊。前半はとりわけ、60年代から70年代にかけての記号学全盛期の一端がかいま見えて興味深い。本人はエクス・アン・プロヴァンスでジョルジュ・ムーナンについていたといい、当時流行の「構造主義」がパリみやげのようなものだったと回顧している。なるほどねえ。その後、レナード・B・マイヤー、ジャン・モリノなどの影響のもとに、反ムーナン的な、デビッドソンなどを思わせる解釈指向の独特な音楽記号学が構築されていく……という次第。後半はさらに民族音楽、ワーグナー、音楽事典の出版などの話と盛りだくさん。

最初の方にあった面白いパッセージを一つ。トルベツコイやヤコブソンの音韻論が後に構造主義を促し、さらにはコンピュータ・システムの発展にまで影響したことに言及した後で、ナティエはこう続ける。「今日の政治権力は、即座に収益があがる研究にしかお金を出したがらないのです。馬鹿げたことです。ド・ゴールが『研究者はいらない、発明者が欲しい』と宣言したとき−−これはわれわれの現政権も、大喜びで責任をもって継承するスローガンですよ、まったく!−−ド・ゴールは、学問の歴史において現に進行している過程を無視した完璧な衆愚政治を露呈したのです」(pp.34-35)。身につまされる話だよなあ。

投稿者 Masaki : 23:12

2005年07月05日

創発する世界

語学でも楽器でも、習い事が愉しいのは、なにか難しいことが知らぬ間に出来ていた時だったりする。また、よく言われるように、それは直線的にできるようになるのではなく、きわめて段階的に進展する。ある段階を越えるのは突然なのだ。一種の回路が出来上がるというイメージ。そしてそれをいつ越えたのかというのは本人にはきちんとはわからなかったりする。これぞまさに創発ということ。「知らぬ間に」というのもミソで、それは認識そのものまでも巻き込んだものなのかもしれない……。この話をもっと精緻に考え抜いていくと、それは心脳問題になるんだろうなあ。フランシスコ・ヴァレラほかによる『身体化された心』(田中靖夫訳、工作社、2001)は、現象学をベースに、仏教の(!)三昧/覚の思想を取り込みながら、認知主義をも受け止めつつ、創発概念をフルに活用して、「自己と世界」が無根拠の闇から相互に同時にせり上がってくる運動を捉えようという一種のホーリズム。これに目を通して思い出したのは、ベルンハルト・ヴェルテ『マイスター・エックハルト』(大津留直訳、法政大学出版局、2000)だったり。こちらも、エックハルトの神秘神学的な思想と仏教思想との重なり合いを取り上げて詳述していたっけ。洋の東西はこうして、思索の根もとで通底する……これもまた一種の「創発」か?

投稿者 Masaki : 17:08

2005年06月25日

グロテスクな?

たまに教養論みたいなものが復活するが、最近もそうらしい。高田理恵子『グロテスクな教養』(ちくま新書)をちらちらと見てみたのだけれど、これもまた、明治以来の人文系の教養主義の流れを、80年代のニューアカまで踏まえて捉えようという話。受験の勝者が「ボクは受験だけの秀才じゃないやい」と、レッテルを跳ね返そうとするのが日本的教養の土台なのだという。80年代の大学って、ニューアカも確かにあったけれど、それよりも「これこれをやりたいなら、どこそれ大学のだれそれがいる。別のこれこれをやりたいなら、どこそれ大学のだれそれに学べ」みたいな、やたらに他人の業績を自己データベース化して熱心に「弟子入り」を勧めるような、ちょっと変な教師というのが結構いた。教養主義を支えている一端にはそういう勧誘や、勧誘を受ける側の模倣指向・追従指向があったと思う(表面的には模倣・追従は忌み嫌われるのだけれど……アブジェクションですかね)。同書のいう「ニューアカを支えた受容者兼模倣者」というのは、確かにそういう模倣指向を臆せずあっけらかんと示すという意味で新しい現象だったかもしれないけれど、それってやっぱり、以前からあった動きが、学問の大衆化でもって表面化しただけのことなんではないかなあ、と。

同書ではわずかしか取り上げられていないけれど、西欧の学問の輸入商ではダメだみたいなことがよく言われたりもする。けれども学問的な発展というのは、内発的なものだけでは促されないのかもしれない、という気もする。西欧の中世において確立された学問が、そもそもアラブ世界を経由した古代ギリシアの学問を受容することで成立したように、外から流入するものはやはり必須。ニューアカがフランスの現代思想に沸き立ったのも、規模や文脈は違っても、どこかパラレルな現象のようにも見える。デリダとかドゥルーズとか、当時のアヴェロエスやアヴィセンナだったのかもなあ……なんて(笑)。いずれにしても、学的衰退を招くという意味で危険なのは、そういう外部に対して閉じていくこと、か。

投稿者 Masaki : 19:45

2005年04月24日

物語行為

アウグスティヌスの『告白』とルソーの『告白』を重ね合わせ、ド・マンのルソー解釈をさらに重ねて「告白」を取り巻く「マシン」の諸相を浮かび上がらせるというジャック・デリダの「タイプライターのリボン」(『パピエ・マシン・上』、中山元訳、ちくま学芸文庫)は、野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫)と合わせて読むのがお勧めかもしれない。すると、前者ではそれほど大きな扱いではないアウグスティヌスの重要性が際立ってくる感じがするからだ。デリダのいう「マシン」概念は、後者で語られている、発話行為を構造化し共同化するための(要するに「物語」を成立するための)様々な要因の力学的布置という重なりあっているだろう。なるほどアウグスティヌスは、おそらくそういう布置を初めて(?)ヴィヴィッドに意識した人なのだ。それはデリダが指摘しているように、盗む行為そのものに語りかけるというレトリック(『告白』2巻6章)からすでに感じ取れる。なにしろ、過去の事象を呼び出して別の文脈に置き直そうとする意思が、そこには強く示されているのだから。一方の後者には、アウグスティヌスの『神の国』が歴史哲学、歴史の形而上学のモデルをなしていることを指摘する箇所がある(3章)。こうして罪の告白と線形時間の意味づけとは、過去の再構築、「物語る」行為において一つになっていることがわかる。もちろんいずれの考察も、主眼は神なき時代の語りの倫理の方を向いているように思えるけれど、アウグスティヌスの投げかける問題はまた別の意味で奥深いかも。

投稿者 Masaki : 17:03

2005年04月18日

マグダラのマリア

岡田温司『マグダラのマリア』(中公新書)を読む。マグダラのマリアが体現するイメージの変遷を、福音書の記述から検討しなおし、中世の動向を追ってルネサンス、バロック期の絵画にまで追っていくという興味深い一冊。マグダラのマリアに時代ごとに込められた様々な解釈や意図からは、人間のもつ想像力の豊かさや、政治的な思惑といったものの力学が浮上してくる思いがする。教会権威の確立のために、外典に描かれた使徒としてのマグダラのマリアを貶める四福音書、断片的イメージを繋いで神への奉仕や瞑想的生活のモデルを作り上げた大グレゴリウス、マルセイユからガリアに入ったというプロヴァンス地方の伝承、13〜15世紀の女性神秘家たちの伝記にとってひな形となったマグダラのマリア伝……。それぞれがなんらかの思惑で解釈を一定方向に引っ張っていく。語られるものが語りの経路・水路を通る時に、その経路によってどのように美化されたりゆがめられたりするのか、という問題がここからも見てとれる。

物語だけではない。歴史も同様(だからここでは語られるものという言い方がいい)で、しかもそれは遠い過去に限らない。近・現代史もまたしかり。こういう歴史の語りが変貌していく姿をきちんと視野に収めること、歴史についての語りを相対的に捉えることが、歴史リテラシーとしてこれからいっそう重要になっていきそうだ。中国や韓国の反日デモについても、長い目でみた場合の紛争解決・相互理解の道筋は、結局両者がそういうリテラシーを育むこと以外にないのでは、と……。

投稿者 Masaki : 15:55

2005年03月29日

文化流入

最近文庫で出たフリッツ・ザクスル『シンボルの遺産』(松枝到訳、ちくま学芸文庫)の3章目は題して「中世の宇宙観」。それによると、後期ヘルメス思想やグノーシス思想のミクロコスモスのイメージは、中世絵画の文献的基礎をなしたとはいうものの、後期古代世界の手本は受け継がれても、そうしたミクロコスモスの教えそのものは受け継がれていないのだという。例えばボエティウスが伝えたという「運命の輪」の表象も、キリスト教への異教の理論の流入といったことはなかったのだというし、ビンゲンのヒルデガルトの幻視の絵画表現も、ミクロコスモスとしての人体図は確かに古代の神話を受け継いでいるようにも見えながら、異教的なものを排しつつキリスト教的な解釈を展開する。12世紀はそうしたイメージばかりが先行し、後にアラブやユダヤの翻訳を通じて古代世界の思想内容が流入してくることで、表面だけをさらっていた状況は一変していくのだという。うーん、文化流入の問題を改めて考えさせる一節だ。「文化の伝達はまず形から入る」のかしら?

そういえばヒルデガルトの幻視にあるような「宇宙卵」の表象は、例えばコンシュのギヨームの『ドラグマティコン』(哲学対話本)などにも登場している。四元素が織りなす宇宙の総体的な姿を卵になぞらえて語っているわけだけれど、このあたりの表象も追っていけば面白いかもしれない。以前「古楽蒐集日誌」(旧)に掲載したヒルデガルトの宇宙卵を再度掲げておこう。
hilde-egg.jpg

投稿者 Masaki : 22:45

2005年02月17日

ヨブ記

ヘブライ語聖書(旧約)の定番的存在『biblia hebraica stuttartensia』(ドイツ聖書協会、1967-97)を、同じくドイツ聖書協会の『七十人訳旧約聖書(septuaginta)』(1935)のギリシア語も参照しながら少しづつ囓り読んでいく、という作業に着手しているのだけれど、これは結構興味深い作業になりそうだ。手始めは『ヨブ記』。なぜかというと、つい最近、アントニオ・ネグリ『ヨブ−−奴隷の力』(仲正昌樹訳、世界書院)を読んだから。同書でもなかなか刺激的な読みが展開される。ネグリは、獄中体験もあってか、理不尽とも思える力に翻弄されるヨブの姿に、悲惨からの脱却を計る行為論と、世界の再構築の手がかりを見る。なるほど、それは搾取された労働から肉の復活というテーマに重なるわけか……哀しみの克服、経験の脱受肉化、希望の新たな受肉などなど。先のバディウのパウロ論もそうだけれども、唯物論的なスタンスからの読み込みは、一種の反転現象を起こし、聖書のもつアクチャリティを実にくっきりと浮かび上がらせてくるから不思議だ。原理主義的な狭窄的読みとはまったく逆に、そこからは実に豊かな思想的光景が立ち上がってくる。うーん、このテクストにこうした読み方……これってある種の贅沢?いずれにしても、聖書はまだいろんな問いの間口を抱えていそうだ。

投稿者 Masaki : 23:38

2004年12月30日

カンマ一つで……

以前に購入して積ん読になっていたアミール・D・アクゼル『羅針盤の謎』(鈴木主税訳、アーティストハウス)を読む。世界三大発明の一つともいわれる羅針盤についての概説書なのだけれど、中国起源説などへの目配せなどもちゃんとあって、著者のかなりフェアな立場に好感がもてる。それにしても面白いのは、その「西欧での」発明をめぐるエピソード。西欧では、羅針盤は一応南イタリアのアマルフィが発祥の地とされ、フラヴィオ・ジョイアという人物が発明者だということになっているそうなのだが、実はこの人物、史料の誤読が招いた架空の人物である可能性もあるのだという話。

アマルティでコンパスが発明されたと最初に文献に記したのは、15世紀初頭の歴史学者フラヴィオ・ビオンドという人物なのだそうだが。その後、今度は16世紀初頭の文献学者ジャンバティスタ・ピオがアマルティとコンパスについて述べることになる。そして問題なのはその後者の一文。"Amalphi in Campania veteri magnetis usus inventus a Flavio traditur..."というのがその文で、そのまま読むと「古カンパーニャ地方のアマルフィにおいて、磁石の利用がフラヴィオにより考案されたと伝えられる……」。ところがこれ、inventusの後にカンマがあれば、「古カンパーニャ地方のアマルフィにおいて磁石の利用が考案されたと、フラヴィオによって伝えられている……」。この場合のフラヴィオは、上のフラヴィオ・ビオンディのことを指すのではないか、フラヴィオ・ジョイアという人物が仮構されたのは、そのカンマがいつしか抜け落ち、誤読が誤読を読んだ結果ではないか、というわけだ。この問題をめぐっては賛否両論があって、決着はついていないのだという。史料の読みの難しさと、そのスリリングさとを改めて感じさせるエピソードだ。

投稿者 Masaki : 20:21

2004年12月10日

倒錯的な核

学生時代にフィリップ・K・ディックのSF『ヴァリス』を読んだ時、新たな救世主となるはずの者がすでにこの世を去っているという設定に、なるほどキリスト教の根本にもそういう喪失感があって、それを中心に様々な表徴が構築されているのかもなあ、という感慨を抱いたことがあった。この問題機制、以来突き詰めようとし損ねてきた感じもあったのだけれど、最近読んだジジェクの『操り人形と小人』(中山徹訳、青土社)によって古傷を改めてつつかれた気分になった。同書は、精神分析の側からそういう核心部分をめぐる問いへと下りていくスリリングな(けれど晦渋な)試み。この読みによると事態はそれほど単純ではなくて、突き詰めていくと「神」というのは「神」と人間とのギャップそのものでしかない、一者は一者に還元されず、宙づりのままになってしまうという構図が出てくるという話になる。ここに例のアガンベン的な例外状態の論がからみ、愛や法や罪といったものがいずれも倒錯的な形で構造化されている様を、これでもかこれでもかと投げつけてくる。うーん、時事問題や多少下世話な話も出てきたりして、ある意味爽快でもあったりするあたりが、やはりジジェクの微妙な持ち味。移民擁護を吹聴する知識人の言葉をなぜ文字通りに受け取ってはいけないのかとか、テロルと戦うことがなぜ民主主義を破壊するのかとか……いろいろ。

こういう本はそもそも誤読してナンボなのだけれど(笑)、それにしても、閉じつつ閉じていない決定不可能な系という、ことさら最近よく耳にする構図(ここでは精神分析的に扱われている)では、時間の刻印といった問題をどう扱うのか、なんて問題が今ひとつ見えてこない。キリスト教の構造が特殊な読みを通じて取り出せるとして、それは現象としても解釈としても時間を刻印された営為としてしか取り出せないんじゃないかと。うーん、この間の「共時態の問題がもしかしたら突き詰めると通時態の問題になるかもしれない」なんて話もまた「倒錯的な核」ってことになるのかしら……。

投稿者 Masaki : 22:50

2004年12月03日

ソシュールなど

『月刊言語』(大修館書店)12月号は「言語研究の現代性」と題した特集。たまにこういう最前線報告みたいな特集があるけれど、今回も生物学、大脳生理学、コンピュータサイエンスでの自然言語処理、行動心理学(ゲーム理論)などなど、もはやメインストリームは自然科学的アプローチにあることが如実に示されている。コラム扱いになってしまっているソシュール再考、サピア再考などがちょっと哀れな感じもしないでもないが、中身はまだまだ。ソシュールの一般言語学は弟子たちが講義ノートを再構成したものだけに(学生時代にエングラー版のノートを読むという授業を受けたことがあって実に面白かった)、当然その講義の元の姿を構築しなおそうという動きは昔からあったわけだけれど、松澤和宏「ソシュールの現代性」は、ソシュールの考える時間概念に再検討の余地があるという話を紹介して、通俗的な共時態理解を斥けようとしている。うん、なるほどまだまだ掘り起こすべき検討材料はいろいろ転がっているかもしれない。個人的にも、2002年に刊行された『一般言語学草稿集』("Ecrits de linguistique générale", Gallimard, 2002)を今さらながらぼちぼちと読んでいるのだけれど、質料形相論の伝統とか感じられる気もしたり。

加藤泰彦「サピアの現代性」も、その経済性や自律性の概念が現代の問題に重ね合わせられうるものだということを示していて興味深いし、赤松明彦「パーニニの文法」では、サンスクリット文法の始祖だというパーニニの文法が、プログラミング言語にも匹敵する簡潔性・体系性を備えていることを指摘していてこれまた刺激的。そう、考古学的な掘り下げの可能性はまだまだ大きく開かれていそうだ。

投稿者 Masaki : 22:27

2004年11月17日

紙と書籍と

書籍の歴史はいろいろな意味で面白い。最近読んだ箕輪成男『紙と羊皮紙・写本の社会史』(出版ニュース社)は古代文明の地域別に紙と写本の歴史をまとめた一冊で、なかなかの労作だ。紙という媒体の浸透を決めるものは、結局土地ごとの需要、すなわち市場だという視点で一貫している。それはそれで一見説得力はあるように見えるのだが、ベースのデータは仮説的・推測的な数字でしかなかったり。著者みずからがそういう部分に批判を述べる一方で、時に完全にそれに準拠してしまうのはちょっと問題か。それと記述が時にエッセイ的に流れていくのが難点といえば難点か。文献的情報は手堅くまとめているだけに、ちょっと勿体ない気もしなくない。

これとはうって変わって、近代の、それも日本を扱ったものにも多少は目を通さないと……というわけで、今さらながらだけれど前田愛『近代読者の成立』(岩波現代文庫)。もともと1973年の刊行というから、フランスのアナール派などの動きとの並行現象として、同書それ自体に興味深いものがあるかも(笑)。天保の改革が作家に与えた影響とか、明治初期の貸本屋の凋落とか、立身出世主義の系譜など、各章ともそれぞれに面白いのだけれど、通底する考え方は、人間の能力・適応性(この場合で言えば読み書きの能力)が他を率いていくという、ある意味で至極まっとうなスタンス。上の書籍もそうだが、安易な技術決定論を斥ければ、代わって浮上するのは人の能力や、それに密接に絡んでくる経済関係だが、両者のダイナミズムを下支えするという観点から、再び技術や技法といったものを復権させられるかもしれないなあ、なんてことをツラツラと思ったり。

投稿者 Masaki : 21:03

2004年11月08日

セム語族

中世思想をやろうと思えば、ラテン語ギリシア語はもちろん、アラビア語やヘブライ語といったいわゆるセム語族もかじらざるをえない。古代ギリシアの思想がアラビア経由で入ってきたことと、その翻訳過程にユダヤ人が少なからず関わっているのがその大きな理由だ。中世哲学会が出している紀要『中世思想研究』46号などにも、前年に開かれたシンポジウムでイスラム哲学の問題を始めて取り上げている。いずれにしてもイスラムまでをも視野におさめることは、西欧思想を探ろうとする場合には少なからず必要になってきている。なかなか面白そう。

とはいえ、セム語系はなかなか一筋縄ではいかないもの。例えば辞書を引くのにも語根引きが一般的で、定番といわれるHans WehrのDictionary of Modern Written Arabicもその方式。語根が分からないとちゃんと引けないので、なかなか初級者にはつらいところだ。けれどもポケット辞書ながら、結構役立ちそうなものがアルファベットで引けるAl-Mawrid, Al-Quareeb Pocket Dictionary。ポケット版は今ならAmazon.comのマーケットプレイスとかで買える(価格の幅が大きいので注意が必要かも)。語根引きに慣れるまでは当分こっちで、アヴェロエス(イブン・ルシュド)なんかと格闘できるかしら?それにしても、これだけ中東が関心の裾野を広げているのだから、ぜひ日本語で引ける辞書やまっとうな学習書も拡充してほしいものだと思う。一方のヘブライ語は、キリスト聖書塾が出している『現代ヘブライ語辞典』と版元が変わった(?)『ヘブライ語入門』が定番。学習者にとってはとてもありがたい配慮と充実ぶりに感謝(笑)。マイモニデスとかぜひ原典購読したいなあ、と。

投稿者 Masaki : 23:30

2004年10月30日

ミッション!

発行元がFayardに移って2冊目の"Cahier de Médiologie - no.17"にようやく目を通す。5月に出るはずだったのがなぜか大幅に遅れ、出たのは8月だった。特集はミッション……宗教的には伝道を意味するし、外交的には使節団、さらには使命という一般的な意味もあるこの「mission」なる語。興味深い論考を挙げておくと、まずは語義の変遷(Pierre-Marc de Biasi)。もとはラテン語のmissioで、これは送ること、放置することなどの意味(そこから休みを取るなどの意味にもなったし、中世には出費の意味にもなった)で、宗教的なキリストの代理人の意味が登場するのは14世紀になってからだという。この意味は1500年ごろまで続き、これが伝道の意味で使われるようになったのは17世紀だという(それまではevangélisationが普通だった)。なるほど、以外と宗教用語としてのミッションは古くない。一方の外交使節の用例はmissi dominiciiという形でカロリング朝からあったという。聖王ルイが異端審問の担当者をcommissaireと呼んだのが、現代のフランスの「警察署長」「役人」「監視人」を意味するその語のもとらしい(Michel Biard)。

さらにJean-Francois Clémentの論考「地中海:伝道なき伝達」は、13世紀カラロニアの神学者ライムンドゥス・ルルスのチュニスでの伝道の失敗に言及していて興味深い。論駁だけで伝道は可能だというその信念は、伝道の失敗についての反省の契機を失わせるのだという。続くフランシスコ会も、ドミニコ会も、やはり抜本的な戦略を見直せない……そのあたりの歴史的な検証は面白いかもしれないなあ、と。また、なぜキリスト教ばかりが拡張政策に乗り出していったのかといった問題も刺激的だが、全体的に帝国的なものに絡む論点が意外に少ない。イスラム教の布教についての報告や、アメリカ流メシアニズムについての小論も収録されているが、このあたりは紹介記事的なのが物足りないか?

次号は個人的には待ってましたという感じの音楽論特集。11月刊行予定らしい。Cahiersのサイトによれば、それ以後は年1冊ペースになるんだとか。ん?新たにドブレがMediumという雑誌を刊行するとあるけれど、これって会員制なのね……小部数で手っ取り早い方法だが……。おっ、日本でメディオロジーをいち早く(最初でしょうね)紹介した東大の石田英敬氏が執筆陣に加わっているぞ。表題は「天皇の肖像」?内容は知らないけれど、日本の学者が向こうの雑誌に寄稿したり発表したりするような場合、まずもって日本に固有の状況の紹介・分析を期待されるのは仕方のないところか……。そんでもって、サイード的オリエンタリズムの目線をどう回避するかは思案のしどころ、か……

投稿者 Masaki : 23:10

2004年10月05日

海の怪物

ナチスへの加担で評判の悪かったカール・シュミットだが、最近はアガンベンの例外状態の議論などで、ちょっと注目が高まっている(のかなあ?)。その政治論の一つで、ホッブズを論じた『リヴァイアサン』("Der Leviathan", Kkett-Cotta 1938-2003)を読んでみる。ホッブズの国家論を、中世以来の伝統と17世紀ごろからの世俗化プロセスとの両方にまたがるものとして解釈しているあたり、なかなか正統派な議論のよう。面白いのは、冒頭から続き各所にちりばめられているリヴァイアサンの神話的系譜への言及だったり。なるほどこの海の怪物、ヘビや悪魔などの表象を経て、17世紀にはクジラのイメージに到達する、というわけだ。ホッブズが暴力から身を守る強力な国家像として描いたリヴァイアサンに、海洋国家イギリスではなく、大陸の方で呼応していく点は確かに興味深いかも。

投稿者 Masaki : 00:13

2004年09月27日

人間の境界

最近は映画を劇場で観る機会はずいぶん減ってしまい、もっぱらビデオやDVDでのリリースを待ったりしている。そんなわけで押井守『イノセンス』も最近ようやく見たばかり。映像は格段に精密化してはいるものの、国際マーケットを意識しすぎのような中国的色づかいなどはちょっとなあ、という気も(笑)。内容も引用の洪水がちょっと鼻につく感じもしないでもないし、テーマの「人形」も、なんだか根源の呪術的なものの言及や取り込みがないのが物足りないかと……。とはいえ、何が人間を他から区別しているのか(人形から、動物から)という問題設定そのものは、作品が全体として収斂していく合理的な説明の枠にはおさまりきらない……。

……なんてことを思ったのは、ちょうどジョルジョ・アガンベンの『開かれ』(岡田温司、多賀健太郎訳、平凡社)にずらずらっと目を通したばかりだからか。体裁は小著ながら、扱う内容は人間というものの動物からの分割が、決定的な分断をなしえない宙づりのまま、政治や学問などに影を落としている様を、13世紀のヘブライ語聖書からリンネの分類、ハイデガーなどをもとに通観しようという刺激的な一冊だ。人間概念のこれからとしてアガンベンは、より有効な分節化を考えるのではなく、中心の空虚(人間の中にあって動物と人間を分断する断絶)を見据えることを説いている。上の『イノセンス』などがある程度近づきながら、いいところで戻ってきてしまうのは、そういう空虚の凄みの部分かもしれないなあ、と。

ところで、この『開かれ』19章で、ティツィアーノの2枚の絵に言及される。エジンバラのスコットランド国立美術館所蔵の『人間の3段階』と、ウィーン美術史美術館の『ニュンフと牧童』。同書では、後者が前者への反駁として、「動物的でも人間的でもない新たな至福の生を享受する」至高の段階を指し示しているのだと説かれている。うーん、こうした図像学的な解釈、ちょっと唸ってしまうよなあ。以下がその2枚。

three_ages.jpg

tnymph_and_shepherd.jpg

投稿者 Masaki : 22:28

2004年08月14日

デイヴィッドソン

先日とある大型書店で、季刊雑誌『哲学』(哲学書房刊)の11号(1990年)を見つけた。特集はなんと「オッカム」。オッカムのウィリアムといえば、やはり「オッカムの剃刀」が有名だ(必然性がない限り、複数の物事を立ててはならない、というもの)が、冒頭の清水哲朗による論考では、その綿密な方法論ゆえに、少しでもなしですませるものは切り捨ててしまうという印象だけが残り、後世において「剃刀」と言われるようになったのではないかと述べている。けれどもそれは、本来的にはオッカムの推論上の方法論であって、切り出しという有用性の側から見返すこともできるのだ。

そんなオッカムの剃刀の現代版を思わせるのは、デイヴィッドソンの議論かもしれない、なんてことを思わせてくれるのが、「シリーズ・哲学のエッセンス」の一冊、『デイヴィッドソン:「言語」なんて存在するのだろうか』(森本浩一、NHK出版)だ。この小著による限り、デイヴィッドソンのコミュニケーションの捉え方では、共有する前提など仮構されず、ただ単に、その都度の解釈とその修正があるだけなのだ。うーん、この切り取り方の徹底ぶり。けれどもこれは、ある意味での卓見だ。デイヴィッドソンの著者そのものもちゃんと読んでみたい。分析哲学(最近、『現代思想』とかも特集を組んだし、何か注目が集まっている感じ)の中にオッカム的な方法論がどう息づいているのか、なんてことを考えるのも案外興味深いかもしれない。

投稿者 Masaki : 16:58

2004年07月22日

哲学の二つの文化

このところ読んでいた本の一つがサイモン・クリッチリー『ヨーロッパ大陸の哲学』(佐藤透訳、岩波書店)。分析哲学と大陸哲学(すごい呼び名だけど)をイングランド対ヨーロッパ大陸という地理的図式に還元せず、むしろ文化的な二つの流れと捉え、双方の和解のための道を示唆するというなかなかに野心的(?)な一冊。前者が諸学説の真偽を問い直すのに対して、後者はその意味を考え直すというわけだが、下手をすると後者は前者から「テキストの注釈をしているだけ」と見なさがちになってしまうという。実際には、そうした間接的アプローチも重要なのだけれど(著者もそう述べているが)、場合によりそれは大陸の伝統に息づく(とされる)反科学主義と合わさって、漠とした非明晰主義に陥る危険もあるのだという(著者は神の意思から始まって、フロイトの衝動やらユングの元型やら、さらにはラカンの現実界、フーコーの権力、デリダの差延、レヴィナスの神の痕跡などもそういう非明晰主義的説明の候補になっているという。こりゃ手厳しい)。

一方その対極にある科学主義もまた批判されなくてはならない。そんでもって、著者の説く和解案は現象学的課題の中にある。「反省に先立つもの、前理論的基体に関する反省」こそが現象学だという著者は、まさにその暗黙知を整理し直し、生活世界を捉え直すことが第三の道を探ることになるのだと提言している。なるほどね。でもこれって確かに今進行しつつある動きのような気もするのだけど……まだいろいろな問題が手つかずなのも事実か。そういえば著者は、デリダの近年の仕事を「興味をそそるような現象学的革新がある」としながら、「人はそれらのいずれも、本当に世界に火を灯すことはないという印象を持っている」とも付け足している。それはなぜなのか。「人がすでに反省的意識を獲得してしまったとき、どのようにして人は知覚的信念の素朴さを取り戻すのだろうか」(p.150)というメルロ=ポンティ的問いは、まずもってそのあたりに向けられるべきかもしれないなあと(笑)。いや本当に。

(追記):
科学主義の批判という点で興味深い別の本として、落合仁司『トマス・アクィナスの言語ゲーム』(勁草書房)がある。そこでは、合理的な知識のみを真理とするのが科学主義であり、理性が把握しえない世界を否定するものと定義されている。ところが科学主義での真理の決定基準を掘り下げると、その決定基準自体が真かどうか決定しえない事態が生じるというのだ。科学主義はおのれが真理であることを決定できないのだ。

投稿者 Masaki : 23:13

2004年07月10日

技術への問い?

アンドリュー・フィーンバーグ『技術への問い』(直江清隆訳、岩波書店)をななめ読み。「テクノクラシーと戦う」という旗印の下で、ニューレフトっぽい技術論を展開しようというのがスタンスで、そのための問い直しの過程で技術決定論が批判され、構成主義的な見方が擁護されていく、というのがメインストーリーか。技術をそれ自体で閉じたものとして見るのではなく、社会的な関わりに開いていくべきだ、というのは割と聞く話で、今や珍しくもないけれど(科学技術時代の話ではないけれどヘンリー・ペトロスキー『本棚の歴史』(池田栄一訳、白水社)なども、手工業時代の工芸品にそうした視点をきっちり合わせていて興味深い)、ま、ハイデガーやらマルクーゼやらハーバーマスやらと、多少とも技術と関わってきた哲学者のスタンスをめぐる見取り図としては悪くないか。けれどやっぱり、対象物についてのもっと具体的な話とか読みたいよなあ。科学技術時代の大がかりな技術産品について、例えば同書が決定論として批判する(評価もしているみたいだったけど)シモンドンが描いたようなダイナミックな記述を、社会との関わりの文脈で描くような大著って、あんまり見かけない気がする。技術分野に限らず、権力批判はやはりそういうある程度具体的な話から出てこないと……という気がするのだけれど。

投稿者 Masaki : 22:44

2004年07月01日

物語論

白水社の文庫クセジュから出たジャン=ミッシェル・アダンの『物語論』(末松寿ほか訳)。プロップ以来の60年代〜70年代の物語論をまとめて紹介した一冊。あー、ついにこういうのが出るようになったんだなあ、と感慨深かったりもする(笑)。ブレモンやグレマスの物語分析はもう古いけれど、全体的な流れをここでいったん掴み直しておくのはよいかも。これらの話を眺めてみると、やはり改めて思うのは中世のスコラ学の変遷との類似かしら……物語論の出立点にはどこかオッカムの『大論理学』の微細なディスクールの分析に通じるものがある(もちろん中身は大違いなのだけれどね)。その後のスコラ学がたどった精緻化・自己目的化は、グレマスとその一派の意味論の展開(その形骸化なども含めて)と実にパラレルだ。ところでこの小著の著者アダンは、グレマスの一派に対しては距離を置いていて、言表作用からの分析を提唱する立場を取っている。グレマスが物語のジャンル性をいきなり意味論一般に拡大するのに対して、あくまで物語を特殊な一事象と見なしている(言表作用から見ればごく当然なのだけれど)。物語の特殊性をまとめた箇所では、アリストテレスの『詩学』に戻っているところが印象的(?)。80年代や90年代の動向が扱われてないのが残念だが(それもそのはずで、原書は1984年刊)、一つの見取り図としては興味深いかも。やはり記号論の関係領域は、中世や古代への遡及が鍵になりそうだと改めて思う。

投稿者 Masaki : 11:07

2004年06月26日

現代ギリシア語

大修館書店の『月刊言語』7月号の特集は「現代ギリシアのことばと文化」。オリンピック関連企画という感じが微笑ましい(笑)。中世思想史などをやるなら、当然古典ギリシア語は必要だが、多少現代のギリシア語への目配せがあってもよいかもしれない……なんて思ったりもする。この特集に寄せられた橘孝司氏の小論にもあるように、現代のギリシアの学生たちは現代語風の発音・読み方で古典語を学んでしまうのだというし。そういえば、前に取り上げた河野与一『学問の曲り角』(岩波文庫)にも、ギリシア人教師から、いわゆるインターナショナルではなく、現代語風の読み方で古典語を教えるよう提言を受けたなんていう話があったっけ。現代語への影響関係としてはトルコ語とイタリア語からの借用語が多いのだという。なるほど、ギリシアは1453年以来オスマン朝トルコの支配下にあって、独立をなすのは1821年。イタリアは地理的なつながりが顕著。フランスのAssimilが出しているSANS PEINE語学シリーズの現代ギリシア語テキスト(なんとこのシリーズから、今年2月に古典ギリシア語テキストも出た!)にも小さく記されているが、この独立戦争にはフランスからも多くの援軍が出兵しトルコとの戦いで命を落としているという。ギリシアの独立記念日は3月25日で、この日は盛大なパレードが行われたりするという。

余談だが、サッカーEuro 2004では、アテネオリンピックへの余勢なのかギリシアがフランスを下した。うーん、なんかすごいな、この勢い(笑)。

投稿者 Masaki : 11:42

2004年06月14日

ジャーナリズムと用語と

ある放送関係者が、まるで鬼の首を取ったように「フランスのニュースはなんだか核のない肉の塊のようだ」などとコメントしているのを聞いた。France 2の報道を見ての感想らしいが、ここから最近目を通した二つの書籍が連想として浮かぶ。

一つはフェリックス・ガタリ『カオスモーズ』(河出書房新社)。相変わらず晦渋。二項対立などの図式化で括ってしまう安易な分析を批判するのは結構だが、その代わりに出してくる「詩的」キーワードには、どのようなコノテーションが付されているのか、捉えにくい。明示的な定義を避けているからだけれど(明示的定義は、上の図式化の最たるものというわけだ)、それだけに読むのは大変だ。例えばリトルネロ(リトルネッロの方がよいと思うけど)概念。本来のリトルネッロはイタリア語でいうリフレイン。それが転じて、「独奏部を挟んで反復される総奏部」の意味になったわけだけれど、ガタリはそれを一つの機械的反復に見立てている。鳥の歌が性行動の誘惑や闖入者の追い出しなど「特定の機能空間を確立する」のと同様に、人の原始的な儀式の踊りや歌は「集合的実存の領土」を画定した、という一節からもわかるように、これは人の身体表現にまつわる反復作用のことのようだ。こういう感じで、別の文脈に組み入れられた用語の理解を、本文から寄り集めて作り上げなくてはならないところに、現代思想のある種の書籍の、読者に対する高い要求がある(そういえば、現代思想でいう「ポリフォニー」も「テキストの文面から隠された別の声を聞く」みたいな意味で使われるけれど、音楽でいう多声音楽(ポリフォニー)は、複数の声部が構造的に曲の全体を織りなすわけで、別の声を聞くというようなものでは到底ないのだけれど(笑))。そうした読者の関わり方の要求も、つきつめていけばスコラ哲学あたりに端を発するような気がするけれども(検証が必要だが)、もう一つのその末裔であるジャーナリズム(特に知識人的な文脈での)にも、同じように読み手や視聴者にそれなりの応力を求める傾向があるような気がする。

もう一つの連想は、ピーター・P・トリフォナスなる著者の解説本『エーコとサッカー』(岩波書店)。こちらはサッカー嫌いを標榜するエーコのテキストを紹介しながら、その問題を紹介していくというもの。エーコの本文をそのまま訳してくたほうがよっぽど面白いと思うのだけど、どうやらエーコは、現代のスポーツがスポーツジャーナリズムに回収され、しかも権力から返報の及ばないところでくっちゃべっているところが、まさに無知の場だと痛烈に批判しているらしい。考えてみると、これはスポーツに限った話ではない。無駄話、ミスコミュニケーション、無用の言説、記号の過剰なコード化などというのはいたるところにある。これってガタリ的に言うと、一種のリトルネッロということになるのかしら。ジャーナリズムの語りがどこか肉の塊のようなのは、そういう部分の問題があるからかも。願わくば放送関係者は、「フランスの放送は……」なんて言い放って終わらずに、自己反省もしていってほしいものだと思う。

投稿者 Masaki : 00:47

2004年05月15日

コーラ

少し前から読んでいるプラトンの『ティマイオス』。テキストをちびちび読んでいるため、まだ当分かかりそう(苦笑)だが、これは言わずと知れた宇宙開闢論。世の姿の成り立ちを百科全書的に述べていて、カルキディウスの注解で中世の宇宙観に多大な影響を及ぼしたことから、中世の思想史関係をやるなら、やっぱり避けては通れない一冊だ。で、そんな折りも折り、邦訳でデリダ『コーラ - プラトンの場』(守中高明訳、未來社)が出た。

コーラ(Χώρα)は「場」というか、限定空間、容れもの、「間」「隙間」などを意味する語だが、『ティマイオス』では、世界の成立に関わったものとして、知解可能な「モデル」と感覚的な「モデルを模倣したもの」のほかに、言葉で示すのが難しい第三の種(ジャンル)として取り上げられる(49a)。これをめぐっては、アリストテレスが『自然学』4巻で「質料」として解釈したのを始めとし、ハイデガーの『形而上学入門』に至るまで、連綿たる注解の流れがある。そのそも注解というのは哲学的営為の根本にある行為だけれど(フランスのバカロレアなんかでも小論文の選択肢の一つはテキストの注解だ)、さすがにデリダの「注解」はまた異色な刺激に満ちている。

そこでの「コーラ」はまさしく構造的に開かれたジャンルの裂け目だ。デリダはそれを、メタファーと本来的意味といった対立、神話的次元とロゴス的次元といった対立をも越えて、それらを無化するようなものとして取り上げている。世界の成立(『ティマイオス』が語る)に与るこの明示されないもの……ここには、ディオニュシオス・アレオパギタ(偽)などへといたる新プラトン主義的な神秘神学の遠い残響ももちろん感じ取れるし、同時に、河野与一が指摘していた「形ばかりを見て<もの>を見ない」という西欧の形而上学的盲点(ものの形は、ものを使う際には意識から消されてしまう)への足がかりも感じ取れる。「哲学素ではなく、それでいて、神話的タイプの架空の物語の対象でも形式でもないとすれば、この図式の中のいったいどこに、それを位置づければよいのか」(p.36)というデリダの問いは、不可知の存在すら仮構できない現代の知の、まさに極北へといたる道か……。それにしても、コーラの話だけに限らず『ティマイオス』は面白いぞ。

投稿者 Masaki : 23:18