2007年05月08日

面舵いっぱい

フランスがさらなる自由主義に向けて面舵をいっぱいに切った……。うーん、予想されていたこととはいえ、こうなってみると、人ごとながらなんだか空恐ろしい気もしないでもない。なにしろ今回は急激な路線変更になりそうだから。全体的な生産性を高め、景気をよくし、その波及効果によって失業も減らす、と聞けば、それなりに理屈としては通っているようにも思えたりもするけれど、それはあくまで前提としての理屈での話。よく言われているように、実際には、フロム・スクラッチで制度を作り直せるわけではないので、その途上で既存の制度との間に様々な問題が出てくる。すでにこちらの国でも多少とも経験ずみだけれど、これまで手厚い労働者保護などがなされてきたフランスにあっては、問題の規模、深刻さは、こちらの国の比ではないだろうなあ、と……。すでにサルコジは、キャンペーン終盤で、68年の5月革命の遺産はすべて葬る、みたいなことを述べているし……。

フランスが路線変更に向けて投票を行っていたころ、個人的には工藤庸子『宗教vs.国家』(講談社現代新書)を読んでいた。人権を訴えるポスターにマザー・テレサの写真が使われていることに、フランス人が覚えるという違和感の正体は何か、ということから出発して、フランスのガリカニズム(教会制度をめぐるフランスの独自性だ)からいかに政教分離の思想が湧出していくのか(そして逆説的に両者がいかに結びついているのか)を、おもに近代の小説作品の描写を史料として読みつつ考察していくというもので、小著ながら考えるところの多い一冊だ。「国家の内部に組み込まれていた教会を国家から分離」(p.188)する過程は、かなりの強行だった印象を抱かせるのだけれど、ここで重要なのは「政教分離に伴う課題は、宗教を弾圧することでもなく、国民の教会離れを促進することでもなく、じつはキリスト教信仰に代わるものを共和国が発明することにあった」(p.144)という点。たとえば、いわゆるNPOに相当するフランスのアソシアシオンは、社会的な有用性を担う側面の強かった近代の修道会・信徒会などをベースにして発展してきたものの、これが1901年のアソシアシオン法で国家によって宗教色の排除を課されていく。結果的に、修道会などが担っていた女性の社会参画や教育は、世俗化する形で継承されて今に至っている、という。

共和制の中での教会は優遇などいっさい与えられず、組織としては完全に国家から分離し自立した。ここでの「教会」を「左派が作ったもろもろの制度」に置き換えると、なんだか同じようなことが規模を縮小して繰り返されそうにも見える。右派は自由主義をベースにした代案を示し、左派が作った制度を国家から切り離し、アソシアシオンのような形で(あるいは民間企業の形で)それらが担われていけばそれでよいとする。それで担い切れないような部分が出てきたらどうするか。無理矢理にでも担わせる?それはそれで制度矛盾が出てきそうだけれど……。いずれにせよ、今回の大統領選キャンペーンでも明らかだったように、右派・左派の最大の政策的な違いは、基本的にセーフティネット部分をどう作るかにしかない。でも、そろそろ生産性をめぐる前提の議論あたりから再度見直すようなことをしないと、たとえばこれから深刻化しそうな環境問題なんかには到底対応できない気もするが……。

投稿者 Masaki : 10:04

2007年04月09日

「先天性」問題……

都知事はまたアレに……。なんだかなあ、という感じ。同じく、なんからのポピュリズムを吸い上げて当選を果たしそうなのが、フランスのサルコジ。つい先週、ミシェル・オンフレとの対話を、雑誌『フィロゾフィー・マガジン』が企画した際(肝心な部分の抜粋がオンラインで読める)、サルコジは「幼児性愛とか同性愛とかは先天的なもんだ、遺伝的に決定されている」みたいな発言をして大ひんしゅくを買っている。オンフレは早口で語りまくるタイプだったけれど、サルコジはそれに輪を掛けてひたすら喋るタイプのようだ。落ち着かない人なのね。そのあたりの話が、オンフレ氏のブログに記されている。世界と関係のない純粋なイデーというものがあるというのが、どうやら右派の考え方、オントロジーだ、と同氏は述べているけれど、実際、科学的見地というようなものをいっさい無視して、ドグマ的な「憶見」を放言するあたり、サルコジもまさにどっかの知事と似たりよったり。こうして同類がはびこっていくのか……。

また、Herodote.netに少し前に紹介されていたのだけれど、『ル・モンド・ド・ラ・ビーブル』誌が面白い調査をまとめている。選挙キャンペーンの演説でキリスト教的リファレンスが各候補にどれだけあるかというもので、それによると、預言的性格をもった演説をするのがロワイヤル、もっとも世俗的なのがバイルー(カトリック信者であることを公言していたはずだけども)。サルコジは最も聖書への言及が少ないものの、フランス国内のキリスト教の歴史については最も多く言及しているのだそうで。

投稿者 Masaki : 22:28

2007年01月11日

Pas très catholique ?

ワルシャワの大司教に使命された聖職者(スタニスラフ・ウィーグルス)が、かつて共産党の秘密警察のスパイだったという過去を取り沙汰されて辞任することになった話(7日)は、その後、今度はクラクフ(ポーランド南部)にまで飛び火し、同地の聖堂参事会員がやはり同じ廉で辞任している(9日)。ポーランドのようなカトリック大国(国民の9割とかいう)においても、高位聖職者の過去という問題は、もはや避けて通れなくなった、とか、法王庁の威信にも大きな打撃、などと報じられているけれど、なんだかこの一件は、悔悛の概念とか、法王などの無謬性の建前など、教会の根幹に関わる概念そのものを大きく揺さぶっている感じだ。現法王はトラブル続きだが、それにしてもカトリックの威信に微妙な影が差している感じは否めない。

ちょうど時を同じくして、フランスではカトリック信者が国民の51パーセントにまで落ち込んだという報道がなされた(10日付けルモンド)。94年の調査では67パーセントだったというから、12年ほどで17パーセントの急落ということになる。まあ、調査方法(項目)が若干変わったというような言い訳もなされているけれど(笑)。この傾向はおそらくこれからも続いていくように思えるし、「信仰」もまたなんらかの岐路に立たされていることは間違いなさそうだ。ちなみに、このアーティクルの表題、「Pas très catholique」は、信用できん、疑わしいなどの意味の話し言葉。このタイトルの映画もあったっけね。

投稿者 Masaki : 16:19

2006年12月16日

季節はずれのエイプリルフール?

13日夜に放送されたというベルギーの偽テレビニュース。「フラマン(フランドル)独立」という嘘ニュースは、王宮前中継やら、人気歌手への突撃インタビューみたいなものまであったようで、まさに真に迫っていたのだそうだ。30分でフィクションであることが伝えられたというけれど、その後の一般市民の反応では「あれじゃあ、本当にフラマンの連中が独立を考えてしまう」といった声もあったようだし、実際そういう議論を喚起するのが目的だとしている公営の放送局RTBF(ベルギー・フランス語圏放送局)は、当然ながらかなり批判を受けてはいるようだが……。うーん、確かに悪い冗談ではあったのだろう。けれども、どこぞの国の教育基本法改正やら防衛庁の省への昇格やらは、同じ悪い冗談でもフィクションじゃないだけに、むしろいっそうタチが悪いように思えるのだけれど……。

ベルギー史というと、ガイドブックや紀行のようなものを除くと、通史としてはジョルジュ=アンリ・デュモン『ベルギー史』(村上直久訳、白水社、クセジュ文庫)くらいしか見あたらない気がするが、これを見ると、フランドルとワロンの対立の構図が浮かび上がるのは意外に遅く、1830年の独立革命後あたりから顕著になってくるのだという。特にフランドル側では、「オランダを想起させるものすべてに対する盲目的な恨み」(p.102)への反発から、復興運動が高まる。それが進むにつれて、ワロン側でも反動が起きる。なるほど、現実に上乗せされる想像的なもの(ルサンチマン)が、運動という形に結実するという典型かも。戦後は立場が逆転し、フランドルのほうが、地理的な立地条件などもあって経済的に発展する。うーん、このあたり、先のカール・シュミットではないけれど、陸に対する海の復讐という感じに見えなくもない。そういう意味では、フランドル独立なんてのも、決してありえないシナリオではないのかも……なんて。

投稿者 Masaki : 12:45

2006年11月11日

ラテン語ミサ問題

この1ヶ月半というもの、家族が入院する騒ぎがあって、あまり時事問題などにコメントできたなかったのだけれど、ようやくそちらも退院となり、少し余裕が出てきた。そんなわけで、一ヶ月遅れの話題で、いまさらながらだけれどこの話。10月初めごろ、ローマ法王がラテン語ミサの復活を教皇親書(motu proprio)で出しそうだとの報道がなされた。これ、ラテン語復興という意味では良さそうに思えるのだけれど、どうも事はそう簡単ではないようで。その動き、伝統主義派の分裂状態を諫めるための措置で、ピウス5世当時の典礼にしたがってラテン語ミサを執り行ってもよいという内容になるとされていた。ピウス5世というと、在位期間が1566年から72年の教皇。その典礼は65年の第二ヴァチカン公会議で廃止された。で、フランスのルフェーヴル司教が以前からそれに反対し、88年にはヨハネ=パウロ2世によって破門されている。とはいえ、そのヨハネ=パウロ2世自身がラテン語ミサを容認していて、それでもさほど実施されたなかったという過去があるのだそうだ。問題は、伝統主義派への譲歩がなされてしまうと、第二ヴァチカン公会議の決定そのものが骨抜きになるということで、フランス国内の教会関係者からも反発が出ているのだという。なるほど、これって政治問題化してしまうわけね。

可笑しかったのは、Le Modeの配信しているニューズレター掲載の、グザヴィエ・ゴルス(Xavier Gorce)の漫画。だいたいこんな感じ。無神論者が「僕はラテン語ミサ復活に賛成だね」といい、理由を聞かれて「だってそれでさらに教会から人がいなくなるから」チャンチャン。「『Dominus vobiscum』と言ったらどう答えるね?」と聖職者に聴かれた子が、「それって『ハリポ』の呪文ですね」チャンチャン。『ハリー・ポッター』の呪文って確かにラテン語をもじったものだったようだけど……(笑)。

写真は某所から見た東京。
tokyo0610.jpg

投稿者 Masaki : 23:28

2006年07月21日

不寛容の根はどこに?

レバノンへのイスラエルの空爆。どこぞの国の首相が訪問し「まあまあ、相互に歩み寄って……」みたいな、小学生なみのタテマエ的な演説をしたその日に、一連の空爆が開始されたというのがとても印象的だった。そういえば先に触れたドキュメンタリー『knowledge is the beginning』では、政治に荷担するのではないと言いながら政治的身振りを取らざるをえないバレンボイムが、イスラエルのクネセットでの授賞式(芸術賞)の演説で、建国の宣言の一節(友好に関する部分)を取り上げて会場からのブーイングを食らう、というシーンがあった。その演説を受けて、賞を授ける側の文化大臣が「国家への攻撃だ」みたいに激し、この不寛容さに、バレンボイムは少々あきれ顔で「どう思うかは、それもまた自由の証ですがね」みたいに皮肉でやり返す。建国の理念などよりもっと根深い土着的怨念を見る思いがする一場面だ。何か今回の空爆も、言われているような米国対イランの代理戦争的側面などの政治的な表層よりも、もっと底のほうにある不寛容の根のようなものの存在を感じさせる。今更ながら、ユダヤ文化の底流へと接近を、一度は試みる必要を感じるのだが……。

投稿者 Masaki : 20:20

2006年07月14日

Coup de boule

ジダンの頭突き話は、なんだか人種差別問題やらサッカーの陰の部分なんかが絡んできて、妙に変な方向に流れた感じがする。フランスでは、ほとんどすべてジダン擁護論に傾いたようだし(でも、試合直後の後味の悪さは忘れられない)。そんななか、すでに話題になっている応援ソングの替え歌がむちゃくちゃ可笑しい(笑)。Coup de bouleというのがそれ。L'Expressのサイトで聴ける。もとは、Zidane, il va marquer(ジダンがゴールを決めるぜ)という歌詞だったそうだが、Zidane, il a frappé, zidane, il a tapé (ジダンが打ちやがった、ジダンが叩いた)に替えたものとか。これをリフレインにして、あいの手のように歌詞に入れている。歌詞もふるっていて、ちょと意訳だけど「イタリアは痛そう、イタリア選手は苦しそう。審判だってテレビで見たんだし。頭突かよ、冗談にしちゃよくできてるけどな」「スポンサーはいろいろ当て込んでたのに。シラクだけはよく喋ってたけどな」みたいな感じで続いていく。この皮肉というか……トレゼゲあたりを「冗談きついぜ」っていいながら繰り返すあたり、まあ、ちょっときついけど、ま、それにしても笑い飛ばしちゃってるパワーがいいねえ。

投稿者 Masaki : 20:04

2006年06月15日

チームプレー?

日本については開始前から言われていたことだけれど、フランスもか、という感じなのが、ワールドカップの試合での得点力不足。フランスの場合は、どうもジダン以下の古参を前にして、ちょっと下の世代(アンリなんかもそうだが)がどこかメンタル的に萎縮している感じがする。ドイツのカーンみたく、老兵はしかるべきときに後方に移動するのが、やっぱり順当というものなのかも。

それにしてもサッカーの試合を見るたび、チームプレーが主だと言われてはいても、最終的には個人の技量に帰着するということを改めて思う。今はどうかしらないけれど、30年くらい前の中学校あたりの教育って、チームプレーとか団体行動とかにむちゃくちゃ重きを置いていた感じがする。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」なんてスローガンを教師が盛んにまくし立てていた……って、あんたそりゃ三銃士か(キリスト教かという話もあるが)。ま、それはそれでよいのかもしれないが、結局、理想と現実は一致してはいなかった。たとえば部活。私個人が通った田舎の中学では、課外活動は半ば強制的に運動系のチーム競技に加入させられた。というか、陸上の個人競技すら、チーム戦のようなノリだった。で、ちょっと当時のルサンチマンを語ると(笑)、私はバスケ部だったのだけど、馬鹿な指導者(顧問も上の学年のやつらも)たちは、先発メンバーばかりにフォーメーションその他を教え込んで、控えのわれわれを完全に放っておいた。技なんか身につける暇もない。で、当然先発メンバーだけで試合に臨む。監督役の顧問は控えなんか使う気は毛頭なく、とはいえ負けが込んでくると、一応みんなで参加したことにしたいだけのために、控えのわれわれも2,3分づつ試合に出される。でも練習なんかろくにやってないので、当然ちゃんと動けるわけがない。パスも回ってこないし、回されてもどう動いていいかわからないし。そんなわけで、出てもすぐに交替。まったくアホらしい。結果、先発メンバーはこき使われ、控えはメンタル的に腐って、チームは当然のように負ける。この繰り返し。これのどこがチームだっつーのと当時は思っていた……とここまで回顧して、げ、この図式って、昨今の日本の社会的縮図みたいじゃないの、と思い至る。むー、チーム指向の理想と現実の乖離もまた、結局個人をいかに育むかに帰着しそうだ。で、底上げのためには、控え組にこそちゃんとした指導が必要。当たり前といえば当たり前のこと。チームプレーの基本は個人、という至極当然の話。

投稿者 Masaki : 16:57

2006年05月20日

オッカムについての基本書

渋谷克美『オッカム哲学の基底』(知泉書館、2006)を読む。これはまさにオッカムの著作を読むための教科書。オッカム『大論理学』の邦訳を手がけた訳者による論考なのだけど、仮にオッカムのスタンスを、ほかの論者に対する「論理学的転回」と称するならば、それが基本的にどのようなものなのかがよくわかるというお得な一冊だ。特に「存在」(esse)と「本質」(essentia)をめぐるスコトゥスやエギディウス・ロマーヌスなどへの批判が、外部の事物と心的な事象とを明確にわけるオッカムの立場から演繹されている、といったあたりの話はじつによく整理されている。さらに後半では、言語的事象にこだわることによって、後の論理学者のように、その階層論に踏み込んでいく様も克明に解説されている。述語づけの「態」を分けるなんてテクニカルな話なども、実に面白い。このあたりは、いかにも論理学的な醍醐味&迷宮の端緒という感じだ。それにしても、外界の事象(スコトゥスの共通本姓など)をひたすらに否定して、心的事象としての言語的表象の論理にのみ向かったオッカムの、その徹底ぶりはどこに由来するのだろう、そもそもオッカムという論理学的転回はどのようにして成立したのだろう、という点がとても気になる。これは大きな問題だ。さらに、ポルピュリオス注解も見逃せないところで、個人的には、オッカムの論理学的に引っ張った解釈もさることながら、ポルピュリオスのもとの論が存在論的にとても興味深い気がする。うん、そのうちぜひ読みたいところ。

投稿者 Masaki : 12:05

2006年03月14日

映画「日本国憲法」

遅ればせながら、ジャン・ユンカーマン監督作品『映画・日本国憲法』(DVD)を観る。戦争放棄の文面の重要性を12人の識者のインタビューで綴った作品。挿入される音楽や映像フラッシュの軽さが内容の重さを和らげているのはいかにも昨今のドキュメンタリー。だけれど、「9条は戦争についての日本のアポロジーなのだ」というチャルマーズ・ジョンソンの話や、「緩衝材になっている9条がなくなれば、アジア各国の軍拡が進む恐れがある」という韓洪九の話など、ぐっとくる部分も少なくない。うーん、憲法はもともと政府の暴政を抑止するために起草されるものだというダグラス・ラミスの言に従って(これって、「マグナ・カルタ」以来まさにそう。合衆国憲法なんかも実はそうなのだ)、その本質論から憲法改正を考えるなら、9条温存、政府への抑止効果増強の方向で行くってのが本筋だよなあ。

投稿者 Masaki : 21:18

2006年02月07日

レシプロシティ……

麻雀小説や麻雀漫画は結構好きでたまに読んだりはする(基本的に麻雀そのものはど下手なのでやっていないけれど)。なにしろそれらの作品は、話は荒唐無稽でも基本的にアイデア勝負なので、そこがなかなか面白い。深夜枠でやっているアニメ『アカギ−−闇に舞い降りた天才』も当然のごとく視聴。これ、面白いのは主人公アカギが相手に徹底して同等の条件を求めること。たがいに破滅するくらいのものを賭けてぎりぎりの勝負をする、というのはまあピカレスクロマンではありがちだけれど、本筋に関係ないエピソードでも、不良少年たちに「こんなやつ殺したっていい」と言われたアカギが、形勢逆転ののち、「こんなやつ殺したっていい、ってことは、お前も殺されて構わないってことだな」みたいな台詞を言う場面がある。相手への侵犯には、相手から侵犯されるということが裏側に貼り付いている、と。この相互性を逆手にとると、暴力的連鎖をストップさせるための倫理の芽にもなりうる、ということを改めて考えさせてくれる。

そういえばイスラム圏とヨーロッパの対立という感じになっているこのところのムハンマドの風刺画問題。これなど、まさしくレシプロシティの欠如を如実に感じさせるもの。暴力的連鎖は、相互が決してイーブンにならないから続いていくわけで。そもそも、民主主義的な表現の自由も、イスラム教の偶像否定も、本来なら互いの陣営内部でしか通用しないイデオロギー。それを外部にまで拡張しようとするから話がややしくなる。ともに、そのイデオロギーが通用しない「外部」があることを受け入れないといけないのだが……イデオロギーってそもそもそういう部分を排除して成り立っているから始末が悪い。西欧側の反応も、かなり極端というか、一種の思想的硬直が進んでいるみたいだというか。

投稿者 Masaki : 21:46

2006年01月27日

原理主義再び

テレビの報道は相変わらずライブドア問題ばかり。パレスチナの選挙でのハマス勝利なんてのも、BSはともかく地上波でさっぱり取り上げられないというのはちょっとなあ……。けれども考えてみると、ライブドアが体現していた(代表していた?)のは、資本主義という「信仰」の原理主義(の1ムーブメント)だという感じも。世間的には拝金主義などと形容されているけれど、すべての価値を金銭にしか結びつけない短絡さや、違法なものも含めて強行手段を取るといった姿勢など、宗教の原理主義に通底する部分はかなり多い。ハマスに代表されるような組織がやってきたことと、確かにレベルや内容は違うとはいえ(そちらは人命を直接危険にさらすテロ行為だから)、その基本姿勢は案外、そう遠いところにはないのかもしれない。すると問題は、こういう「信仰」の精鋭化そのもののメカニズムについて問うこと、になっていきそうだ。

そこには組織論的な話も関わってきそうな気がする。テロリストの末端グループが世代的に狭いスパンの人員で構成されているように、ベンチャー企業も構成人員の世代的スパンが狭い。それが狭すぎる場合、あまりに均質になり、異質なものが取り込まれなくなって、結果的にイデオロギーの先鋭化が起こりやすい、みたいな……。健全な環境というのは、やはり多種多様なエレメントが同時にいろんな方向に綱引きをして、全体が揺れ動いていく、というイメージなのだが(民主主義のイメージってまさにそういうもの)、特定分子だけで固まって一方向に引っ張られるというのは、もはやファシズムでしかない。

ハマスのように原理主義政権が危ういのは、その先にファシズムが待っていそうな気配が濃厚だからだけれど、経済的なイデオロギーの原理主義だって、その意味では相当に危うい。実際にライブドアのホリエは選挙にまで担ぎ出されたわけだし……。

投稿者 Masaki : 23:28

2005年12月21日

歴史への介入

少し前にここでも触れた、アルジェリア戦争の引き揚げ者の扱い問題。これいわばフランス版の「教科書問題」なのだけれど(学校教育のカリキュラムで彼らの功績をたたえるべし、と2005年2月23日付の法律が明文化しているという問題)、今月13日には、これを含むより広範な「議会による歴史への介入」に反対する声明を、著名な歴史家たちが共同で出している(文面はherodote.netに採録されている)。ここには歴史学の原則が5項目にまとめられていて(歴史は宗教ではない、道徳でもない、時事問題に隷属するのでもない、単なる記憶でもない、司法の対象になるものでもない)、それに反する動きが様々な法令でなされているとしてそれらを糾弾している(日本の場合、こうした歴史の原則そのものが最初から歪んでいるような印象も受けるよなあ)。

新自由主義の政体がすこぶる歴史介入主義的なのはとても示唆的だ。そこで前面に押し出されるのは「国家」の概念。なんだか、経済ぐらい自由放任にできないと、強国と見なされないぜ、という発想が根底にあるように見える。モデルは当然アメリカだ。アメリカは確かに、経済がグローバル化するほどに、政治権力が強まるという逆説を見事に構造化してみせているような気もする。けれども、ヨーロッパや日本など、追従・真似っこに走っている諸国は、それ以前の計画経済的なもののタガがはずれていくだけで、むしろ政治権力はその力を失う危機にさらされていきそうだ……で、比較的経済が順調なうちに政体に都合のよい国威の高揚を果たしてしまおうと焦っている感じがするのだけれど……。

投稿者 Masaki : 23:11

2005年12月01日

移民規制……

先の暴動を受けて、移民法の強化に乗り出したフランス。うーん、移民問題が表面化してしまったために、これに乗じて与党は様々な規制策に出てきたなあ、と。暴動は一種の口実を与えてしまった形になっている。一夫多妻(polygamie)が悪い、みたいな話も出されていたみたいだし。先に創刊された雑誌『クーリエ・ジャポン』(Courier Internationalの日本版。オルタナティブな報道姿勢は面白いけれど、創刊号なんか予想より軽い感じなのがちょっと気になったり)なんかにも紹介されていたけれど、今回の暴動について最初の頃、確かに一部のメディアに「5月革命の再来か」みたいな論評が出ていた。けれどもこれって、かなり的を外したものだったような気がする。実際、暴動の中心にいた少年たちは、ほとんどお祭り騒ぎという感じで暴れていただけだったような……。飛幡祐規氏の「先見日記」によると、実際に白人の少年なんかが加わり、処罰を受けているのだという。いずれにしても、やはり問題は与党などがやろうとしている規制強化の方だ。

さらにそのCourrier Internationalのサイトの記事には、与党の議員たちが「植民地政策賛美条項の撤廃案を退けた」した話が大きく載っている。当然アルジェリアの報道各紙が批判を展開。うーん、一方で人道的配慮を口にしながら、規制強化によるいっそうの統制と過去の虚栄(だよね、やっぱ)擁護の路線をひた走るなんて、なんだかどこぞの国に似ていなくもない。

投稿者 Masaki : 00:14

2005年11月08日

フランスの暴動

クリシー・スー・ボワ(パリ東部近郊)から始まった移民系の少年らの暴動は全国に拡大。政府は夜間外出禁止令を容認するという方針。まだ軍隊は出さないというけれど、今後の展開いかんによってはわからない。まるで先進国ではないみたい。というか、米国がハリケーン・カトリーナへの対応で、国内の貧困層の存在を明るみに出したように、フランスも国内の貧困層の存在を暴き出してしまった。前から言われていたように、新自由主義がこうした国内格差の先鋭化を招くものであることはもはや歴然。その意味では日本だって人ごとではない。

そういえば、F2のニュースで「les quatre-vingt-treizes」なんて表現が出てきたのだけれど、これってセーヌ・サンドニ県の県番号93をもじっているものだそうで、要するにセーヌ・サンドニ県民のことらしい。「les neuf-troisiens」ともいうらしい。こちらの「辛口言葉」(Langue Sauce Piquante)のブログを参照のこと。同地方の住民を指す昔の言葉として、セーヌ川を表すラテン語Sequanaと、サンドニ(聖ディオニュシオス)のもとのギリシア語Dionysius(Dinonysus)から、sequanodionysiensというのがあったという話が紹介されている。

投稿者 Masaki : 19:47

2005年11月07日

書籍をめぐる環境

アマゾン・ジャパンはついに「なか見検索」を始めた。米アマゾンでは前からあったやつだけれど、これで購入前に目次とか確認できる。便利なサービス。……とか思っていたら、本家の米アマゾンはさらに一歩進んで、ページのばら売りを始めると発表したのだとか。これ、なんだか中世の学生たちに、当時高価だった書物を分冊化してばら売りしていた話を彷彿とさせる。めぐりめぐって昔に戻っていくかのよう。モノとしての書籍が、再びテキストに溶解していくのか……。iTunesでの曲のばら売りなどもそうだけれど、本でもたとえば論集などの場合、「この部分だけ読みたい」という需要は確かに存在する。図書館で見て個人使用のためのコピーをするという部分とかね。

さらには、Google Printもベータ版ながら始まっている。パブリックドメインに入った(著作権切れとなった)書籍のヴァーチャル図書館。結構最近の本とか入っていてびっくりする。こちらはイタリア、ドイツ、オランダ、オーストリア、スイス、ベルギー、スペイン、フランスのサイトもある。Le Mondeのニューズレターによると、フランスの場合もすでに複数の出版社と合意ができているのだとか。著作権の管理はフランスの管轄になるのかどうかが問題、とされているが……。

投稿者 Masaki : 18:50

2005年11月02日

「虚無の信仰」

1日は万聖節(諸聖人の祝日)。1日付けのFrance2のニュースでは、最近のフランス人の傾向として、葬儀ビジネス(手順の一式をパッケージ化したもの。日本でもそういうのがある)や火葬が増えているといった話を紹介していた。で、さらに英国での傾向として、仏教に続き、今度はイスラム教に入信する人が増えているというレポートも紹介している。文化的な理解をこえて、ただストレートにハマってしまうのがなぜなのかはイマイチ不明だが、異質なものに惹かれるという心性はますます強まっているということか。

そんな中、最近興味深く読んでいるのが、ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰』(島田裕巳、田桐正彦訳、トランスビュー)。18世紀末からの仏教の受容の変遷を追っていくという本なのだけれど、実に面白いのは、西欧が仏教をある種の恐怖をもって受け止めていたという事実だ。学術的な誤解から始まり、その誤解が解けて学問的に精緻になっていくと同時に、今度はそのイデオロギー的な横滑りが生じていく、というのがその大きな流れ。その過程がとてもスリリングだ。と同時に、これは身につまされる話でもある。異文化理解のアポリアはとても人ごとではない、と改めて思ったり。

投稿者 Masaki : 17:13

2005年09月13日

選挙の後で

本物の刺客が来なくてまずはなによりだった総選挙。終わってみれば与党一人勝ち。まあ、民主の岡田代表の表情があんなに余裕がないんじゃ、勝てるわけないか……。吾妻ひでおの怪作マンガ『失踪日記』(イースト・プレス)の中に、ジャズ・ピアニストの山下洋輔の言葉だとして「好きなことをやってない奴は顔がゆがんでくる」みたいなセリフが引用されているけれど、たしかにあのミスター・イーオンの顔は、選挙に入ってからというものゆがみが増していた感じがするからなあ。ま、それはともかく。今回の選挙結果で、新自由主義的な方向性はますます強まりそうだけれど、本当にそれでよかったの?これからもっと階級社会化が進んで、セイフティネットもないままに、誰もがハリケーン後のニュー・オーリンズ市民みたいになっちゃったりしたら……。「自分は大丈夫」と考えている人は、そりゃ「正常性バイアス」ってもんじゃないのかしら。スマトラ沖地震後の津波の際に、引けていく海岸をぼーっと眺めていた住民たちや観光客のように、異常な状況を正常と認識してしまうというその心理状態は、災害時などに遭難する一つのパターンなのだという。うーん、ちょっとなあ。そういう心理状態を打ち破るためには、基本的に事前の教育・訓練が大事なのだという。とするなら、新自由主義のあこぎさに対しても、もっと身の処し方を検討したり訓練したりしないと……。ベースの市場原理からして結構嘘くさいんだからさあ……。

投稿者 Masaki : 11:30

2005年08月22日

ファナティック

カトリックの「世界青年の日」に合わせてケルン入りしたローマ法王は、現地のユダヤ人やイスラム教のコミュニティと会見して、前任者の宗教対話路線を継承するスタンスを改めて示してみせたわけだけれど、とりわけ、イスラム教との会見では、テロ対策での協力の文脈で「ファナティック(狂信)はいかん」というメッセージを改めて示したらしい。ファナティックという語が発せられた(らしい)ことが、ちょっと気になる。もちろんこれ、原理主義を指しているということなのだろうけれど、考えてみると何をもってファナティックとするのか、というのは微妙な問題になるような気もしなくない。

最近出た加藤博『イスラム世界の経済史』(NTT出版)は、中世のイスラム社会が豊かな市場経済を営んでいたことを示す興味深い本だけれど、それによると、利子収入を取らないという最近のイスラム系銀行は、原理主義的イスラム法解釈を取っているのだという。もともと高利と利子の両方を表すリバーという言葉が、利子全般の意味で解釈し直されるようになったのは70年代のイスラム復興以降なのだそうだ。ちなみにこの本、最後の方で中沢新一の『緑の資本論』についても、そうしたリバー禁止をもって資本の自己増殖に対するアンチテーゼとしている点を批判している。西欧とイスラム圏の経済発展の差は、むしろリバーを容認し正当化する手続きの差にこそあるのではないか、という。

いずれにしても、原理主義は必ずこうした解釈の厳粛さを伴っている。一方、宗教にしろイデオロギーにしろ、「信奉」とはすでにして排除を含むものであって、そういう排除の形が激烈になれば(解釈の幅をも許さないという場合も含めて)、それはファナティックということになる。そう考えるなら、原理主義とファナティックは多分に重なりはするものの、短絡的にイコールなのではないかもしれない(もちろん両者は入り組んでいるわけだけれど)。その一方で、原点回帰的な指向がなにゆえに解釈の硬直化や排除の激化をともなうのか、といった問題も改めて考えないと。うん、これは今の日本でも結構アクチャルな問題。なにしろ、ちょっと話題になった高橋哲也『靖国問題』(ちくま新書)なんかによると、問題になっているのは国家宗教(国という概念がいわば御神体なのだ)だというからね。このあたりに、原理主義やファナティックの芽がないとはいえないような気がするし……。

投稿者 Masaki : 20:22

2005年08月13日

選挙……

テレビなどは解散総選挙の話でもちきりという感じもあるこの一週間。それにしてもこの時期に選挙やる必然性がさっぱりわからない、という感じ(郵政法案は継続審議ではなぜダメなのか、よくわからなかったし)。で、メディアは「刺客」なんて物騒な言葉で対立候補を呼び、分裂選挙を形容しているけれど、本当に恐いのは、本物の「刺客」を呼び寄せてしまうかもしれないこと。つまり、選挙に乗じてイスラム過激派などのテロが日本でも起きる可能性が高まりはしないかということ……。奇しくも選挙日は9.11だし。現状ではイラク派兵問題などが争点にならないのはほぼ確実だが(そもそも争点がさっぱり見えない。民主党だって郵政を何とかするという点では一緒だし)、日本の選挙の内実が中東など他国で報道されることなどほとんどないし、先の英国のテロで、それ以前のスペインの列車テロがもたらした影響などが想起されたこともあって、「現与党が負ければ派兵も再考される」みたいな短絡的な見方が過激派の間で高まることは当然予想される。なんだか恰好の標的になってしまいそうだ。なぜそんなリスクを負ってまで選挙しなければならないのだろう……。政治的空白はともかく、治安対策だけはいつも以上に行わなくてはならないはずなのだが、なんだかそんな風では全然ない。「痛み」とか言って負担ばかりを押しつける首相だが、もし何か事が起きれば、そういうリスクを招いた責任も問われなくてはならなくなる。そのあたり、本人はどう考えているんだろう?あ、有権者にできる当面のテロ対策があるぞ。与党の敗北が事前に濃厚になって、それが世界的に報道されればいいのだ。テロが無意味であればよいのだ。ここは一つ、先回りして、奴らの野蛮な意思を脱臼させてやればいいではないか……いや、マジで。

投稿者 Masaki : 16:21

2005年07月21日

アスベスト禍

一気に噴出してきたアスベスト禍。これ、欧米ではだいぶ前から騒がれ、すでにいろいろな対応が取られてきていた。とりわけ早かったのはアメリカや北欧諸国。ドイツもそれに続き、フランスが使用全面禁止にしたのは1996年とやや遅い。でも日本は全面使用禁止は2008年だというから、まだまだ先。この遅れ、結局構図は相変わらず同じで、業界団体の圧力とかそういう話みたいだ。建設関係は特に力があるからね。こういうパワーバランスの問題はなくならない……。

けれども、政府の規模を小さくして自由競争ばかりを委ねようというスタンスの限界はそういう部分にあるわけで。政府の規模が小さいのは権力の横暴がなされにくくなるという意味では悪くない(とかつては思われていた)けれど、それに代わる倫理基準・規制の原理が「自由競争」しかないのは大きな問題だ……当たり前だけれど。消費者向けの最終的(完成した)商品以外が問題になる場合、自由競争だけに委ねられたりしたら、自主的な規制に向かう契機なんかほとんどありそうにない。インフラ素材などのような「目に見えない」財の場合、消費者の不買運動なんか起こりえないし、そもそもどんな素材がどこに使われているか、末端の消費者には知りようがないんだしね。社会基盤の設計を最終的・全面的に自由競争に委ねたりなんかしたら、あるいはこういう社会的な広がりのある問題に際して、規制を敷くインスタンス(実装・審級)がなくなってしまったとしたら……そんな空恐ろしい世の中はまっぴら御免だ。アスベスト問題に最初に取り組んだ各国の多くが、それなりに「大きい政府」だったというのは示唆的かも(アメリカだって、権力機構の絶大さからいえば、大きい政府だったりするし)。

投稿者 Masaki : 13:20

2005年07月14日

フランスの数

都知事発言にフランス人たちが訴えを起こした件(昨年から釈明要求がなされていたが)。この話は、首都大学構想に反対した都立大教員の中に、フランス語関係者が多かったことを受けて、都知事がそれを揶揄したのが発端。このあたり、テレビ報道などはちゃんと伝えていなかったりする。ちなみに、訴えを起こしたフランス人たちは、昨年くらいから釈明を求めていた。

ちなみにマスコミ報道を見て、本当にフランス語は数を数えられないんじゃないかと思いはじめた「石原教」の人々もいるようなので(笑)、ここでもちゃんと言っておこう。フランス語はちゃんと数を数えられます。なぜなら、数については1対1対応で単語が存在するから。だからどんな複雑な計算だってできる。考えてみてほしい。日本語で仮に70を△、80を□と呼ぶことにしたとしても、そのルールさえ頭に入っていれば数はちゃんと数えられる。36△1は3671、94□8は9488とちゃんと理解できるでしょ。それとおなじこと。soixante-dixは70なのであって、マスコミが言うように「60+10」だと分解して考えるフランス人はいない。quatre-vingtもそうで、これはあくまで80なのであって、「4x20」ではない 。実際、「60+10」をフランス語で言うなら、soissante plus dixみたいに言い、soissante dixとは絶対に言わない。だってそれじゃ70なんだもの。「4x20」はquatre multiplié par vigntといい、quatre vigntなどとは絶対に言わない。だってそれじゃ80なんだもの。誤解するわけがないのだ。都知事の発言は「都知事本人は、学生時代にフランス語を学んでも、中途半端でまったくモノにできなかった」ということを端的に表しているだけのこと。確か『太陽の季節』は、エピグラフでフランスの作家に捧げられていたはずで、そのあと、当時の仏文関係者に貶されたらしく、そのあたりの遺恨も遠因になっているんでは、とかいう話もあるらしい。もしそうだとしたら、キャラ的にも「ちっちゃい」じゃんよ。

[追記:15日]
都知事は今度は91の読み方を例に「仏語の数え方は長くでめんどくさい」みたいな話をしたらしいが、91を表すquatre-vignt-onzeはわずか4音節。欧米語で単語の長短を決めるのはスペルじゃなくて音節だ。そりゃ英語のninty-oneは3音節だから、それよりは長いことになる。けれどもより桁が上がった場合には逆転する。たとえば、3991を仏語で言うと、trois mille neuf cents quatre-vingt-onzeで8音節。英語だとthree thousand nine hundred ninty-nineで9音節。というわけで、長短だけをとって仏語は面倒だということも一概にはいえず、単なる偏見にすぎない。

投稿者 Masaki : 15:27

2005年07月08日

ロンドン……

五輪誘致に沸いた翌日のテロ。なんだかこれ、サミットに合わせてというよりも、むしろ「五輪なんかやるとこうなるぞ」というメッセージのようにとれなくもない。もちろん、もし仮にそうなら、立候補地全部に実行部隊がいて、計画もある程度練ってなければいけないわけで、ま、妄言ではあるのだけれど……。いずれにしても、なんらかのイベントに合わせて仕掛けてくるというのをパターン化させてはいけない。そのためには、ただ警備を強化するだけでなく、イベントそのもののメディアの取り上げ方も分散・希釈させる必要があるようにも思える。五輪誘致程度の話で、大統領やら人気スポーツ選手やらが会場に乗り込みアピールするなんて、考えてみればバカな話で、明らかにメディアを意識した一種の「逸脱行為」。メディアがそれを煽り、政治家や利権関係者がそれに乗り、かくしてイベントの上昇スパイラル、インフレ状態になってしまう……。そういうのを多少減じるだけでも、テロの抑止効果は出てくるような気がするんだけれど(これも妄言か?)。

ラテン語系の有名ブログで少し前、パリ市の紋章の話が載っていた。そこからリンクされていた(と思う)のだけれど、パリ市の紋章は帆船の絵で、「fluctuat nec mergitur」((波に)翻弄されようと沈むことはない)と記されている。不屈の街なんだね、パリは。一方、ロンドンの紋章はというと、「domine, nos dirige」(主よ、われらを導きたまえ)。テロにあったロンドンに、パリの紋章の碑文を捧げよう。

投稿者 Masaki : 17:38

2005年07月01日

科学の説明責任?

国際熱核融合実験炉(ITER)の誘致はフランスのカダラッシュに。「産出されるエネルギーは無尽蔵だ」とか「資源的に一万年先まで持つ」とか、いろいろと夢のような話が出ていたと思うけれど、なにかこう、推進者側(科学者と政治家たち)の「故意の言い落とし」みたいな部分がありそうで、今ひとつ不安がぬぐいきれないのは、これまでの原発事故とかの記憶があるからか。フランスでも日本でも、「誘致、誘致」と騒いでいたわりには、セキュリティ面などの説明らしい説明をしていない気がする(地元では、なんらかの説明がなされたのかしら?)。しかも今度の炉はまた未知の領域なわけで……想定されるリスクがどのようなもので、その一つ一つにどんな対策が講じられるのかリストアップして見せてほしいところだ。反対派の見解を取り上げたルモンドの記事(6月28日)には、反対派が小柴氏(ノーベル賞受賞者の)の「いくつかの条件が満たされていない」みたいな発言を引いている、と報じられている。うーん、まだprematureだってことはないのかねえ?

科学には当然理屈があり、科学以前の魔術や錬金術などにもそれなりの理屈はあったが、かつては多くの場合、そして今なお時折、そうした理屈は不完全でうまく機能しなかったり、思いも寄らないリスクが生じたりしてきた。余談ながら映画『コンタクト』なんかだと、異星から届いた設計図をもとに「宇宙船」を設計してしまうわけだけれど、そもそも理屈がある程度解明されていないものを科学は性急に作りはしないはず。科学以前と科学との顕著な差異は、そうした「理屈の完成度」への省察の可能性だが……セキュリティ意識の高まりもあって、それはいっそうの説明責任を伴っているはずだ。

投稿者 Masaki : 16:56

2005年06月15日

生命倫理……

人工授精の規制緩和をめぐるイタリアの国民投票は、投票率が規定に足らず投票自体が無効となったという。ボイコットを呼びかけていた教会は、今回かなり大々的なキャンペーンを張っていた模様。法王庁の新体制は、政治的介入をいっそう強めていくのだろうか。

それにしても生命の問題は古くて新しい。「ヒト胚(受精卵)はすでにして人間である」という立場から出発する教会側の議論は、ある意味とてもわかりやすく、研究を推進したいといった側の主張をはねつけてしまう説得力があるとされる。けれどもこれは、魂(それは生命の根源とされる)の不分割性といった中世以来の考え方に、発生学的な知識が結合した一種のハイブリッドのようにも見える。ヴァチカンが介入するとすれば、そのような中世以来の長い伝統の上に立った神学的・政治的アプローチ(それは時に一種のホーリズムをなす)を仕掛けるはず。それに対立するであろう科学が、そうした思想的・政治的ホーリズムに対抗するためには、それに見合うだけの倫理の問題、オルタナティブなホーリズムみたいなものを考えていくしかないんでないかな……と。

となると、科学史的にみずからのスタンスそのものを問い直す作業も当然必要(教会はおそらく制度的に、そうしたみずからの根源を問い直せない)だ。(余談:ちゃんと読んではいないのだけれど、例えばジャック・ローゼンンベルグ『生命倫理学』(小幡谷友二訳、駿河台出版社)などが興味深いのは、そうした学問の根っ子の見直しを指向している部分が感じられるから。時にはそれは近代以前にまで遡らなくてはならなかったりもするわけで、同書にもやはりアリストテレス、さらに「タルムード」などへの言及もある)そうした作業はもちろんすでに始まっているだろうけれど、教会よりも「メディア化」するのは難しそうだ。このあたり、今後いっそう大きな問題になっていくはず。ついでながら、日本でも科学ジャーナリトみたいなものを養成する大学院を設置しようという動きが始まっているようだが、このあたりにも十分期待がかかりそうだ。

投稿者 Masaki : 23:02

2005年06月07日

Apple雑感

久々にコンピュータ関連話を。いや〜それにしても面食らったAppleのインテルへのチップ変更話。G5が発熱のせいでノートに載せられない、クロックスピードがさっぱり上がらないことに業を煮やした、というのが公式見解だけれど、一方でジョブズは、実はインテル版も密かに作っていました、みたいなことを言ったそうだ。なるほど、OS Xは基層がNetBSDだから移植もまあそんなに面倒じゃないのかなという気はする。けれども結局アーキテクチャの独自路線は捨てないようで、将来のそのインテルボックスはWindowsは動かなくなるとかいう話のよう。シェアが伸びるかどうかは微妙だよなあ。現行のPowerPCボックスも長くサポートする、なんて言っているらしいけれど、かつて68系からPowerPCに移行した時のように、数年で旧来のチップへの対応はなくなってしまいそうだ。新規開発のアプリケーションなんかは、以前のチップなんかサポートしないだろうし。OS9からOS Xへの移行も同じだったし。そうなると、少なくともしばらくは買い控えが出そう。Appleとしては、それまでiPodなんかだけで売上をつないでいこうということなんだろか。うちもG3のiBookとか使っているけれど、そろそろ買い換えたいかなと思っていたところ。今回の発表で、ちょっとインテル版が出るまで静観かな、という感じ、か。

投稿者 Masaki : 21:11

2005年05月31日

EU憲法条約……

フランス国民投票でのEU憲法条約批准の否決。なるほど、ブリュッセルやストラスブールの意思決定機関と、末端に位置する人々の民意とのギャップを如実に感じさせる結果だ。上の連中が何をどう決めようと、末端の人々の目に見える変化は、安い域内産の農産物の流入だったり、廉価な労働力を求めて国外に移転していく工場だったりするわけだ。それでは「よりよいEU、よりよいフランス」なんていう話は絵空事にしか聞こえない。現状の自由主義の本質というのは、実はうたい文句の完全競争なんかではなく、自前の利権をいかに温存しつつ領域拡大をするという保護主義的なものだし(競争はあくまで外部とだけするのだ)、それは帝国的戦略を「民営化」したものだという気もするが、EUの問題は、どこかでそれを取り違えて、域内での競争を前面に出してしまった点にある。もし中国の繊維問題などがはるか以前にクローズアップされ、具体的な影響をもたらしていたら、また話は変わっていったのかも知れないけど……。

自由競争の仮面をかぶりつつ、実は利権の保護をひた走るという自由主義のいびつさ、あるいは帝国的な拡張主義のイデオロギーは、やはりきっちり批判されないといけない。これって、遡っていけば、やはり西欧の制度化された宗教の構図と、根っこのところでは一つになっている。そう、中世の神学の議論などは、実はイデオロギーの強化という意味でとても重要な役割を果たしてきたわけで、そのあたりの役割を詳細に見ていく必要を、改めて痛感する……。

投稿者 Masaki : 21:28

2005年05月21日

リクール没す

気候の変化に身体がついていかず、今週は風邪を引いてダウン。と、ここへきてまたしても訃報の追い打ち(?)。今度はフランスの哲学者ポール・リクール。享年92歳とのこと。言わずと知れた解釈学の泰斗。西欧の注解の伝統を受け継ぎ、それをある方向にラディカルに拡張したもの、という風にもとれる。そういえば『時間と物語』、個人的には2巻目の途中まで読んで放置していたっけなあ。オマージュを込めて再開することにしようか、と。

投稿者 Masaki : 20:53

2005年04月28日

エラー

R西日本の大事故は、ここへきて運転士の内部教育の問題まで浮上してきたが、報道を見る限り、それが実に旧態依然とした懲罰方式なのには驚かされる。懲罰による矯正とはいかにも古くさいやり方。そういうものが「教育」という名前で呼ばれているなんて、今は本当に21世紀か、と思えるほど。ここから見えてくるのは、一つには結局運転士という重要な業務を、その重要性にもかかわらずまったくリスペクトしていない企業風土だ。重責であればあるほど、その責任をまっとうできるような環境(職務環境や人間関係)を作るのが当然であるはず。罰などで恐怖を与えるなんていうのは、もってのほかだ。人為的エラーは避けられないが、それを最小限に抑えるのは、結局そうした様々な環境整備と(エラーを技術的にカバーすることなど)、関係者相互のフォロー(もちろん口裏合わせなどではなく、再発防止に向けて協力し合うこと)しかないわけで。そのために大事になるのは、職能集団内での相互のリスペクトにほかならないだろう。それはまた、上下関係とはまた別の関係性を開くことにも通じる。

余談めいてしまうけれど、これに関連して、アヴェロエス(イブン・ルシュド)の『断言の書』の一節が興味深い。イスラム法の解釈・判断をめぐる考察の箇所なのだが、そこには、法についての責任を有する者、つまり責任を熟知している専門集団が、それでもなお陥りうる誤りは許されうるものである(逆にそれ以外の「門外漢」による誤りは許されない)、ということが記されている(34〜36節)。専門集団内での誤りは責任を熟知した上での、ある意味でぎりぎりの、やむを得ない誤りなのだ。当時のイスラム法の解釈・判断は、正式な訓練を得たものだけに許される重責(生死をも左右しうる)だったことを考えると、この一節は、専門集団内の相互のリスペクトを促す一文のようにも読める。それは職能集団の一種の理想形なのだが、専門の分化が広がっている現代の状況でこそ、800年もの昔の知恵は、新たに活かしうるのではないか、とも思えるのだ。

投稿者 Masaki : 12:59

2005年04月21日

謙譲の目線

新法王ベネディクト16世は第一声で、自分のことを「主のブドウ畑で働くつましい働き手」(umile lavoratore nella vigna del Signore)と卑下してみせた。vigna del Signoreは教会を意味する慣用句(でも、ついついイリイチの『テクストのぶどう畑で』を思い出してしまう)。余談だが、新法王になったラッツィンガー枢機卿は、聖ボナヴェントゥラなどの研究が有名なのだとか。ボナヴェントゥラは弁証法的な理屈を批判し修道院神秘主義を唱えた人物だが、そのあたりの関連からすると、ベネディクトを名乗ったのも、報道されているように先のベネディクト15世(第一次大戦に際して、その無意味さを説いた)というよりは、修道院規則を制定し観想的生活を広めた聖ベネディクトゥスその人にちなんだものだったかもしれない、などと思えてしまう。

ところで上の一節は、西欧的なへりくだりの特質を改めて感じさせる。問題なのは謙譲の目線がどこを向いているか、ということだ。法王のへりくだりはあくまで超越的な存在に対してであって、もちろん他の人々に対してではない。けれどもここで重要なのは、法王のような高い地位にあろうと、超越的なものの前では、俗人と同じ目線が共有されている、という点だ。この目線の共有がある限り、人々の間の格差は一挙に受け入れられやすいものになる、というか、序列が作られても一向に構わないことになる。「どんなに相手がどんなに威張っていても、<神>の前では同じではないか」ということになれば、逆に階級社会は成立しやすくなるわけだ。教会のもつパラドクスといえるかもしれない。良し悪しはともかく、西欧社会が細かく序列化された社会になっていることの根っ子の一つも、そのあたりにありそうだ。

けれども、では反対に超越的なものへの目線がなれければよいか、といえばそうでもなさそうに思える。その場合、目線の先にあるのは他の人々でしかない。すると目線は相互の応酬となり、羨望と足の引っ張り合いがいっそう激化しそうだ(ジラールっぽいけど)。なにしろ他者は、社会格差の本質的無根拠性みたいなものを掘り出してきては、どこかですべてを相対化して交通整理よろしく鬱屈を晴らそうとするのだから。日本風の、互いに相手に目線の先に合わせて謙譲し合うといった自己防衛策にしても、今度はまったくスケーラブルではなく、空間が広がれば効力を失うのは必至。結局、反動的に専制的権力でもって無理矢理抑え込むとか、必要以上に格式張った儀礼やら作法やらを幾重にもはりめぐらしたりするとか、行き着く先はなんだかそれほど明るくないかも……。

投稿者 Masaki : 16:08

2005年04月20日

新法王

新法王選出にわく欧米メディア。ベネディクト(ベネディクトゥス)16世ことヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、事前の予想でも大きく取り上げられていた。保守派の代表格ということで、Corriere della sera紙の紹介記事などは、そのスタンスを端的にまとめている。その「拒絶」のリストは、解放神学や女性の司祭職から始まって、ホモセクシャル、中絶、さらにはトルコのEU加盟、ロックミュージック、宗教間対話にまで及んでいる。ヨハネ=パウロ2世も基本的スタンスは保守だったとはいえ、最後の二つについては比較的寛大な姿勢を見せていたが、さて、ベネディクト16世はどうなのか……。報道などを見ると、一般信者の受け止め方には、前任者の政策を継承するだろうというイメージが一定数あるようで、なるほどそういう意味合いを強く出した「選出」という感じもしなくない。以外に冷ややかなのはお里のミュンヘンで、sueddeutsch.deの記事の一つなどは、今後の課題についてやや悲痛なトーンで書いている。それにしても神学者としての研究の功績などは取り上げられていない……amazon.deなどで検索すると、著作は山のようにあるのだけれど……。

投稿者 Masaki : 14:39

2005年04月09日

通底するもの

もはや宗教などというものを越えた弔問外交の場だったヴァチカンでの法王葬儀のミサ。あろうことか、のんきなこの国は現職ですらない元の外務大臣を送ってお茶を濁してしまった。これって大きなエラーじゃないの?宗教の問題なのではない。ヴァチカンが仮に必ずしも中心にはいなにせよ、少なくともなんらかの重要な位置づけを担っているような政治・文化空間に、その空間が一時的にせよ可視的になる機会に大きなプレゼンスを伴って居合わせないことが問題なのだ。居合わせないことによって、マージナルな、負のマーキングを受けてしまってはどうしようもないじゃないの。国際社会の表舞台に積極的に打って出ようとしていない国ならそれでもいいかもしれないけれど、常任理事国入りを画策しているような国の場合、それではあまりにお粗末なのでは。

ローマ法王の葬儀を漫然と見ていて改めて思ったのは、様々な利害関係にもかかわらずフランスとドイツが和解を果たしえたのは、一つにはそういう政治・文化的な空間にどちらも与っているといった、通底する一体性みたいな前提があったからかもしれない、ということ。東アジアには今やそういう前提がない。そりゃ、昔は儒教文化圏というようなものもあったかもしれないけれど、近代以降の侵略戦争や政治イデオロギーの対立で、そういう空間はずたずたになった。まさに修復不能なまでに。その意味では、東アジアの和解と連帯の道は遠そうだ。折しも中国の反日デモが激化しているし……。で、それでもなお和解と連帯の道を探るのなら(そうあってほしいのだけど)、やはりそうした歴史的反省・歴史的省察から出発するしかない……。その場合の「歴史」は近代だけにとどまっていられない。通底空間の誕生から破壊に至る経緯まで含めて(ということは近世や中世から考える必要が出てくる)、しかも日本史プロパーではなく、東アジア史、さらにはヨーロッパ史などまで含めて見ないといけないはず。そこまでの広がりで自国史を捉え返せば、「自虐史観vs反自虐史観」なんて田舎臭く貧乏臭い話など、もはや問題にすらならないはず。

投稿者 Masaki : 18:24

2005年04月04日

ローマ法王……

現地時間で2日の夜に天に召された(読み上げられた公式の声明文では"tornato alla casa di padre"と言っていた)ローマ法王。26年に及ぶ在位期間、これほど精力的に移動し続けた法王も珍しい。ロイターが伝えた話によれば、遠征距離は124万7600キロ以上、実に地球30周分とか。そのプレゼンスの大きさからか、移動に用いた専用車(papamobile)も記憶に残る。まさに「モバイルポープ」だった。時代の変化への柔軟な対応は、まさに出るべくして出た法王、という感じもする。布教へのIT活用にも積極的だったといい(CNETの記事参照)、この記事によれば、バチカンはセビリャのイシドルス(7世紀の神学者)をコンピュータ関係者やインターネットの守護聖人にする考えだったとのこと。うん、これはよいかも。なにしろイシドルスは当時の百科全書『語源録』の著者。『語源録』はその後長く読み継がれていったのだっけ。

バチカンでは法王の死から9日間を喪の期間に定めているというが、先にもちょっと触れたバリアーニ『13世紀の教皇宮廷における日常生活』によれば、この期間を儀礼化したのはグレゴリオ10世(在位1271〜76)で、こうした制度面の礎が築かれたのも13世紀なのだという。この13世紀の教皇の宮廷というのはかなり独特なものだったようで、教皇や枢機卿その他の高位聖職者たちは、当時アラブ世界などから流入していた天文学、占星術、光学、錬金術などに並々ならぬ関心を示していて、医学などの学知を国際的に集積・発信するセンターの役割すら担っていたのだという。その意味で、新しい動向に果敢に反応してきたヨハネ=パウロ2世は、13世紀の遠い末裔をなしていたのかもしれない。

投稿者 Masaki : 13:04

2005年02月24日

構築的ヴィジョン

連日のライブドア関係の騒ぎ。世間の老害に若い世代が戦いを挑む、という構図のようにも見えていたけれど、webのあちらこちらからリンクが張ってある江川紹子ジャーナルのインタビュー記事を見ると、そのいささか仰々しい「メディア殺し発言」よりも(ヴィクトル・ユゴーかよ(笑))、むしろ建設的なヴィジョンがさっぱりなさそうな点にびっくりさせられる。具体的なプランに話が及ぶたびに、「そんなことどうでもいい」みたいな発言が繰り返されるところが、実は何も考えていません、という風に聞こえてしまう。なんだかどこぞの首相の発言にも似ているよなあ。どこかのWebに書いてあった話では、ライブドアはもともと、不良債権処理・再生機構的なビジネスモデルで成功したのだとかなんとか。なるほど、カンフル剤を打つことを商売にするのならば、患者そのものをどうしようとかいう建設的ビジョンがなくてもつとまるわな。放送業務への進出が本当にヴィジョンに裏打ちされているのか、それともそういう後処理的な発想でしかないのかは微妙に「わからない」のだけれど、ヴィジョンも持たずにゲリラ戦を展開してなんとかなるほど、世間の「老害」(というか制度的疲弊・硬直化)は甘い相手ではないように思うのだけれど……。

さらに話を敷衍すれば、どうもネオリベラルな発想の行き着く先というのは、なんらかの構築的ヴィジョンで事業を駆動するのとはどこか異なるもののように思えてならない。小手先、対処療法、さらには詐欺的なものばかりが跋扈し、もっと重要な社会的構築の発想はないがしろにされる……それってとてもお寒い世界じゃないの。あ、これってテロリズム的な営為ってことね。あらゆる営為(普通の商業活動までも)が一時的・破壊的なテロ行為的様相を帯びていく……それがネオリベラルな資本主義的発想の終着点だったとしたら……。いよいよ大事になるのは、構築的ヴィジョンの再編なんじゃないかな、と。そういう役割は例えば大学のような機関が本来担うべきなんだろうに、だんだんそれも適わなくなっているみたいで……。大学発のベンチャーも盛んになってきたとかなんとか報道されるけれど、この先、そういうのが増えるに従って、巨視的なビジョンはますます脆弱化してくのだとしたら……。

投稿者 Masaki : 17:17

2005年02月02日

外来種

特定外来生物の規制対象に、釣り関係者が反対していたブラックバスの一種が盛り込まれたというニュース。なるほど外来生物の規制は、生態系を守るというのがうたい文句だけれど、そういう「守る」という話は、いつも人間のこざかしい対応をあざ笑うような展開を見せがちだ。人為的保護の対象になった動物が異常繁殖して、かえって環境被害をもたらすなんてのもよくある話。今回は逆のパターンだけどね。フランスの哲学者フランソワ・ダゴニェは、人が自然だと思っているのは実は人為的介入の所産なのだ、と言っていた。森林などがそう。そこに住む生き物だってそうかもしれない。外来種によって環境が変わるのも、環境そのものが変わり外来種が住みやすくなるのも、もとを正せば人為的な営為の所産。これだけ人やモノの行き来が激しい世界的な状況の中で、外来種の到来・繁殖はそう簡単に止められるようなものなのかしら?

余談だが、なんだかこの「外来」という言い方も妙に気になる。まるで外部から来るものはすべて悪しく、在来のものは守るべき高い価値だ、とでもいわんばかり。どこか最近騒がれた外国人への対応(難民申請者の強制送還や、行政職への国籍条項の合憲判決など)にも通じるものがあったりして、いや〜な感じもしたり……。そもそも生物種については、「在来」と言われているものだってもとを正せば外来だったかもしれないわけで、長いスパンで見た場合に外と内という区分け自体が失効することもある。そんなことを思うと、規制そのものに将来にわたる意義があるのかどうかも疑わしくなっていくのだけれど……。

投稿者 Masaki : 20:33

2005年01月31日

公共放送……

NHKの各種お粗末な対応や姿勢に、受信料支払い拒否で抵抗する市民……という報道を耳にするたび思うのは、もちろんこれは構図としてはもっともらしいのだけれど、実際にはどういう人が「抵抗運動」をしているのか見えてこないということ。きちんとした理念にもとづいて拒否をしているというよりは、むしろもともと払わない・払いたくない人が、渡りに舟とばかりに拒否しているようにも見えてしまう。ま、それで制度的なものにまで批判が及んで創造的な破壊がなされていくのならいいのだが……。そもそも今回の、特に政治的圧力云々の話は、制度そのものを見直すいいきっかけになるはずなんだけれど、なんだかそういう方向にはなかなか話がいかなさそうで……。

受像機が一台でもあれば世帯単位で強制加入させられ、しかも毎月課金されるというシステム自体がもう現状にそぐわない気がする。デジタル放送に切り替われば機器そのものを買い換えるのだから、むしろその機器購入に受信料金が含まれるシステムに切り替える方がよっぽど合理的だ。機器が使える内はいくらでも視聴でき、追加料金は発生しない、というふうなシステムにしてほしいよなあ。それで受信料収入が激減するのなら、それに合わせて放送業務自体を縮小すればいいし、あるいは別のサービスでの課金(ネットでの配信業務とかも解禁すりゃいい)を考えてもいい。民間と視聴率なんかで争わせたりしないで、放送大学みたいに教養番組系を大幅に増やすとかね。スポンサーに左右されない放送局が一つぐらいあっていいはずなので(災害時などに役立てられる)、規模を縮小し、民放などに比べて普段の影響力を低下させれば、政治家だって圧力をかける意義を見いだせなくなるというものだ。なにかそういう抜本的な改革があってほしいのだけれど……。

投稿者 Masaki : 15:30

2005年01月22日

写真の真実?

昨晩の筑紫のニュース番組で在りし日のスーザン・ソンタグの姿が放映された。昨年末に亡くなったソンタグだが、日本のメディアはさほど大きな反応を示さなかったように思う。同番組でも、ブッシュ2期目の就任式を報じる中で、アメリカの良心みたいな部分でわずかに取り上げただけだけれど、一応、イラクのアブグレイブ刑務所での虐待写真についての「これは私たちの姿そのものだ」という批判を紹介していた。うん、ソンタグの写真論は写真を通して浮かび上がる現実そのものに向かっていくのだったっけね。けれども写真と、それが切り取るはずとされる現実との間には、時に深い溝、断絶があったり……。

そんなことを改めて感じさせるのは、写真をめぐる興味深い出来事が立て続けに二つあったから。一つは拉致被害者の写真とされたものが、実は脱北者の写真だったという誤報道(というか情報提供者の詐欺)。北朝鮮がらみの情報提供者の信用を著しく傷つける結果になってしまったこの一件だが、それにもまして興味深いのは、写真がもつ信憑性(写っているもの自体の信憑性や、写されたという事実の信憑性も含めて)を支えるのは何か、という問題。今回のこのケースでは、写真が先にあって、それに現実の状況(失踪事件)を当てはめようとする動きが誘発されたという構図が明らかだけれど、実はそれ、なにもこのケースに限らず、写真というものに対するごく一般的な構え方(程度の差はあっても)だったりもする、と。このことは、ホイヘンスから送られてきたタイタンの地表の写真からも感じられた。例えば「なんか火星に似ているんじゃないの」とか思った瞬間、すでにして上の構え方の中に取り込まれてしまっているのは明らかだ……。けれども、任意の写真に現実の状況、既知の情報が当てはまらない、となる可能性も常に付随している。写っているものは本当に存在した、写っているのだから本当に存在する本物だという「信じ込み」を支えるのは、そこに既知のものの痕跡を見ようとする姿勢だ。で、時にそれは、決定不可能な曖昧さ、既知と未知のグレーゾーンを開いたりもするのだろう。写真をめぐる批評って、まさにそういう場に意識的に降り立つことから始まるのかも。

投稿者 Masaki : 11:46

2005年01月16日

「収集的記憶」の危険性

アウシュビッツ解放60周年を前に、英国ではヘンリー王子(通称ハリー)が仮装パーティでナチスの格好をしたとか、フランスでは極右政党の親玉ルペンがまた歴史修正主義的発言をしたとか、このところの欧州はどこか妙な空気が流れている気もしないでもない。前者はあくまで座興だったといい、王子は反省のためにアウシュビッツの見学に行くことになったらしいし、後者も、マスコミへの露出度アップ戦略だろうから相手にしないのが一番、という見識が出たりしているらしいけれど、思うに両者に共通するのは、反ユダヤ主義をあくまで口実として使うような、形から入るある種の追従姿勢かもしれない。で、これは結構危険だ。形式賛美が先行すれば、その時々に応じて様々な内実(イデオロギー)を注入できるからだ。

最近読んでいるアラン・バディウ『聖パウロ−−普遍主義の基礎』(長原豊・松本潤一郎訳、河出書房新社)では、キリストの直接の目撃者だったペテロら他の使徒の衒いをパウロが斥けていることが指摘される。その箇所に続けてバディウは、ネオナチの偏執には記憶の収集家のような部分があり、残虐行為の記憶を楽しんでは、それを繰り返したいと渇望したりもするのだと指摘している。記憶は現在の意思によっていかようにもゆがめられうるのだから、それを絶対的な権威にしてはならない、というのがパウロの立ち位置なのだという。なるほど、内実の理解を伴わない表面的な記憶の収集は危険だ。形から入る追従姿勢(それは表面的な記憶の収集だ)は、内実の理解よりも表面的な記憶の反復ばかりを呼び込んでしまう……。

もとがそうなのか、訳者らの深読みなのか不明だが、上のバディウの邦訳本はちょっとアクが強い(ルビの振り方など、衒っているというか煽っているというか)けれど、いずれにしてもパウロの言動の解釈問題は実にアクチャルで興味深い(教会組織の編成問題という面ではメディオロジー的な問題だけれど、いやいや、そればかりではなさそうだ)。国内でも清水哲郎『パウロの言語哲学』(岩波書店)なんていう優れた論考があったっけ。アガンベンの省察はもちろん、シュミットの政治神学がらみの論考とかもあるようで、いろいろ眺めてみたいところだ。

投稿者 Masaki : 07:55

2005年01月04日

後追いと理想と

正月休みといっても、それほど普段と変わるわけではない。読みかけで放っておいて書籍を読んだりとか。というわけで年末年始に眼を通した書籍から。一つはアントニオ・ネグリ『<帝国>をめぐる五つの講義』(小原耕一ほか訳、青土社)。グローバル化した権力(複合企業体など)としての<帝国>と、それに対抗するゆるい群集ネットワークとしてのマルチチュード、というあたりが、どうも公共政策でのNGOとか、コンピュータ世界でのオープンソースムーブメントなどの散発的な動きを理論的に後追いしようとしている感じがしなくもない。いくらネグリたちがマルチチュードの戦略を説いたところで、実際にNGOで活動しているような人たちからすれば、それはあくまでお話でしかない、としか映らないのではないかしら?マルチチュード(って群集だよなあ)が、定義としても、運動の呼びかけを受けて結束するようなものでないということなので、そうなるといよいよ、散発的運動(ボトムアップ)に対するこのメタの視点の提示(トップダウン)の意義そのものが危うくなってしまう。それに、ジジェクが指摘していたような、マルチチュードの存在がひるがえって<帝国>を支えてしまう、というあたりの問題はどうなるのかしら?

これとどこか同じような危うさを感じさせるのが、かつての日本のメディオローグ、中井正一か。木下長宏『中井正一−−新しい「美学」の試み』(平凡社ライブラリー)を最近読んだのだけれど、そこで指摘されているのが、中井正一の理想と現実的展開のギャップだ。思想の営みが個人の主観に還元できない時代状況の中で、「自分を越えた眼」に見られるという「射影」概念を唱え、ひいてはそれが「委員会の論理」に発展していく中井の理想は、しかしながら「土俗的言語」を「尖端の言語」にどう上昇させるかという媒介の問題にぶつかり、それを越えられない。中井はそこで苦しみ、問題を解決することなく世を去ったという次第だが、なんだか上のマルチチュードの議論も同じような部分で躓いている気がする……。

うーん、この辺りの問題の糸口も、もっと歴史的に遡らなければ見えてこないのでは、と思ってしまう。現代から近代へ、さらには近世や中世といったそれ以前の根っこの部分へ。現代的な問題の多くは、過去から捉え直す必要があるだろうなと、2005年の正月も改めて想うのだった(笑)。

投稿者 Masaki : 23:54

2004年12月28日

災害と想像力

未曾有の惨事になっているインド洋の津波。外国のニュース映像などを見てみると、かなり凄惨な状況になっているみたいだが、遺体や怪我人の映像をあまり流さない(流せない)日本の報道では、どうしても物的損害やら津波そのものの映像ばかりに力点が置かれがち。で、放映されている映像には、水が引いた海岸に観光客がカメラなんかを手に野次馬的に集まっている光景などもあったし、撮影者本人も巻き込まれなければ撮れないようなものもあって、普通そういう異常な状況になったら逃げるのが先決だろうに、と思ってしまう。彼らはなぜ逃げないのだろう?津波の怖さを知らなかったから?それとも何か面白い映像が撮れる、珍しい光景が見られると思ったから?

これ、考えてみると同じ問題に帰着するのかも。誰もがカメラを手にしている今、そして日々ジャーナリズム的な映像にどっぷりと浸かっている今、自分にとって未知の事象に臨んだ際にまず作動するのは、危機に対する想像力ではなくて、ジャーナリスト的な視線の方になっている気がする、と。で、この二つは多くの場合に相反する。あらゆるものがスペクタクルになってしまうと、それが突きつける危機への身構えはガタガタになってくる……。やはり重要なのは、危機に対する想像力を鍛えること。けれどもそれは、為政者らの管理強化を増長するような「漠たる不安の一般化」とは別の次元で鍛え上げなくてはならない。これが難しいところ……って、そもそも生きるってこと自体が、本来そういう感覚を研ぎ澄ますことだったんだけど……。

投稿者 Masaki : 18:22

2004年12月22日

CD-ROMとか

最近、フランス産(笑)のCD-ROMを2種類購入。1つは『フランス語宝典(Trésor de la langue française)』(CNRS Editions)。これはオンラインサイトにあるものをそのままCD-ROMに収録したもの。語源や古い用法などを見たい時には便利なツール。ま、回線が生きているならオンライン版で問題ないのだけれど、いざというときのためにデータはローカルに持っていたいというのも人情。MS-Wordとの連携などCD-ROMならではの機能もあるけれど、どこか検索ツール(htmlだ)のインターフェースがやや古い感じ。というか、作り込みがイマイチ甘いというか。ちなみにこれ、紀伊国屋なんかでも扱っているみたい。

もう一つはLe monde diplomatiqueのCD-ROM版。今年10月までの26年分の記事を集めたもの。届いたばかりなので、まだちょっとさわってみただけだけれど、なかなか使いやすいインターフェース。記事も英訳、独訳、西訳、伊訳などまで入っている。そういえばLe monde diplomatiqueは去る5月に50周年を迎えたんだっけ。5月号に付いてきた折り込みの旧紙面特集で見ると、創刊号の一面はハルロド・ニコルソン卿の「旧い外交・新たな外交」が巻頭を飾っている。目次で見るとわずか8ページ。カルティエの広告が入っていたり。今とは大分雰囲気が違うのね。

そういえばLe Mondeの方も先日(12月19日)で60周年。こちらの創刊号は少し前にオンライン登録者に1面の復元を配っていたけれど、オンラインでも見られるようになっている。こちらの創刊号の1面はこちらのサイトが詳しくレポートしている。Le Mondeをめぐってはつい最近編集局長の辞任が報じられたばかり。発行部数の伸び悩みが原因とか言われていたが、ちょうどそのころ、クリスマスのプレゼント向けに、オンライン版への登録ライセンスといくつかの記事をCD-ROMにファイル化したパッケージを売ろうとしていたのがなんだか泣けてくるよなあ……。報道と情報化という話、改めて考えたいところだ。

投稿者 Masaki : 15:52

2004年12月11日

核の話、再び

年末進行に入り忙しいのだけれど、カール・シュミットの『政治神学』なんかもぼちぼちと眺め始めていたり。19世紀以来、ドイツではそれ以前の主権概念の伝統が一端途切れ、社会学・法学がそれぞれ概念的に囲われてしまうと、特に後者においては、客観的な法体系という考え方により、そこに本来関わってくる(中核を占める)主権問題はいよいよ覆い隠され、捉え損なわれてしまう……なんてなかなか興味深い話でないの。この構造上導かれる「捉え損ね」は、とても大事な問題という気がする。

ちょうどフランスでは、性犯罪の再犯で捕まった男の裁判で判決が出たりして、F2などは、男が手続き上のミスで釈放されて再び罪を犯したことから、司法制度の欠陥として取り上げていた。けれども、前のアーティクルのジジェク的な見方をここに適用するならば、司法の具体的な適用が、法の体系的規定そのものを「実現」するには至らず、そこに大きな溝が生じるというのは、実は構造的なものなのかもしれないにもかかわらず、現実にはそうした溝を溝として認識するというよりも、より精緻な法整備をなすことによって、結果的に法の縛りはいっそうきつくなるという構図になってしまう。かくして管理社会はいっそうの強化に向かい、溝は溝のまま、先送りされた形でその管理社会を安定させる。なるほどね。フランスの事例が今後、対症療法的な欠陥部分の手直しで済むのかどうか、より大きな法改正になるのかわからないけれど、なんだか後者への傾斜がますます強まっていくような気もする。で、決してこれは人ごとではない……。

投稿者 Masaki : 21:16

2004年11月06日

アメリカ……

アメリカ大統領選。France 2までもがキャスターをニューヨークに派遣して報道する過熱ぶりだったが、直前予想の通りにブッシュが勝利。ブッシュにしてみれば、なんだかビン・ラディン様々という感じかもしれないけれど、いずれにしてもアメリカが世界全体への影響力を増せば増すほど、その大統領が限定されたアメリカ国民だけで選ばれることの不合理さが際立ってくるのは確実だ。アメリカの大統領選が全世界的な制限選挙にならないよう(それが全世界的な普通選挙になってしまうのはまた別の意味での悪夢だが)、やはりその権能の分散化を促す必要は出てくるのではないかと思う(ただし、だからといってイラクへの進駐に加担せよということではないけれど)。

もう一つ重要なのは、現代人の内側に取り込まれてしまった(血肉化した)「アメリカなるもの」をどうするか、という問題。私たちは少なからず、アメリカ的なものの見方の影響を受けている。これについて、情報学の先鋒、西垣通氏が新著の小説で、虚構という形を借りて考察しているらしい。朝日新聞のインタビューでは、「ポストモダニストたちは相手を甘く見ている」と喝を飛ばしている。うーん、進歩主義をどうするかというのは確かに大きな問題。フランスなどでは、政府関係者も含めて、アンチグローバリゼーションの代わりにオルターグローバリゼーションという言い方を始めて久しい。グローバリゼーションの流れは(利点も含めて)是認しつつ、そこに彼らなりの代替案を探ろうという姿勢だ。では日本は?相手の考えに乗っかるのは得意でも、代替的価値を簡単に示せないお国柄だけに、これは難しいところだが……外なるアメリカと内なるアメリカの猛威に二重に翻弄されるだけの存在から、脱却する道は探れるか……?

投稿者 Masaki : 01:26

2004年11月01日

旅と情報

日本の青年がイラクで人質になり殺害された事件では、戦地へ赴いたその動機についていろいろと言われているようだけれども、こうなってしまった以上、その真意はもはやわからずじまい……。ワーキングホリデーの滞在先から直接中東に赴いたらしいので、現地の状況について事前の情報・認識が不足していたのではないかという話も出ているようだ。

現代社会は移動手段が発達したおかげで、人的移動はすこぶる簡単になってはいるけれども、旅というものの根底には、やはり基本的に「先が見えない」というリスクが横たわっている。そのリスクを低減させるのは、やはり広い意味での情報だ。状況判断はまずもって情報がないことにはどうしようもない。情報が不足している場合には、それを補うための方法も考えなくてはならない(例えば中世の旅人にしても、現代人はつい彼らが結構無防備に旅していたように錯覚してしまいがちだが、ノルマン人の移動にせよ十字軍にせよ、あるいは少人数での巡礼にせよ、彼らは彼らなりに最大限の情報を活用し、周到な準備をして移動していたはずなのだ。それに、決して一部の文学作品(クレティアン・ド・トロワとか)に描かれるような単独行動ではないよう思われる。『薔薇の名前』などに描かれたような、師匠と弟子だけがほぼ単独で移動するなどということが現実にどれだけありえたのか、そのあたりも再検討する必要があるかもしれないのだが……)。

いずれにしても、危険を予測して状況判断を可能にするものでなければ、情報の意味がない。個人がそういう広義の情報に対応しなければならないのは当然だけれども、行政の側にも、もっと別の対応はありえなかったのかしら、とつい思ってしまう。国外にいたらどこで手に入れられるのかもわからない日本の渡航情報などでお茶を濁されては困るのだ。それで「最善の努力をした」というのではあまりに安易すぎる(拉致の一報を受けていきなり「自衛隊は撤退しない。人質救出に向けて最善をつくす」と言ってのけ、あとは人任せで自分はどこぞの結婚式に出ていたというどアホウな指揮官がトップにいるのでは、望むべくもないのだが……)。

投稿者 Masaki : 23:07

2004年10月02日

秋口の雑感

夏の疲れが今頃になって出てきたのか、軽く腰に来ている。うーん、だんだん歳とともに、秋口に休むというのがいいような気がしてきた。夏の盛りに休みをとって遊ぶのも結構だが、体力回復のためには秋口に何もしない休みを取るのも一興かもしれない。実際、最近は「秋休み」を取る人も増えているそうだ。休みの取り方も当然個人差があってしかるべき。盆や正月に一斉に、というのも考え直す頃合いなのかもしれない……。

そんなわけでとりあえず外出を控えたりすると、どうしてもネットを見る時間が長くなってしまう。けれども最近は、Googleの検索などがどうもあまりよくない。キーワードの検索で、重要なファイルよりも先にBlogが来るのはどうなんだろう。同社の広告戦略にはそちらの方がよいのだろうけれど、なんだかなあという気がする。Googleが始めたニュースポータルも、時間系列が基本なのか、大きなニュースであってもすぐに下の方に行ってしまい、トップページには表示されなかったりする。うーん、しょせんは商売だからなあ。マイナーな情報へのアクセスはだんだんと難しくなっていくのかしら。こうなると、むしろ個別化・専門化したポータルが(もちろん使い勝手や検索効率の問題もあるけれど)重要になっていくようにも思える。

投稿者 Masaki : 22:16

2004年09月19日

スト

あまり野球には興味がないのだけれど、今回のスト騒ぎで一つ注目できるのは、長らく忘れられていたストという実力行使を、国内の多くの人々が思い出したということかもしれない。ストライキって、ざっと30年くらい前は決して珍しいことじゃなかったが(私なんかはガキの時分だけれど)、全般的な生活水準の上昇とともに、ひいてはバブル経済を通じて、そもそも実力を行使する必要がなくなって(?)衰退し忘れ去れていた。英語のstrikeは、オンライン語源辞典によると、1768年ごろからあるらしい。フランス語のgrèveになると、警察調書に「増額のために仕事をやめる」の意味で登場するのが1805年とのことで、近代的な意味での同盟罷業は1844-48年ごろからだという(Grand Robertより)。ストもまた時代のメディアと手を携えてきたことは明らか。今や報道によって大々的に伝えられるだけに、その威力はもしかしたら昔よりも増しているのかも。

投稿者 Masaki : 23:27

2004年09月17日

関節外し

先に死刑が執行された池田小児童殺傷事件の宅間死刑囚。この件は、なんだか制度の根幹を揺るがしているような気がする。この執行は、極刑としての死刑というものの関節を外してしまったように見えるのだ。犯罪に見合った処罰という面から見ても(死刑を是認する立場の根拠だ)、人道的見地から言われる更生主義(死刑反対の根拠だ)で見ても、あるいは犯罪の事実関係解明(それは類似の事件の再発防止のためにも重要だ)という裁判手続きから見ても、この執行はまったく意味をなしておらず、まったくもって宙に浮いてしまった形だ。いわば法の執行に見られる制度的な権力が完全にはぐらかされてしまっている。こうなると狭義の人道的配慮などからの議論とはまったく別の見地から、死刑のあり方が見直されなくてはならないのではないか、と思われてくる。死刑囚本人が、ヤケを起こしたのかどうかはともかく執行を望み、制度がそれを追認する形を取ってしまうのでは、それは刑としては意味をなさない。究極の要望を受け入れてしまうことは、処罰の側面からは是認されえない。そういう場合には、むしろ本人の意に反してでも生きながらえさせることが重要になるのではないか、全面的な事件の解明や、悔恨と償いにいたらしめる形での刑の組織化が必要なのではないか、と。極悪人がいなくなればそれで完了、というように事は単純ではない。

投稿者 Masaki : 20:44

2004年09月06日

テロル……

北オセチア共和国の人質立てこもりの悲劇。突入が開始された先週金曜はちょうど放送局での仕事があって、転送されていたBBCの特番の中継を途中から見ていたのだけれど、まさかこれほどの惨事になっていたとは……。情報操作があったとかいろいろ言われているけれど、それ以前の基本的な事実を改めて目の当たりにした思いだ。つまりテロが暴力的なら国家もまた暴力のかたまりだという単純なこと。ちょうど先月号の『現代思想』(青土社)が「国家」の特集を組んでいて、そこでも暴力の問題は濃淡様々な形で論じられていたけれど、例えば萱野稔人「国家を思考するための理論的基礎」では、ドゥルーズ=ガタリとかを引いて、国家を暴力の社会機能に即した組織化と定義している。その注では、同じドゥルーズ=ガタリの「戦争機械」をその対抗概念として紹介しているけれど、これって抵抗するゲリラのことだよね。今必要なのはむしろそのあたりの全面的な再考かも。で、柄谷行人がインタビューで述べている「受動的ではない非・暴力」がそこに重なってこないといけない気がする。テロはメディアを大いに利用した戦術だけれど(これほどメディア化されていないなら、人質をとって立てこもる戦術はまったく意味をなさない)、徹底た非・暴力だって、メディアをテコに暴力の抑制をなしうるものかもしれない、と。とにかく関係のない子どもが多数殺害されて、独立のために戦うのだとか、テロとの戦いでございなどと大義ばかりほざいいていてよいわけがない。仮に犯人がチェチェンの武装勢力だとして、こんなことを続けている彼らが将来作る国家(作れたとして)も、すでにしてお里が知れている気がするのだが、どうだろう。

投稿者 Masaki : 10:24

2004年08月12日

イスラム銀行

F2でも取上げていたが、英国で初のイスラム銀行が年内にも操業開始するらしい(BBCのWeb記事)。イスラム法に従い、金が金を生んではいけないということで、金利はいっさい設定しない。また不正な所作による利益は禁じられているということで、タバコやアルコール、ポルノ産業などへの投資は行わない。かならず物品が介在しなければならないということで、クレジットの考え方も、金を貸す・借りるというのではなく、あくまで商品の転売だという考え方を強く押し出す……(同じくBBCの解説記事を参照)。中沢新一の『緑の資本主義』が触れていたが、こうした利子の禁止という考え方は、中世盛期以前にはヨーロッパにも存在していた。というか、ニコル・オレーム(14世紀)の『貨幣論(貨幣の変更について)』にも受け継がれているように、金貨などの実際の価値と、その名目上の価値とが相違する事態(まさにそれが資本主義的な流れの始まりだけれど)はなるべく避けよとされている。そしてそういう事態にならないように見守るのはコミュニティの義務なのだ、とも。この、ある種の「アンチ資本主義」の背景には、やはり金が金を生んではいけないという「縛り」があるように思える(『緑の……』によると、三位一体的思想は、まさにそうした縛りを切り崩すものなのだということだが……)。いずれにしても英国という資本主義の一つの極に、異質な論理に支えられた(?)銀行が誕生するというのは興味深い出来事かもしれない。これがきっかけで、将来的に、宗教そのものとは切り離されたところでの何か新しい動きにつながっていかないもんだろうか……。

投稿者 Masaki : 12:41

2004年08月10日

集団的論理

難民認定を求めて国連大学前で座り込みを続けているクルド人家族の身元を、トルコ当局に告げてしまったという法務省の失態(yahooによる読売のニュースクリップ)。いつぞやの在中国大使館での脱北者駆け込み事件を彷彿とさせる。しかも今回は法務省。司法に携わる当局がこのありさまとは、なんとも悪い冗談だ。人権について行政レベルでこれほど配慮がなされないのは(というか、配慮という意味での想像力が働かないのは)、やはり組織を支えるべき理念そのものに欠落があるとしか思えない。あるいは行政は、国民やら外国人やらを一つの「マス(集団)」として捉えて処理しようとすることにあまりに慣れすぎてしまっていて、個人が問題になるような場面での対応が満足に出来ないのか。そんでもって、余所の国で「マス」が問題になると過敏に反応したりする(サッカーの中国人サポーターの振舞いを必要以上に政治問題化させようとしているのは、むしろ日本の側かもしれない)のかも。

「個を確立するのが大事」とか「個性を磨け」なんてスローガンが少し前まで盛んに吹聴されていたように思うけれど(今も教育現場などではあるのかもしれないが)、例えばテレビの画面に登場する政治家やコメンテータは、やたらに「私は、私は」と自分をアピールして、一見個が前面に出てきたという風に見えたりもする。ところが実際には、それはエゴイスティックな姿勢を蔓延するだけだったりする(なにせ、誰が語っても同じような話や事実関係を、さも自分の意見のように「私は〜思う」を付けて、いわば衣を着せて垂れ流すんだから)。テレビのそういうしゃべりは、いろいろなところで模倣されて、視聴者へと浸透していく。ところがそうやって蔓延するエゴイスティックな姿勢にあっては、自分以外の他人はマスとして扱うしかない。そこにあるのは「顔の見える」他者ではなくて、漠然としていてどうでもよい、輪郭のぼけた他者だ。こうしてエゴとマスは手を携えて共に進んでいく……。うーん、テレビ時代が作り出す集団的論理の一端って、そんなものかもしれない。こうなると今広範囲に必要なのは、人権の教育や再考も含めて、人が個人であることをきちんと認識するためのレッスンかもしれないなあと。

投稿者 Masaki : 12:31

2004年08月03日

荒れる中国?

長岡でやっているルーヴルの中世秘宝展を見に(この話はそのうちメルマガで)、新潟に遊びに行く。ちょうど長岡はお祭りで、町のあちこちでその準備がなされていた。ちょっと駅前から遠のくと、昔懐かしい軒の張り出した商店があちこちに見られ、なんだか30年くらいタイムスリップした感覚を与えてくれる。一方、新幹線で長岡の次の燕三条などは、包丁や工具といった金属加工品が地場産業となっているらしい。もとは江戸の頃の和釘で知られた一角なのだという。職人の長い伝統があって今に至っているのだというが、それを脅かしているのはやはり中国製の廉価な製品なのだという。

その中国で開催中のサッカー・アジア杯では、中国のサポーターらが露骨に反日的な応援で盛り上がっている模様だけれど、ワルシャワ蜂起60周年の式典にシュレーダー首相が出席したのと実に対照的だ。国連の常任理事国入りをめぐっても、中国はドイツをよしとし日本には難色を示しているという……和解の西欧と分断の東アジアという感じはいよいよもって濃厚だ。もちろん日本も対外的な配慮を欠いていたりするわけだけれど(靖国参拝問題など)けれど、中国も、国全体の結束をイデオロギー的に支えるため、仮想敵国などを据えずにはいられない事情もあるらしい。

それにしても中国の躍進はすさまじい。ル・モンド・ディプロマティック8月号のラモネ編集長の論説から一部の数字を拾っておくと、アメリカの2003年度の対中国貿易赤字は1300億ドル、経済成長は年率9パーセント台、輸入も各種原材料で世界一(セメントは世界生産の55パーセント、石炭は40パーセントを輸入)になり、石油の輸入も米国について第2位だという(なるほど尖閣諸島の資源は中国にとっての死活問題なわけだ)。当然、そうした大量消費・大量生産の負の側面が危惧されるわけだけれど、政治的にも不安定要素はある(周辺部の火種など)し。仮想敵国というレッテルはそう簡単には外れないだろうけれど、やはり東アジアの不安定化を避ける方向で協働する道を探っていかないと。

投稿者 Masaki : 12:47

2004年07月29日

外からの眼

イラクでの邦人人質事件解決に貢献したイラクの聖職者協会。訪日中のその代表団が外相との会談をドタキャンした話が伝わったけれど、京都のシンポジウムでは、人質事件の最中も日本政府からの接触はなかったという話をしたという(京都新聞のサイト)。なんだか現政府への不信感が国際化している感じを与えなくもない。そういえば岩波『世界』の8月号でも、『「日本」の現実』と題した特集の中で、寄稿した諸外国のジャーナリストがほぼ例外なく政府への不信を口にしているのが妙に印象的だ(メディア批判もだけどね)。「正直むかつくのは、日本経済の足を引っ張ってきた政府が、自分たちの政策で景気が好転したと言っていること」(B. フルフォード)とか、「(小泉は)韓国や中国の反対にもかかわらず、忠臣蔵のイメージに向かって日本を導こうとしている」(キム・チェンシク)とか。

サッカーW杯を戯画的に振り返るアンジェロ・イシは、それが寛大なホスト国という自画自賛のために織り込まれた内向きなイベントであったことを改めて総括してみせ、「日本が国際社会に対して好印象を残したと勘違いされてはこまる」と述べる。日本人の、日本人による、日本人のためのイベントに、他国が巻き込まれるんじゃ、さぞたまらなかったろうね。イラク派遣の自衛隊も、何をやっているのかまったく伝えられず、返ってきた隊員たちは公式見解で自画自賛ばかりをする。いったい何なんでしょうね、この国は。自画自賛……内弁慶……ってまさに体裁だけ。「国連常任理事国入りには、時に軍事力の行使も必要だ」みたいなことをアーミテージが言ったというけれど、そんな迷い事によもや乗ったりしないでよね。なんといっても愚かしく悲惨なのは、「自画自賛」で武力行使まで行ってしまうことなんだから。

投稿者 Masaki : 23:45

2004年06月24日

通訳者の受難

イラクで殺害された韓国人の人質は通訳者だったという。この通訳者の殺害が報じられた23日、英国軍の通訳をしていたイラク人女性2人が、やはりテロの巻き添えで亡くなった話も報じられている(バスラ)。先の日本人ジャーナリストの殺害の歳には、同行のイラク人通訳は逃走して一命を取り留めた。意思疎通の現場に臨もうとする仲介者が殺害されていることには、もはや意思疎通を図ろうとすらしないテロリスト側の姿勢が見てとれるのかもしれない……。

殺害された韓国人の通訳者は貿易会社所属とされていたけれど、大学院でアラビア語を勉強するための資金稼ぎに行っていたという話も伝えられていたから、おそらくは正規の社員ではなかったのだろう。うーん、韓国あたりでは本当のところどうなのかわからないけれど、少なくとも日本では、どうも通訳という技術職(本来的にはそう)にはどこまでいっても契約社員・非常勤で賄うものという認識がついて回る。たぶんこれは広く行き渡った認識なのではないかと思う。で、当然、戦地に連れて行くからといって訓練を施すわけでもない。通訳や末端の技術者は、まさに無防備だ。現場で何か事が起きれば、真っ先にそういう人材が切り捨てられる。テロリスト側も、どこかそういう切り捨てられる立場の人間を優先的に狙っているようにすら見える。虐げられた者は自分たちが虐げうる弱い獲物を狙うのか。そこに大義は介在しなくなっていくだろう。この、暴力が常に弱い方、弱い方へと流れていく逆スパイラルをどこかで食い止めるためにも、韓国で一部巻き起こっているという報復を求める声なんぞに、具体的な形が与えられては困るのだ。

投稿者 Masaki : 22:13

2004年06月17日

欧州議会選……

仏独あたりのマスコミが事前に予想していた通り、各国で棄権率の高さと現政権への批判票が目立った欧州議会選挙。トップダウンで進められた欧州の統合に、一般の市民はかなり冷ややかだということを改めて感じさせた。

この、欧州をめぐる為政者と一般市民の認識の差は、これから従来にもまして大きな問題になっていきそうな感じもある。例えば『ヨーロッパ学事始め』(マンフレート・ブール他編著、而立書房)(シンポジウムの記録)所収のブールの論考「諸文化のヨーロッパのために」では、経済的利害によって決定された欧州統合を真に民衆のものにしていくために重要なのは、その文化概念を国家的な次元から解放して、互いに他を疎外しない連帯のもとに位置づけ直すことだと説いている。けれども問題なのは、文化例外の件で問題になるような、文化活動が経済活動に下支えされている状況だ。ジンドリチ・フィリペタというチェコの報告者は、「経済はユートピアを殺す」と断じたブルデューに対して、「経済と哲学との独特な結合」を弁護していたルカーチが重要だと述べている。なるほどルカーチか。まともに読んだことがなけれど、言われてみればなんだか面白そうだ。なにかヒントが転がっているかしら?

[シリーズ、LiveCamめぐり] その1
eiffel0329.jpg
(今年3月29日の某LiveCam映像でのエッフェル塔。ほとんど絵はがきだな、こりゃ。この周りに何もない開放感こそが、エッフェル塔の強みか)

投稿者 Masaki : 11:47

2004年06月08日

Dデイ

ノルマンディ上陸作戦の60周年式典にわいたフランス。今回はドイツも初の出席で、まさに戦後が終結したことを印象づけようとしているかのよう。拡大EUの舵取りを念頭に置いていることは明らかだ。で、米国も米国で、タイミング的にイラクに関する国連決議の調整を図るようにもってくるところが絶妙。こんなわけで、政治ショーとしての側面(狭義の)もずいぶんと強調されていたように思う(とはいえ、「戦後」からの脱却が様々な形で進んでいる西欧は、アジアの状況となんと大きなコントラストをなしていることか……)。

作戦に実際に参加した退役軍人の年齢からして、これほどの式典はもうないだろうとされているが、ルモンドのニューズレターで紹介されていたSt.Peterburg Timesの4日付けの社説では、若い人にとってはもはや過去の「歴史」でしかないノルマンディ上陸作戦を、今回これほどの式典で祝ったのは、新たな区切りとしてのゼロ年を必要としているからではないか、と論じている("If we want to preserve those institutions, to give them the popular support and appeal that they need in order to flourish, we need a new legitimacy, and it is not entirely obvious where it will be found. Perhaps we need a new Year Zero against which we can define our political progress and our new ambitions. ")。なるほど、式典には元来、時間的区切りの機能、「リセット」の機能がある。けれどもそれがことさらに強調されていたとしたら、やはりそこに、ある種の政治的作為を疑わざるをえない。この場合の作為とは何だろう?英国のSun紙の論評は、「今のわれわれは当時ほどの勇気を持てるか」との問いを発しているが、あるいは繁栄を守るための行動(軍事的?)を鼓舞することが、裏の意図としてあるのかもしれない。正義や自由のための信念の行動は確かに奨励されてしかるべきだけれど、ちょっと気をつけていないと、すぐにそこに米国的な新自由主義の色合いが加えられて、足を掬われかねない……。今回で言えば、「西欧の戦後の民主主義的繁栄は尊い犠牲の上に成り立っているのだ」という感じのメッセージになっていたように思えるが(それ自体はきちんと認識すべきだけれど)、信念による行動がどこかで国家奉仕型の行動にすり替わっていきそうな危うさが感じられるのもまた事実だ。

若い世代はどう思ったのだろう?式典に参加したというある若者は、France 2のインタビューに答えて「イベントそのものは感動的だった。レーガンの死も重なったし、忘れられない思い出になった」という感じで答えていた(7日、13時のニュース)。イベント性そのものを感覚的に捉えているところが、為政者の意図をどこかはぐらかしているようで小気味よい……か(?)。

投稿者 Masaki : 15:50

2004年05月27日

現場の論理?

23日以来、France2などの報道はシャルル・ドゴール空港のターミナル崩落を大きく取り上げている。日本では最初、「屋根が崩落した」みたいに報道されていたけれど、Le Mondeの速報では「passerelle(ブリッジ)が崩落」とされていて、起点で見るか全体で見るかといった報道の差が表れていて興味深かった。また、それとは別に、今回の事故、設計者はポール・アンドルーという有名な建築家で、パリの新凱旋門やら関西国際空港などにも関係している人物とのこと。北京のオペラ座も建設中だったという。原因調査は始まったばかりのようだけれど、まさか強度計算とかをミスっているとも思えないし、結局、設計と現場という古くからある対立がまたしてもクローズアップされることになりそうな感じ。パニック映画の古典『タワーリングインフェルノ』とか思い出してしまう(確か、建設会社がコスト削減のためにスペック以下の配線を用いていた、という設定だった)。

けれどももっと昔の事例もある。例えば16世紀初頭のルネサンス期。ダ・ヴィンチとマキアヴェッリが共同で画策したアル川の水路変更計画(敵対するピサ軍に勝ち、ひいてはフィレンツェを海港にしようという壮大な計画だったという)は、レオナルドの周到な労働力計算にもかかわらず、現場を担当したコロンビーノという治水技術者が土砂運搬の困難を過小評価し、計画を変えてしまったことを主因として頓挫してしまう。堀の掘削深度が不十分で、水が十分に流れこんでこないという始末だ(マスターズ『ダ・ヴィンチとマキアヴェッリ』参照)。うーん、この設計対現場という図式、分業化や専門化という過程も絡んで、技術哲学的(といってよければだが)にとても興味深い問題かもしれない、と思ったりもする。

投稿者 Masaki : 22:57

2004年05月25日

社会への同化

小泉訪朝のほとんど唯一といっていい成果は拉致被害者の子どもたちの帰国。国籍の概念が血統主義であるからこそ「帰国」ということになるのだけれど、問題はやはり、それら子どもたちの社会への同化。自治体が日本語教育などの便宜を図るという話だけれど、これは一筋縄ではいかないような気がするのだがどうだろう?日本に入ってくる外国人全般に対して、欧州がやっているような言語・文化教育の受け入れ施設があれば、それが有効な枠組みになったろうに、と思うのだけれど、残念ながらそういう枠組みはない。血統主義に立っていた従来の国籍概念からすれば、外国にいて、ほぼまったくといってよいほど日本語・日本文化と接することのなかった「自国民」が存在する事態など、ほとんど想定外だったのだろう。考えてみると、この話に限らず、これだけグローバル化が進んで人や物の行き来が盛んになる時、血統主義的な概念の再考というのも、もしかしたらあってしかるべきかもしれない。

岩波の『世界』6月号には、フランスの政治学者パトリック・ヴェイユと立教大教授宮島喬との対談が掲載されている。欧州の二大国として、フランスは生地主義、ドイツが血統主義というのが通念になっているけれど、実は血統主義はフランスのナポレオン法典で発明されたものなのだという。このモデルをプロイセンが導入したのが、今に続くドイツの血統主義なのだそうで、対するフランスは、外部から労働力を受け入れる必要に迫られ、1889年に制度を変えている。で、ドイツも今や労働力としての移民受け入れを余儀なくされているのだそうで、最近の法改正で生地主義へと大きく傾く要因になった。日本も状況は構図的にはほどんど一緒か。確かに規制が強いから外国人数は少ないものの、かつての「3K」労働のような経済の下支えを一部になっているのも事実だし、これからももっとそれは拡大していくはず。国籍概念の血統主義も見直されていかざるをえないんではないか……と。

投稿者 Masaki : 22:57

2004年05月10日

式典と神話

8日はフランスでは第二次大戦の対独勝利の記念日。今年は直前にユダヤ人兵士の記念碑が落書きで荒らされるなどの事件もあって、むしろいつになく8日の式典がクローズアップされる形になったのが皮肉といえば皮肉か。一方で、7日にはフランスが歴史的な敗北を喫した「ディエン・ビエン・フー(Dien Bien Phu)の戦い」50周年記念で、大統領はその地での戦没者を、「『ロランの歌』にも匹敵する新たな叙事詩をその血でもって記した("les hommes de Dien Bien Phu ont écrit avec leur sang une nouvelle geste qui renoue, par-delà les siècles, avec l'héroïsme de la Chanson de Roland")」と讃えた(Yahoo! Franceの記事)。

実際にはディエン・ビエン・フー平原の戦いは、ベトナム統治の立て直しを図ろうとするフランスと、独立を目指すベトミンとの壮絶な戦いだったようで、フランス側はこの惨敗でインドシナからの撤退を余儀なくされている。大統領は「ロランの歌」に言及してまで、犠牲になった兵を美談に仕立て上げたわけだが、こうした神話化は物事をある側面から整理し均質化することにほかならない。なぜ今、あえてそういう姿勢を押し出したのだろう?節目の50年ということも当然あるだろうけれど、なんだかこの式典自体に虚構的な色合いを帯びさせ、侵略戦争という記憶が突きつけるはずのアクチャルな重み(それはイラク問題などで増幅されうる)を逸らそうということなのかもしれない。うーん、記憶を風化させないという機能をもつモニュメントやセレモニーは、同時にそれをフィクションの領域に押しやる機能も担っているのか……。その意味では、やはり対独勝利を祝っていたチェチェンの式典会場で起きたテロは、国家の神話に回収されてしまいそうになった民族の記憶を、現実に引き戻す動きなのかもしれない(だからといって無差別テロが正当化されはしないのだが)。

投稿者 Masaki : 17:14

2004年05月05日

内発

米英軍によるイラク人捕虜の拷問・虐待写真の公開は、戦争の現実というのを改めて思わせる事件。英軍の方はフェイクではないかという話もあるけれど、仮にそうだとしても、そうした写真を「作って流す」という行為そのものが、すでにして厭戦気分の蔓延を物語っている……。例えばYemen Timesの記事では、捕虜の虐待を敷衍する形で米国の蛮行を批判し、今回の件についても独立機関による調査と、しかるべき法廷での審議が必要だと訴えている。もはやどう転んでも親米政権が誕生する見込みはまったくないのだから、外国勢力はいったん全面的に手を引くのが賢明かもしれない。もちろん、そのように放置すれば内戦状態になる可能性もあるだろうし、別の形の専制国家が誕生しないとも限らないだろう。けれども、そもそも内発的な自治の動きが出てこなければ、先に進むことはできないのではないか、という気もする。それがあってこそ、国連主導でその調停にあたるという大枠のシナリオも生きてくるはず。危険な賭だけれど、あえてそうする以外にないほど、状況はせっぱ詰まっているんじゃないのか?

投稿者 Masaki : 17:14

2004年05月01日

EUの拡大、反ユダヤ主義も拡大?

EUは5月1日から25カ国体制へ。各地で祝賀ムードいっぱいという感じだが、そんな中気になるのは、このところまたクローズアップされてきている反ユダヤ主義。30日にはフランス東部のオー・ラン県では、ユダヤ人墓地が落書きで荒らされる事件が発生。その前にはフランスのサルコジ経済相が「社会党政権のせいでフランスは米国に反ユダヤ国家だと思われた」などと発言して大騒ぎになっている。ベルリンではOSCE(欧州安全保障協力機構)主催の反ユダヤ主義に関する国際会議が29日に開かれている。エリ・ヴィーゼルがいまだにユダヤ人が脅威を感じている点を指摘したり、元欧州議会議長のシモーヌ・ヴェイユが「フランスでは不寛容が定着している」と述べるなど、もはやこの問題は社会全体の脅威だとの認識で一致している(Tagesspielの記事"Mode der Intoleranz")。また、EU拡大で反ユダヤの空気がさらに助長されるのではと危惧していたドイツのユダヤ人中央評議会副議長に対し、ポーランドのクワシニエフスキ大統領はTagesspielの別の記事で「反ユダヤ主義が東欧でいっそう顕著だということはない」とし、「EU拡大は問題ももららすだろうが、機会や期待の方がもっと大きい」と強調している。とはいえ、欧州にとってイスラムが外の他者ならユダヤは内なる他者。重要なのは全体の空気であり、祝賀ムードが去った後が問題なのだが……。

投稿者 Masaki : 19:38

2004年04月27日

「欧州への」人類学

キプロス島の統一ならず……。うーん、ここには民族的対立というよりも、下手をするともっと根の深い欧州対アジア的な線引きの微妙な問題が露呈しているのかも……と考えると、ヨーロッパの「臨界」はまさに波乱含みだ。こういう問題を見ていく上で、森明子編『ヨーロッパ人類学』(新曜社、2004)などのアプローチはこれからいっそう有意義になるかも。「ヨーロッパについての人類学?それって地域研究とかが昔からやってきたことじゃないの?」なんて野暮なことは言いっこなし。西欧出自の人類学のアプローチを西欧自身に意図的に向ける……その反転の構図から「西欧」の輪郭が浮かび上がってきたら儲けもの、というところだ。

今回のキプロス問題との関連では、トルコのEU加盟問題の絡みも当然出てくるだろうし、そうなると、特にドイツなどに大量に入っているトルコ系移民の問題がまたクローズアップされるかもしれない。同書所収の石川真作「ヨーロッパのムスリム」でも言及されているように、歴史的にフランスがまず国家ありきの国民化を図ったのに対して、ドイツはまず民族ありきとして、文化一体性を国民の基礎に置く。そうした大きく二種類にわかれるナショナリズムが錯綜しながら移民問題が織りなされているわけで、とりわけ「ムスリム」の問題は難しい。上の論文では、日常的に潜在的「他者」として暮らすイスラム教徒の事例研究が必要だと説いているが、例えばアガンベン的に言うなら(『ホモ・サケル』、邦訳は高桑和己訳、以文社)、宗教的身なりなどの彼らのあからさまな「しるし」に、実は西欧人自らが置かれていながらそれとは認識されていない一般化した例外状態(むき出しの(=なまの)生を国家的・共同体的なものに絡め取られてしか存在できない状態)への批判を読みとることもできる、と。けれども「そうか、俺たちも実は立場は同じかもしれない」などと西欧人は容易に反省したりはしないだけに、その批判はまさに茨の道か。

投稿者 Masaki : 14:20

2004年04月22日

言論と自由?

バンコクのAsia Timesの16日付けの記事は、いわゆる「ジハード・サイト」の増大について伝えている。要するにイスラムの「聖戦」プロパガンダのサイトで、ニュースポータルを装っていたりするらしい。問題はそれらがイスラムのイメージを大幅にゆがめていることだという。一方フランスでは、原理主義系のイスラム教宗教指導者が「夫に忠実でない妻を殴ってよい」と発言して国外追放になっている。これらの事例から再浮上するのは、一つには言論の自由をどこまで認めるかという議論。上のAsia Timesの記事の末尾にもあるように、「言論の自由は、民主主義ないし人為的に定められた法に従う場合のみ認められるらしい」というのは、西欧世界を中心に広く認められたスタンスだけれど、政教分離ですらないイスラム世界の場合には、そういった「民主主義的スタンス」に立脚する価値は、そもそも有効になりえないのかもしれないのだ。このあたりの話については、井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波書店)が重要な視点をもたらしてくれる。もちろん、現行の問題の多くは原理主義的な誇張によって突きつけられているのだろうけれど、そもそもの根底に、西欧が作り上げた民主主義的なものへのまったくのアンチテーゼがあるのだとすると、それは言論の自由に関わる議論も含めて、もっと微妙な問題を開くかもしれない……うーん、イスラムはやはり探求に値するような大きな謎だ。

投稿者 Masaki : 11:59

2004年04月17日

人質をめぐるディスクール

先に解放された日本人3人に続いて、夕方には残る2人も解放の報。いずれもイスラム聖職者協会の尽力だというが、イスラム社会での聖職者の影響力は相当なものだということを改めて認識させられる。それにしても今回の人質事件、被害者の実家への嫌がらせのせいで、外国人記者団の前に立った時に歯切れが悪くなってしまっていた家族らの反応に、ドイツの記者が「(脅されて)発言できないなんて、自由な国ではないみたいだ」と述べていたのが妙に印象的だった。人質を取って脅すのが野蛮なら、嫌がらせをして脅すのも十分に野蛮だ。「イラクに行きたいなら自己責任でどうぞ」などと言っている政治家も、「国のやり方に反するな、乱すな」と暗に脅している意味では大して違わない。

今回の事件では「自作自演説」まで出たが、大体、自作自演かどうかの検証など、本来後から行えばすむこと。救出のために手を打つことの妨げになどならないはずなのだが……。そんな説まで出るのは、一つには人質という行為そのものが、きわめて「物語」的な行為としてあるからかもしれない。「人質の考古学」というわけではないけれど、ホメロスの『イーリアス』から始まって、中世の武勲詩、伝承、昔話、民間説話など、様々な物語に「人質」は事欠かない。物語を駆動するのが「喪失したものの奪回」であるとするならば、人質はまさに最も一般的なその具体例であり、下手をするとそれは物語の本質に関わっている形象かもしれない。今回、為政者たちまでがそういう自作自演説に振り回されたのが本当だとするなら、それは彼らがそういう「作り物としての物語性」に敏感に反応したことの証拠だ。で、さらに言えば、普段からなんらかの物語の産出に関わっていなければ、その種の反応は出てきにくいはず。彼らが作っている「物語」とは、つまり広義の情報操作、ということにもなる(情報を操作する側は意外と情報に操作されやすい)。その場合の「物語」が恐ろしいのは、上の被害者家族への嫌がらせのように、それに感化され同調した一般人らが、野蛮な行為に及ぶ可能性があるから。そしてますます自由の余地が狭まってしまうからだ。

投稿者 Masaki : 23:33

2004年04月13日

媒体は壁のごとくに

イラクで起きた日本人の人質事件。彼らが脅される映像の最も危機的な場面は、BBCもF2も流したものの、日本では「人道的配慮から」ということで完全に自粛。あるいはこんな映像が流れては、自衛隊撤退議論がもっと大きくなるとの判断があったのかもしれないが、いずれにしてもこの自己検閲は、日本の報道が他国の報道に比べて、映像のインパクトを殺ぎやすい土壌にあることを改めて思わせる。無害な映像ばかりを流す日本のテレビは、事なかれ主義をいっそう助長するばかりだ。アルジャジーラに映像を送ったテロリストたちも、よもや当の日本でその映像が完全には伝えられないなどとは、思ってもみなかったろう。もちろん、BBCのニュース報道などはネットで見ることができる。けれどもテレビとは社会的影響力が違いすぎるし、ネットで見る際のコーデックのフォーマットは、これまた別の意味で映像のインパクトを殺いでしまう……。

外相がアルジャジーラで流したという解放を訴える映像も、日本のテレビでは満足に流されなかった。断片的に放映された部分はまるでプロモーションビデオのようだったが、解放(あるいは交渉?)を訴える映像はそれでいいのか?アルジャジーラが何をどう伝えているのかもさっぱり見えない。その報道スタイル、傾向、実質的な影響関係(資金元、圧力団体、政治的影響力)など、この媒体をめぐる総合的な分析とか、誰かやっているのだろうか?狭義の「メディア論」は本来そういう具体的な問題に関わるもののはず。メディアをめぐる「実学」も、やはりどうしても必要なのだが……。

投稿者 Masaki : 17:19